2016年4月24日


「家に入ろうとしない兄のために」
ルカによる福音書 15章25〜32節

1.「はじめに」
 「放蕩息子のたとえ」には、他の二つのたとえ話とは異なる特徴があるのです。それはイエスは、「二人の息子」のたとえ話をしているということです。ただ放蕩息子の話だけをしたいのであるなら「二人の息子」という必要はなく「一人の息子」と言えばいいだけです。けれどもイエスは「息子が二人」と話し始めました。そして弟が帰ってきてその祝宴で、たとえ話を終わりにしなかったわけです。この後、お兄さんのことをイエスは話し始めるのです。そこにも意味があるのです。しかしこのところを見てくるとわかるように、神にとって子供に対して大事なことは、弟も兄も全く変わらない、共通のメッセージが込められているのです。それは神と私たちの関係において大事なことは、神のもとに神と一緒にいることなのだということに他なりません。

2.「兄」
「ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。」25節
 この「兄」は、何を指しているでしょう。お兄さんは、お父さんの言葉、命令に従って、忠実に働いています。この日も畑にいて一所懸命働いていたわけです。お兄さんは、そのように、これまで神の律法に忠実に従ってきたイスラエルの敬虔なユダヤ人たちを指しています。この場面、イエスのもとにやってきた罪人たちをイエスが快く受け入れて食事をしているのに対して、「なぜイエスは、罪人たちを受け入れて食事までするのか」と蔑むユダヤ人たちがいました。彼らは罪も犯さないで、神の律法に忠実に従うことを努力してきて、自分で従ってきた正しいと自負する人たちでした。「兄」というのは彼らを示ています。
 お兄さんは、お父さんの言う通りに家のために一生懸命働いて帰ってきました。けれども家からは宴会の楽しそうな騒ぎが聞こえてきました。お兄さんは最初何が起こっているのかわかりません。そして僕に何が起こっているのか聞くのです。その僕は答えます。「弟さんが帰ってきました。無事な姿で迎えることができました。ですから、お父さんは喜んで、最上の子牛で料理を作り、宴が始まったのです」と。
 それに対してお兄さんは、喜びません。怒るのです(28節)。そして家に入ることも拒みます。この時、家に入ることを拒んでいるというのは兄の意志です。しかも怒りに任せてです。そのようにこれも父への反抗です。ですからこの場面は、実はお兄さんも父のもとから、距離的には遠くへではありませんが、やはり「離れていった」ということでは全く弟と同じことをしているのです。何より「家に入らない」のですから、その思いは父に対して、つまり父への「怒り」ですから、その兄も、父から遠く離れてしまっているのです。
 このように周りで、自分は神のために一生懸命やってきたと自負しながら、この罪人を蔑み、批判し、そしてそれと一緒に食事をするイエスを蔑む、この敬虔なユダヤ人もまた、彼らは正しいようで、実は、神から離れてしまっている一人なのだということをイエスは私たちに伝えています。

3.「愛を忘れた行い」
 これまで彼らは立派に一生懸命に従ってきました。けれども同時に隣人への批判や裁きが彼らにはいつもありました。それは神の愛を忘れてしまっている証しです。神が旧約の時代から変わることなくいつでも求めておられたことがあったでしょう。イエスも言っている通りです。それは「神を愛し、隣人を愛する」ということでした。イエスは、この二つの戒めに、律法、十戒は要約されているとも言っています。このように神の人類、私たちへの御心は、単純です。それは神を愛し、隣人を愛しなさいなのです。これに尽きるのです。どんな理由があっても、あるいは、どんなに立派な行いをしたとしても、隣人を愛していないなら、それは神を愛していないことにもなり、神のみこころに反していることになるわけです。しかも、神は、十戒を与えるときにもわかるように、「わたしがあなたがたを救い出した神である」という恵みから与えているように、つまり本当の愛のわざは、神に愛され、救われていることがわかるからこそ、神を愛し、隣人を愛することができるし、むしろそのような神の愛を本当にわかっているのなら、その人は、神を愛し、隣人を愛するのです。愛せずにはいられないのです。使徒ヨハネは「隣人を愛さないものには、神の愛はない」とも言っています。このように本当の良い行い、本当の忠実さというのは、神の愛から出る愛の行いなのです。だからこそ本当の良い行いと隣人愛には喜びと平安が必ず伴うのです。
 しかし、彼ら、敬虔なユダヤ人たちは確かに一生懸命に従ってきましたが、周りのできない人に蔑みがありました。批判や裁きがありました。そしてイエスの所に悔い改めてやってきた罪人たちを見て彼らに「喜び」がなかったでしょう。不平と蔑み、裁きがあったのです。イエスに対してさえもです。しかしそれは、どんなに彼らの行いが立派でも、それが愛からの行いではなかったことを証明してしまっているわけです。それはまさに神の愛から離れてしまて神の恵みを忘れてしまっているからなのです。客観的に見て、現代人にとってもどうでしょう。裁きや批判は自分が正しいと思っている人から出るものですから、当然そこにはその人の、人と比べての優越感もあるわけです。しかしそれはつまり自分の正しさの根拠が、神の恵みではなく自分の見える行いそのもの、しかも自分より劣っていると自分が思う人、自分の理想に合わない人と比べての優っていると思われる自分や自分の行いに、その批判の根拠があるわけです。しかしもはや神はそこにありません。神の愛も恵みも心にはありません。ですから彼らの蔑みは神の愛と恵みの欠如であったのです。
 兄の父への怒り、弟への怒り、父の家に入ろうとしない様はそのことを示しています。イエスは実に見事に重ね合わせています。しかしお父さんはどうでしょう。幸いです。

