2016年5月1日


「不正の富で友を作りなさい」
ルカによる福音書 16章1〜13節

1.「はじめに」
 イエスが話された話の中でも理解が難しいところです。8〜9節はとりわけ難解です。「不正な管理人を主人は褒めた」とか「不正の富で友を作りなさい」とか。あまりにも難しく誤解も多いために、例えば、この9節までのところだけを捉えて、不正の富を得ている悪い人の財産で貧しい人に施しをするのだから不正な財産であるなら奪い取ってしまっていいという間違った理解もかつてあったようです。しかしここでもイエスは神の国とその義を私たちに伝えてくれていると教えられます。
 前半はたとえ話。それを受けて後半がイエスご自身のメッセージです。まず大事な点は、この文脈です。1節で「イエスは弟子たちにも話された」とありますように、これは続きです。つまり会いに来た罪人を快く受け入れて一緒に食事をされたイエス。しかしそれを喜ばず受け入れず蔑んで見ているパリサイ人や律法学者たち。それに対してイエスは三つのたとえ話を話されたというのが15章でした。そのたとえ話のメッセージは、神は失われた人を捜しておられ見つけてくださる。そして、れは神はそのその罪人たちの罪を責めるのではなく、むしろ彼らを受け入れて「罪を赦される」のであり、そのような人たちのためにこそイエスは来られ、罪人に神の国を与えることこそイエスの福音であり目的であることが現れていました。その「続き」として「弟子たちにも」とイエスが話されるのです。ですから9節以下、「不正の富」とか、あるいはよくただ律法的、あるいは道徳にしか捉えられない「小さい事に忠実に」という言葉とか、「二人の主人」の話も、それらはどこまでもこれまでの「罪人のために来られ、罪の赦しと新しいいのちを与える」というイエスご自身と十字架と復活による神の国の福音の事を指しているということなのです。15章の罪人を受けれて食事をするイエス、そしてイエスが話された「失われたものを探す「三つ例え」」のメッセージがこのところを理解するための大前提です。

2.「「不正の富」とは」
 まず8節までの例えです。不誠実な管理人の話です。イエスは決して神がこのような彼の行為を肯定しているということを伝えたいのではありません。イエスは第一に、8節に「世の子」と「光の子」と書いているように、「光の子」は信仰者を指しているわけですから、世の子はそうではない、世の人々の様子を表しています。「世は光の子よりも抜け目がない」と。しかしそれがこの例えの伝えたいことではありません。この例えが伝えていることは、この不正の管理人が金持ちである主人に借金なり貸しを負っている人々のその負債を減らし免じてあげているということに他なりません。それによって彼は自分が主人から解雇された時に彼らが自分によくしてくれるだろうと思って行動していることこそ、9節のイエスの勧めにもつながります。そして何よりその「負債を免ずる」というのは、15章の「罪人の赦し」のために食事をするイエスに重なっているわけです。
 けれどもなぜイエスはそれを「不正の富」というのでしょうか。まずその「免除」という言葉。世から見れば、このたとえ話の管理人はどこまでも不正です。主人のお金を、勝手に免じているのですから、「免除」によって生じる、管理人の利益も免除される側の利益も「不正の利益」「不正の富」です。それがこの場面とどう重なるでしょう。このイエスと食事をする罪人たち、彼らはやはりどこまでも罪人たちです。罪人と呼ばれる所以は天から見ても世から見ても当然ありました。もちろん天から見てもです。確かに罪を犯したからこそ罪人と呼ばれていたのです。ある意味、世から見れば「罪人」と呼ばれるのは当然であり、世にあっては正しく裁かれるべき人々であり、そんな彼らをイエスが「赦すことも」彼らが「赦されること」も、「周りの自分は正しいというユダヤ人から見れば」まさに「不正」に見えるわけです。「世にあって」「世から見れば」です。おそらく弟子達でもさえもまだそう見ていた人々もいたのでしょう。なぜならまさにそのようなユダヤ人に放蕩息子の話をされた後に、「弟子達にも」と「弟子達に」このことを話しているからです。周りから嫌われ本当に罪深くそのことをわかっている「罪人」たちは、ユダヤ人社会ではもちろん、弟子たちから見ても神の国から遠い、ここでいう取るに足らない「小さな」存在と弟子たちも見ていたのをイエスは見抜いていたとも考えられるのです。
 けれども、イエスは、その「不正」と思われる「罪の赦し」こそをまさにされてきた、いや神の子ですからその権威はあるし、そしてそのためにこそ世に来られ、だからこそ、罪人たちを受けれて食事をしているでしょう。しかし「世にあって」は異様なこと、周りで蔑む人々にとっては、イエスのすることは「不正」に思えたのです。けれどもイエスはそれこそをなされた。彼らにどこまでも罪の赦しを与えるためにこそ食事をし福音を語られた。そしてそのためにこそイエスはこの時も、エルサレム、十字架にまっすぐと目を向けて進んでいます。なぜならその世にあっては「不正」にも見える「罪の赦し」こそが、神がイエスを通して天から与える真の富であるからなのです。「罪の赦し」は世から見れば「不正の富」、しかし、それは天から見れば「天の恵み」「真の富」なのです。

