2016年4月3日


「キリストの復活の二つの恵み:今と未来の希望」
ローマ人への手紙 6章4〜8節、第一テサロニケの手紙4:13〜14

1.「はじめに:召天者の証しするキリスト」
 キリスト教にとって召天者は「信仰と希望の証し」であり、私たちの人生がキリストにあっていかに素晴らしく希望に満ちているかの証しです。ですから、この日のこの礼拝も、悲しみのときではなく、そのキリストにある希望を聖書から知り、告白して、安心のうちに遣わされていくことに、今日のこの礼拝におけるイエスの目的があります。ぜひ、その希望を聖書から共に見ていきたいのです。

2.「復活は「今」の恵み」
 「復活」というと、その希望は、未来の事だけを私たちは連想するかもしれません。「死んだ後のこと、未来の復活の希望だ」と。その通りです。キリストにあって未来の希望を告白するのももちろん「復活の約束」です。その通りですが、それだけではないということです。たった一つだけの恵みではない。それ以上に、復活というのは、「未来の」希望と恵みであるのはもちろん、さらにそれは「もう既に」の恵み、つまり「今の」恵みであり希望でもあるのです。
 復活の希望は、未来だけを語っていると思っていなかったでしょうか。実は、パウロはしっかりと「キリストの復活」は、死の先の事だけではないことを伝えているのです。このところは、その中の一部ですが有名な一箇所です。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ6章4節
 「イエスが死者の中からよみがえられたように」とあります。それは「復活」のことです。しかしそれは「私たちも」とパウロは言います。、つまり、それはパウロ自身、そしてその周りにいるクリスチャン、そしてこれを読んでいるクリスチャンを指しています。その時、パウロは死んでいません。生きています。ですから「私たちも」とあるのは、「死んだ人のこと」あるいは「死んだ人に」書いているのではないということです。生きているクリスチャンにあてて、クリスチャンについて書いています。同じ様に、この言葉は時代を超えたすべてのクリスチャンへの言葉でもありますが、今を生きている「私たち」への言葉でもあります。
 パウロは言うのです。その今を生きるクリスチャン、私たちは「いのちにあって」「新しい歩み」をするのだと。それは「イエスが死からよみがえられたように」と。ですからその「いのち」というのはイエスの復活のいのちを指しています。ですからパウロは教えるのです。「私たちは皆、そのイエスの復活のいのちにあって、新しい歩みをするのだ」と。「そのためにイエスは復活されたのであり、私たちは今まさにその恵み、よみがえられたイエスのいのちを、未来ではない、「今」、受けることができるのだ、受けているのだ」と、パウロは伝えてくれているのです。
 これは、幸いなことば、約束です。復活は、決して、私たちとは無関係のことではありません。そして決して、未来の約束だけを指していない。むしろパウロは示します。「今」と。今、この復活のイエスのいのちのゆえに、新しい歩みが、私たち、あなたがたに、今、与えられるのだと。復活は、私たちの「今の」日々の救いと歩みそのものだと、パウロは教えてくれているのです。

3.「キリストの死と復活にあずかることによる新しいいのち」
 そしてこの箇所の前半部分ではこうあります。その新しい歩みは、「キリストの死にあずかるバプテスマよって、キリストとともに葬られた」ともあるでしょう。バプテスマ、洗礼のことが書かれています。その洗礼は「何のためのものか」を伝えてくれています。それは教会の入会式でも単なる儀式でもないと言います。洗礼は私たちがその新しいイエスの「いのちにあって新しく生きるため」の大事な方法であるのだとわかるのです。
 このように、パウロは「復活の素晴らしい恵み」は「洗礼によっていただく恵み」であり、それは古い罪深い私たちが日々、十字架で死ぬと同時に、日々、私たちもよみがえり新しくされ、新しいいのちに生かされることにあるのだと、パウロは私たちに伝えています。クリスチャンとして誰でも関心のある「永遠のいのち」とか「いのちの新しさ」。しかし私たちのいのち「新しさ」はどこに求めるでしょう。聖書は答えを与えてくれているのです。それは私たちが洗礼でイエスとともに「十字架で死に、復活で生かされること」に尽きるのだと。そこにこそ「新しいいのち」があり、私たちの救いの確信があり、喜びと確信と平安があることをパウロは教えてくれています。

