2016年4月17日


「失われた息子を捜して」
ルカによる福音書 15章11節

1.「はじめに:背景」
 この「父と子」のお話は、イエスが話した「たとえ話」です。たとえ話ですから、このたとえ話を通してイエスが伝えたいことがあるのですが、それは神の私たちへの愛です。イエスはわかりやすく伝えてくれています。
 イエスはこのお話の前に他に2つのたとえ話を話されました。同じようなたとえ話で、共通のテーマは「なくしたものを探す」ということでした。イエスがそのように同じ内容を3度繰り返して伝える、そのきっかけが15章の最初にありました。イエスの元に、罪人と呼ばれる人々が近寄ってきました。彼らは、社会からは蔑まれ、嫌われている人々です。彼らはイエスと話をしたかったのです。けれども一般的なユダヤ人達はそのような人々とは交わりをしません。それにも関わらずイエスはその人々を快く受け入れて一緒に食事を始めたのでした。それを見ていたユダヤ人たちはイエスを蔑んで言うのです。「この人は、罪人たちを受け入れて食事まで一緒にする」と。それに対してイエスは三つのたとえ話をしたのでした。最初のたとえは、100匹の羊を持っている所有者は、もしその中の一匹がいなくなったら見つけるまで探しにいくではないかと。二番目のたとえ話は、女性が銀貨十枚を持っていて、そのうちの一枚をなくしてしまったら、明かりをつけ家中を掃いて探し回るではないかと。どちらからも、神はその罪人たちを失われた存在と見、そのような失われた存在である罪人を排除するのでも、見捨てるのでもなく、探して見つけ出したい、そして悔い改めと救いを与えたい。だからこそイエスはこの人々を受け入れ一緒に食事をするのでした。
 今日のこのたとえ話も同じです。イエスはさらにわかりやすくするために、今度は「父と子供の関係」にたとえて話すのです。

2.「父と子」
「またこう話された。「ある人に息子が二人あった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代を二人に分けてやった。」
A, 「身代、財産を父は与える」
 父と二人の息子です。イエスは何を意味しているのでしょう。まず「お父さん」は、聖書の伝える「創造主なる神」を指しています。そして「息子達」は人間を指していますが、この「弟」は、この後、見ていくとわかりますように、それは正にイエスの周りで食事をする「罪人達」を指していることがわかります。そして「お兄さん」は、自分は正しいと思っている人々のことを指しています。実は、このたとえ話の後半は、お兄さんのためのメッセージでもあるわけですが、それは次回としまして、今日は弟の方に注目します。
 弟は言います。「身代」つまり「財産」の分け前をくださいと。ユダヤの律法では父が死んだ後に、三分の一の財産をもらうことができることになっています。弟は父がまだ生きているのですが財産の分け前を求めるのです。お父さんはその通りに兄にも弟にも財産を分けてあげました。しかしです。13節
「それから幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国へ旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」
 この「財産」というは、父からの贈り物だということです。息子が苦労したとか、何かをしたから得られたものではありません。ただ父の息子というだけで父が自由に与えるもの、ただで受けることができるものです。このことは、聖書が伝える「神様と人間の関係」を表しています。それは私たちはすべてのものを神から与えられているということを意味しています。命も家族も持っている財産も、それは、神からの恵みであり、私たちは実は、神から「与えられ」生かされているのだ、ということが、聖書が伝える神様と私たちの関係なのです。「財産」はそのことを指しています。
B, 「父は祝福を願って」
 しかし弟はどうでしょう。その財産を受け取るなり、数日も経たないうちに、その財産を持って、遠い国へと去っていくのです。父の元から離れていくのでした。確かに与えられた財産は、弟のものでしょう。自由に使っていいのかもしれません。けれども、お父さんは、その与えている財産を、決してそのように放蕩し、あっという間に使ってなくなるために与えたのではないはずです。命にせよ、何にせよ、不幸になるために与えるお父さんはいないはずです。何より子供の幸福と祝福のためにこそお父さんは財産を与えるでしょう。この話は「財産が惜しい」という問題ではないのです。父が与える、その父の子への思いこそ中心です。なぜそうであるのかはこの後分かるのですが、お父さんにとっては、たとえ子が大きくなっても、たとえ財産の分け前を得るほどになっても、大事な子供です。そして大事な点は、「財産を与える」ということ、「与える」「与えられている」ということは、お父さんは子供の幸せと祝福を願っているということなのです。そしてそれは何かをするから子供であるのではない、何かをするから祝福するのではない。自分の子供だから無条件に子供であり、子供だからこそ与える、祝福を願って、なのです。
 これは私たちの親子関係もそうではないでしょうか。何かができないから、子供ではないとか、これができないから子供のためにしないという冷たい親はいないはずです。ですからイエスが三番目に「親と子」の関係から話されるのは実に意味深いです。神と私たちの関係もまさにそうだということなのです。神は、私たちに確かに命を与えてくださった。神が命を与えてくださったから人は、私たちは皆、生かされ、生きている。その神は、聖書の初めには、私たち人類の命と生を見て、「祝福された」とあり、「非常に良かった」と言われたともあります。そしてその時から神は、私たち人間といつも共にあり、いつも語りかけ導いておられた、いつも心配して必要を満たしてくださったと、聖書は伝えています。そのように、神と人間、神と私たち一人一人の関係は父と子なのです。そしてこのたとえ話のように、父は子が何かしたからではない、ただ自分が命を与えた子だからこそ愛し与えてくださる。その子の祝福と幸福を願って、受けるべきすべてを与えてくださった。イエスはまずそのことを伝えているのです。
C, 「弟は父から離れ遠くへ」
 しかし弟の方は、その父から遠く離れていった。お父さんに、その父の家にまったく背を向けてです。そしてそのお父さんの願いを踏みにじるように子は、そのお父さんからの財産を湯水のように使ってしまった。「放蕩し湯水のように」という言葉がありますが、「向こう見ずな」「無謀な」とか「大胆気ままに」という意味で、それは道徳的な堕落を意味してもいます。まさに父の財産を無駄にした弟なのです。