3.「「罪の赦し」こそ福音」
 ですから、この例えは負債の免除、つまり何より「罪の赦し」こそイエスが与えようとしていることの核心であることを示しているのです。それは15章のつながりから見ればなおさらわかることです。罪人と食事をされているイエス。エルサレム、十字架にまっすぐと目を向けて歩んでいるイエスです。そのイエスが罪人を受け入れて食事をされることや、三つのたとえ話のメッセージにも「悔い改めたなら天に喜びが沸き起こる」とあったように、どこまでもその中心には「十字架と罪の赦しのためにこそ」という一本の線が見えてきます。この例えもまさにその線の上にあります。確かに放蕩息子の例えでイエスが大事なこととして伝えていたのは「離れていた者が帰り父と一緒にいること」と見てきました。しかしそこには父、つまり神が息子に何より与えているものが「赦し」であることを私たちは見失ってはいけません。
 イエスが与えようとしている、いや与えてくださっている素晴らしい救い。それがあるかこらこそ、私たちは安心し喜びをもって感謝して新しく生き生かされていくことができる、その救いの源泉、それは「罪の赦し」です。救いということを他のことと置き換えようとする、間違った歴史もあります。世における繁栄とか成功とか、あるいは「ご利益がある」とか「なんでもうまくいく」「期待通りに行く」とか、そのようなことを「救い」とか「福音」とか表されることが残念ながら確かに今でもあります。そして事実、世の人々にとってはそのようなことの方が分かりやすく、流れていきやすいかもしれないし、人も多く集まることでしょう。逆に「罪と言われてもわからない。何も悪いことをしていない。聞きたくない」というのが世の見方かもしれません。そう見るときに、教会から見たとしても、その「罪の赦し」ということも、実にここでいう「小さなこと」のように見えるのかも知れません。事実そのような理解で「罪」や「悔い改め」、「罪の赦し」を脇に寄せてしまっている教会も現代では多いとも言われます。まさに「小さなこと」として。
 けれども天にあってはそうではありません。神はまさにこのイエスを世に与えてくださいました。イエスを人とならせ、私たちの間に住まわせてくださいました。何のためでしょう。それは世にあっては「小さな」存在である罪人と食事をするためです。罪人を捜し出して、悔い改めに導き、罪の赦しを得させるためです。そしてエルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいる中でこれらのことをされ話されているイエス。それは十字架の死と復活こそをまっすぐと見ているでしょう。十字架にかかって死によみがえることによって、私たちに罪の赦しを与え、イエスの復活の新しいいのちのうちに日々新しく生かすためにこそ、イエスは世にこられたと聖書は語っているでしょう。そこに愛があるとも言っています。使徒ヨハネはこう証ししています。
「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として、御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4章9?10節
 このように福音の素晴らしさと約束を改めて教えられる時、私たちにとってイエスのゆえに、その十字架のゆえに罪赦されていることこそ幸いではありませんか。素晴らしいことです。「あなたの罪は赦されています」とイエスが言ってくださっているからこそ、イエスにあって安心していくことができ平安があります。喜びがあります。それこそ、真の富ではありませんか。その「罪の赦し」は、世にとっては「不正の富」「小さなこと」と見えるかもしれません。しかしこれは天からの宝、これこそ聖書が約束し私たちが受けている救いと命、イエスが命を持って与えようとしてくださった救いの核心だということをイエスは今日も指し示してくださっているのです。