4.「父が出てきた」
「それで、父が出てきて、いろいろなだめてみた」28節
 「お父さんが出てきて」とあるでしょう。みなさん、「お父さんが」「お父さんの方から」出てきたのです。このようにお父さんがその怒っている兄のところに来たというのは、何かに重なっているでしょう。そうです。帰ってきて弟を遠くに見つけて走り寄ったお父さんの姿です。どちらも「お父さんが」「お父さんから」だということがわかるでしょう。
 このようにです。イエスは確かにパリサイ派の人々や律法学者には厳しいです。皮肉たっぷりにも言ってその傲慢な姿勢を戒めます。けれども神がイエスを送ったのはこの彼らのためにも送ったのだということがこのたとえ話からはっきりとわかるのです。お父さんは、兄のためには出てこないで、自分から悔い改めて入ってくるのを待つとは書いていないですね。そうではなく「お父さんから出てきて」とイエスは言っているのです。しかもお兄さんはまだ高慢で悔い改めてもいません。しかしお父さんは兄をいろいろなだめるためにさえ出てくるのです。その通りにイエスの厳しい教えの中にも、彼らに神の恵みをもう一度教えよう、気付かせようと意味が込められていたこととも重なっています。彼らは決して敵ではないのです。やはり彼らのためにも来たんです。イエスは。
 しかし兄は怒りをおさめません。お父さんに主張します。29?30節
「しかし兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに支え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません。それなのに、遊女に溺れてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」
 兄の父への不満であり怒りです。忠実に戒めに従ってきたのに、破ったことは一度もないのに、あなたは何もくれなかった。楽しめと言って安い子山羊一匹さえくれなかった。それなのにこんな放蕩を尽くした息子には、高級な子牛で宴会まで開くのかと。もっともなように思います。彼の言い分も理解できると。けれども兄はお父さんの命令とお父さんの財産を守ることは見えていますが、まさにお父さんの心が見えていないのです。そして、その服従と忠実さ、そこには「楽しみがなかった。喜びがなかった」ーそのような服従であったことを示唆しています。