3.「何が失われたのか?」
A, 「財産が失われたから問題なのか?」
 しかしです。私たちは、この話から、財産の使い方や、財産の浪費、財産を無駄としたことが大問題であるかのように思うかもしれません。「なんというもったいなこと」を、そう思いたくもなります。あるいは父に対する不敬を見、「なんと親不孝な」と。もちろんそのことも問題ではあるのかもしれません。ですがイエスがここで注視しているのは、実は、財産の浪費以上のことです。ここでも「失われたものを探して」ということがこの話にも貫かれていますが、失われたのは「財産」ではないということです。ここでイエスが伝えることとして何より問題なのは、つまり神の一番の悲しみは、子が父の愛と思い、父の祝福を忘れ、背を向けて、父の思いも言葉もないかのようにして「父から遠く離れていったこと」です。つまり失われたのは「財産」ではなく、この「弟」なのです。それこそが中心です。そしてそれはまさに周りの「罪人たち」を指しているのです。
 この周りの罪人たち、確かに罪を犯したことでしょう。社会ではそのように蔑まれるのは当然のことであったでしょう。なぜなら罪を犯したからです。その罪は重大です。その通りなのです。それはまさに神から与えられた命、人生を間違ったことのために用いて、人生を無駄にしてしまっています。しかし彼らの問題も実は何より「父から遠く離れていった」ことにあるのだとイエスは伝えようとしています。まさにこの後、父は何を望んでいるかが見えてきます。それは財産の回復なのか、子に財産を弁償させることなのか、財産を無駄にしたからと子を罰することなのか。この後、父は何を子に見るでしょう。
 そこで父の思い、神の思いが分かってくるのですが、14節にある通りに何もなくなり周りの環境も飢饉で最悪になります。食べることもできなくなり、弟はある人に身を寄せますがその人は豚の世話をさせます。弟は、もうひもじさのあまりに豚の餌で腹を満たしたいとまで思います。豚よりもひもじく貧しい状態です。もうどん底で救いようのない様を表しています。見捨てられた状態です。もちろん彼自身の責任なのですがもうそこまでどん底です。しかし、
B, 「忘れていた父を思い出して」
「しかし、我に返ったとき彼は、こういった。「父のところには、パンの有り余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに私はここで、餓死しそうだ。」17節
 彼は我に返って、彼は何を思い出すでしょう。お父さんです。忘れていた、いやお父さんのところが嫌で、お父さんに背を向け、お父さんの思いも否定し、お父さんの言葉も制約も何もないところに勝手に出て行った、そのお父さんです。彼はお父さんを思い出すのです。そしてお父さんのところにはまさに豊かにあって、その豊かな中から自分は与えられてひもじくなかった。満ち足りていた。しかし今は飢えて死にそうである。父を離れ自分勝手に生きた果ては、満ち足りない飢えと死の状態である。そのことを伝えています。まさに罪人は自分勝手な道に行き、罪を犯しました。しかしそこに満ち足りるものは何もないでしょう。そうなのです。罪の結果はいつでもそうです。罪の自覚の前に彼らは魂と愛の飢え乾きを覚え、死と裁きの恐れにあり、まさにその状態は豚以下の自分であり、彼は苦しみ全く希望を失っていたことでしょう。けれどもだからこそ彼らはイエスのもとにやってきたのです。18節はこう続いています。
「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に、罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
 周りで食事をする罪人たちはまさにこの放蕩息子の思いでやってきたことをイエスは意味しています。そしてその心を見抜いています。彼らの思いは後悔です。罪を悔いて、神に赦してほしい、助けてほしい。それでも赦されないかもしれないという思いさえ持っている。それでももう僕でも召使にでもしてでも自分が無駄にした人生を何とか償いたい。その微かな消えるような灯火と圧倒的な絶望の中で、彼らはイエスの事を聞き、そのような思いで罪人たちはイエスのものにやってきたことがこの息子には現れています。そしてイエスはそれを知っているということです。それに対して父はどうであるのか。
C, 「失われていた息子を捜して」20?24節
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着させなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」20?24節
 皆さん。お父さんは、息子を怒って裁いたでしょうか。息子に「財産を返せ、財産を回復しろ、償え」と言ったでしょうか。「自分の思いを踏みにじった」と責めたでしょうか。そうではありません。財産を惜しいと思いません。財産のことなど忘れています。このようにこの話は財産のことが重要なのではありません。お父さんは、息子が帰ってくるのをいつも探して待っていました。失われた羊、なくした銀貨1枚と同じです。お父さんは探しているのです。失われた子供を探しているのです。帰ってくるのをです。このように「遠く離れていったこと」が父にとっては大問題でした。悲しみでした。子供が祝福を拒んで行って不幸になることが何よりの父の苦しみであり心配であったのです。そのことがわかるのではないでしょうか。そして遠くに息子が見つかると、お父さんはかわいそうに思い、お父さんの方がその息子のところに走って行き、無条件にその子を抱いて口づけするでしょう。
 お父さんは「子供が失われたこと」こそ大問題でした。お父さんは探しているのです。そして見つけたら走り寄りその子を自分のものとして回復する。三つの例えは一致しています。そしてイエスが何より伝えたいこと。それは神は失われた罪人を探して救い出すこと、その子を見つけて走り寄り抱き口づけすることこそ神の思いであり目的であるということです。そしてそれが人類一人一人、私達一人一人への思いと愛であるということなのです。