4.「「不正の富で友を作りなさい」と「小さなことに忠実であること」」
 ですから、不正の富から友を作りなさい。それはその世から見れば「不正の富」である「罪の赦し」こそをあなたがたは隣人にしなさいとイエスは弟子たちに勧めているのです。「まさにわたしが受け入れて食事をしているように、弟子であるあなたがたも小さな存在である罪人たちを、蔑むのでも避けるのでもない排除するのでもはない、彼らを受け入れて、あなたがたが赦されたように、あなたがたも彼らを赦しなさい。一緒に食事をしなさい。」ーこれがイエスが弟子たちに、つまり私たち、教会に伝えたいことに他なりません。そしてやがて皆、神の前に立つ時がきます。しかし自分が罪赦されたものとして人を赦していく人は、もはやその「富」がなくなるとき、つまり罪も罪が赦されることも必要のない天において、他の罪赦されたものとともに永遠の住まいに入ることができるのだとイエスは約束してくれているのです。 
 ですから10節以下、「小さなことに忠実であるように」という言葉もわかるのです。もちろん道徳的律法的な意味合いを重ねても「小さなことに忠実である」ことは大事なことです。けれどもここではまさに小さな存在であるそのような「罪人」こそを受け入れ「隣人愛」を表すことがまず一つです。そしてもう一つのこととして、教会の歴史を見てきても、イエスのこの言葉は実に預言的です。何が一番、教会において誘惑であり、逸れてきたのかを見ていくときに、サタンの一番の攻撃の対象は、福音でした。その福音はもちろん、今日見てきた通り全くの恵みである十字架の福音、罪の赦しです。しかしまさにその罪の赦しこそ「小さなこと」とされ、世にあっては人の目に大きく見えることが福音であるかのように教えが逸れてきた、それとの戦いが教会の繰り返される歴史でした。今もそうです。何が小さなことなのでしょう。それは世にあっては小さなこと、しかし天にあっては輝ける救いの光。全くの恵みである十字架の福音、罪の赦しであるということです。そのことにこそ忠実であるようにとイエスが私たちに望んでいるのです。「あなたがたは罪の赦しこそ、赦された恵みと喜びと平安こそを証ししなさい。伝えなさい。いや、あなたがたもわたしが赦したように隣人を赦しなさい。それこそ小さなことに忠実なことなです。福音に忠実でありなさい。」ーそう伝えてくれています。そして私たちが世が蔑む小さな存在こそ大事にし、そして十字架の罪の赦し福音にこそ忠実であるからこそ、神は「まことの富」を任せてくださるとあるのです。「世の富」と読み込まれ理解されることが多いですが、「まことの富」とあります。それはもちろん見えるものはもちろん、そればかりではない見えないもの、例えば「信仰」もそうでしょう。あるいはパウロやペテロは言っています。「艱難や試練さえも」と。そのように私たちの思いをはるかに超えてすべてのもの、艱難試練さえも恵み、神が私たちに任せる「まことの富」だと言えるでしょう。世の富にはるかに勝る本当の富を、イエスは約束してくださっています。

5.「結び:二人の主人で仕えることはできない」
 このようにこの難解なイエスのメッセージを見てきましたが、私たちが招き入れられている神の国の幸いこそイエスが伝えたいことです。しかしそれは世と逆説的です。世から見れば不正や小さなことと思われることにこそ、神の目線があり目的がありました。まさに罪人を挟んでのイエスとパリサイ人たちの様です。私たちはイエスの目線、目的から見ていくときに神の国がいかに素晴らしいかが示さてきます。しかし世的な目線では、イエスが与えようとしているものは不正や小さなことにしか見えないでしょう。このことは、神の御心と約束として私たちに与えられている「みことば」の大事さを伝えています。み言葉は、神の目線、神の心のメッセージだからです。ですから13節の最後の言葉は「世を見てはいけない」という勧めではありません。むしろ私たちは世につかわされ、世を愛するため、世の人々に仕えていくために、社会や家庭にも召されているものです。ではここでイエスが伝えたことは何でしょう。それは「神を愛する」ということです。しかしそれは世を愛することと矛盾はしません。ここではイエスは「主人」という言葉を使っています。それは「信頼と服従」の拠り所です。そして「富に」ともあります。つまりあなたがたは世を、いやむしろ「富」を主人、拠り所、主人のことば、いのちのことばとするのではなく、神を主人とし、拠り所とし、その主人のことば、聖書をいのちのことばとするようにということに他なりません。神か富か、その両方を主人にしたり、拠り所にはできません。世を、あるいは富を主人とするなら、神を主人とはできないのです。むしろ聖書が一貫しているのは、神を主人として、その主人が私たちを愛し罪を赦してくださり、その私たちも世をも赦し愛し平和をもたらすために遣わしてくださっているという幸いなのです。
 私たちがまことの主人、神に仕え神を愛するなら、つまり神が私たちを救い愛してくださった、罪を赦し受け入れてくださったことが本当にわかり、イエスの十字架こそ救いの拠り所であり喜びであり感謝であるなら、私たちは赦してしていくのです。隣人を赦すためにこそ私たちは赦されました。そこに天の与える平和が広がっていくためにです。それが私たちが召されているところなのです。ぜひ私たちは何より罪赦されている喜びを今一度確信して、今日も喜びと平安に満たされて、私たちも赦されたからこそ罪を赦し、愛されたからこそ愛し、ここから遣わされて行こうではありませんか。