5.「父にとって大事なこと」
 しかしどうでしょう。お父さんは兄に優しく諭して大事なことを思い起こさせます。
「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつもわたしといっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」31節
 と。みなさん、お父さんにとって、つまり神にとって何が大事であり、何が望みであり、何を私たちに望んでいるのか。本当に大事なことは一体なんであるのか。それは財産云々ではないと言いました。弟のように財産を浪費してしまったことが問題なのではない。また兄のように「父の戒めと財産を、一生懸命、自分が守らければならない」ということでもない。神にとって大事なことは、私たちが財産をどうこうすること以上に、子が父と「一緒にいることだ」と見てきたではありませんか。神にとっては、財産を失ったこと以上に、子が遠く離れていったこと、子が自分に背を向けて父の家を否定して家を出て行ったこと、それこそが大問題であり悲しみであったのです。そして大事なことは「いっしょにいること」であり、だからこそ「帰ってきた」のを父は純粋に喜んでいるでしょう。兄に対してもお父さんは一貫しています。大事なことは何か、この言葉には現れています。
『子よ。おまえはいつもわたしといっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」
 「いっしょにいること、それがお前の素晴らしいことなんだ。何をしたから愛しているのではないよ。子供だから愛しているし、子供だから、財産を分け合えた、その財産は当然、お前のものだし、わたしのものは、いつもわたしと一緒にいたお前のものでもあるのだよ。」ーお父さんの兄への深い愛もわかります。そしてそれこそ、兄さんが忘れてしまっていたことでした。父の愛、そして、父の恵みです。このように神にとっては、神の愛と恵みのうちに一緒にいることが全てであり、一緒にいるということは、それは父のものは全て子のものとして、神はもう与えてくださっているということなんです。しかも「いつでも」「なんでも」です。神の思いはむしろ「一緒にいるなら、自由に使って、喜び楽しんでいいんだよ。私は何よりあなたと一緒にいることこそ喜びであり、あなたが私の財産で、救いを喜んで生きることこそ私の望みなのだから。」ーそれが神の人類へ、私たちへの思いなのです。
 イエスは、自分は正しいと自負して他人を蔑み裁くユダヤ人たちにも、忘れてしまっているのは、神の愛と恵みであることを思い起こさせようとしています。彼らにとっても何よりの幸いは神が共にいることであり、神が豊かに与えてくださっているということなのです。しかしその大事なことを見失ってしまったからこそ、自分のわざや誇りや名誉が重要になりました。神の恵みという拠り所を失ってしまったために、律法を与えた神の恵みではなく、戒めを守っている、守れている自分の行いが拠り所となってしまいました。しかも他人と比べてです。優越感こそ彼らの心の満たしにすり替わってしまっていました。
 けれどもイエスは「そうではないのだよ」と、この例えで教えようとしています。「一緒にいることこそ、幸いなんだよ。それだけでいいのだよ。私のものはあなたのものだから、全ては与えらえれているんだよ。私と一緒にいて、私を恐れるのではなく、私と一緒にいることこそを喜んで、安心して、その財産を喜んで使い楽しみなさい。」と。

6.「喜びは恵みからー陥りやすい両面(兄と弟)からの回復のために
 ですから、こう結んでいます。
「だがお前の弟は、死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
 と。一緒にいるべき弟が帰ってきた。それは死んでいたのが生き返ったのに等しい。私の喜びは子が一緒にいて、子が離れてないでそばにいること、そうであるならまさに今こそ喜ぶべき時ではないかと。そしてこれはそのまま家に入ろうとしない兄への説得でもあるわけですから、「お前も一緒に家に入って、共に喜ぼう」というお兄さんへの招きなんです。
 神の素晴らしい愛と恵みが本当によくわかります。私たちは、どちらにもなってしまう存在です。兄も弟もまさに誰にでもある両面を表しています。弟のように、神から離れて、財産を無駄にしてしまう性質もあれば、兄のように、神から離れて高ぶってしまい自分に義の根拠があるかのようになってしまい、裁いたり蔑んだりしてしまいやすい性質。クリスチャンであれば、誰でも経験する両面です。
 しかし私たちにとって一番大事なことを教えられています。神から遠く離れないこと、神と一緒にいることです。私たちは皆、失われた一人一人です。神と一緒にいても、私たちは離れていきやすい性質を持っています。しかし神はいつでもそのような私たちを決して見捨てない。いつでも探している。見つけ出してくださっている。手を伸ばしている。遠くに見つけて走り寄って口づけしてくださる。そして家に入ろうとしない私たちを神は私たちのところにまで来てその言葉で説得してくださっている。いつでもそのように神は愛のみことばを持って、教え、戒め、招き、その食事に、宴に招き入れてくださる。そして最上のものを与えてくださる。いや神と一緒にいるなら、私たちの負い目と罪はキリストのものとなり、神のもの、キリストのもの、キリストの死と命は、私たちのものとなり、神の財産は全て私たちのものなのです。私たちはその神の愛と恵みを喜ぶものです。喜んで、神を愛し、隣人を愛するために召されています。隣人を蔑み、裁くために召されているのではありません。喜んでその神の財産を使って楽しむことです。神の愛と恵みを受けて、喜びと感謝を持ってそれを隣人のために用いることなのです。ぜひ私たちはいつでも離れていることに気づくとき、キリストにあって、神のもとに帰ろうではありませんか。そしていつでもキリストにあって神の愛と恵みを確認し、神からすでに豊かに受けていることを感謝して、隣人のために用いさせていただこうではありませんか。