4.「帰るのを神は捜している」
 皆さん。聖書は私たちに語っています。私たちも実は、皆、神から離れているなら失われた一人一人だと。神はそう見ています。離れているからこそ、あなた方は迷っていると。皆さんは人生に迷っていないでしょうか。罪ということに苦しみはありませんか。救いということに不安はないでしょうか。もちろん今は豊かさの陰にあって、そのようなことはどうでもいいという人もいるかもしれません。しかし豊かさは一時のことです。そして死の先に持っていくことはできませんし、死の先を保証するものも何もありません。それどころか、人生そのものについてさえ人は全てを説明できるわけではありません。迷いや不安は誰もがあると思います。聖書は、神はいつでも私たちを愛してくださり、そして祝福してくださることを伝えています。そして神の平安を与えてくださることを約束しています。しかし私たちが不安で絶望するのは、いつも一緒にいていつも愛と祝福を与える安心の神から「遠く離れていった」からだとイエスは今日、教えてくれています。
 そんな一人一人を神はいつでも探しています。遠くにその姿が見えるのをいつでも探していて、むしろ見つけたら走り寄ってくださるのです。そしてこれまでどうであったかどうかにかかわらずに、帰ってきたことこそを喜んで、そしてさらに与えてくださるでしょう。財産を無駄遣いした息子にさらに与えてくださいます。財産云々が重要なことではない。子が父を思い出して帰ってきたのを父が喜んだように、神はどんなに罪深い人であっても、どんな重荷を負っている人であっても、どんなに自分は価値がない、ダメな人間だと思っていても、皆、神の目には大事な羊であり、大事な銀貨であり、大事な大事な息子であり娘なのです。そしていつでもその子が神に帰り神のもとにあり、神の与えるものを受け続けることを神は何よりも望んで願っているのだということをイエスは伝えてくれています。だからこそ、神はこのような罪人と喜んで食事を一緒にしました。彼らを受け入れたのです。このお父さんのようにです。神は私たち一人一人にもそのようなお父さんです。帰るのを待っています。そのまま帰るのをです。そして帰るなら喜んで抱いてくださいます。ぜひ、帰りましょう。