4.「洗礼の恵みは日々与えられている」
 このように、復活の恵みは、未来だけではありません。私たちが「今」「今日も」受けている恵みなのです。ですからそれを与えるものとしてここで書かれている「洗礼」も、決して過去の出来事ではないという幸いもわかってきます。イエスは今も、洗礼の恵みである「十字架と復活によるいのち」を現在進行形で絶えることなく与えてくださっていているのです。そのことはどれだけ私たちにとって意味があり、重要でしょうか。このことは、救われてなおも罪を犯してしまう現実にある私たちに「安心」を与えてくれています。私自身そうですが、皆さんも、救われてなおも、自分の不完全さや、犯してしまう罪な行いや思いに苦しむことがあるでしょう。そのような時に、私たちの最大の落とし穴は「救いを疑うこと」です。「自分は神の前でこんなにもダメだ。罪を犯してしまった。だから自分は救われないのでは。救われていないのでは。」ーこれはクリスチャンが誰でも経験する戦いであり、試練であり、誘惑です。「イエスの十字架のゆえに」罪赦され、救われていると聖書が言っているのにです。「自分の罪ゆえ、不完全さ、行いや心の汚れゆえに、救われていないのでは」に私たちはいつでも躓き不安になります。つまりそれは十字架のイエスの圧倒的な恵みを疑わせ、忘れさせてしまっていますし、自分や人のわざに救いの根拠があるかのように思わせてしまっています。しかしその結果は、救いの確信を失い、拠り所を失ってしまいます。そのような疑いの時、もし洗礼とその恵みが過去のことであるとするなら、洗礼に何の希望もなくなるでしょう。ある人は、もう一度受け直したいとか、洗礼を無し、無効にして、受けなかったことにして欲しいとか、そのように言うわけです。あたかも何か自分のわざの洗礼や救いであるかのように。自分の行いで救いが決まるかのようにです。
 でも、聖書の救いはそのようなものではないでしょう。まさに今日のところはそのことに答えを与えてくれています。洗礼を過去のこととせず、イエスは、今も、絶えることなく授け続けていてくださっているのです。まさに罪深い私たちのためにこそ、イエスは十字架にかかって死なれ、よみがえられたではありませんか。そしてその私たちのために「いのちにあって新しく歩むため」とイエスはいい、パウロも書いています。まさにその通りの約束であるのですから、イエスは罪深い私たちのことをご存知でいてくださり、そして、「だからこそその私たちに、いつでもこの恵みを与えようとしてくださる。そのように、罪を私たちが自覚し、苦しみ、悔い改めるからこそ、この洗礼に生き続けなさい。日々この洗礼に生き、日々、イエスとともに十字架にかかって古い人を殺され、そして、イエスがよみがえったいのちにあって、新しく生まれなさい。新しくされなさい。そのように、絶えず十字架と復活のイエスにあって、新しく生かされることこそ、変わることのない平安なんですよ。喜びなんですよ。救い素晴らしさ、クリスチャンであることの素晴らしさなんですよ。」と、パウロはそのように、十字架と復活、洗礼という恵みから私たちを励ましているのです。
 みなさん、今日も復活の新しいいのちのうちに生かされていること感謝ではありませんせんか。今日もあの洗礼の日から変わることなく継続して、私たちにいのちの水が注がれています。今日も、罪にとどまり、罪に救いを疑い不安になる必要もない、洗礼の水をイエスは今日も与えてくださり、古い人に死んで新しく生きることができます。そこには確かに罪赦された確信と、そして平安があるのです。復活のいのちが今日も「すでに」あるのですから。こんな素晴らしいことはありません。

5.「新しいいのち(イエスのいのち)の恵みは絶えることがない」
 そして、幸いなのは、この新しいいのちは、「永遠のいのち」であるとイエスは言っていることです(ヨハネ3:16)。このイエスのいのちは絶えることがないということです。幸いなのは「召天者」たちは、肉体は死んだけれども、天国にあって今もキリストにあって、霊はそのイエスの復活の新しいいのちにあって今日も生かされているということなのです。「死んでも生きる」とイエスは言っているでしょう(ヨハネ11:25)。つまりクリスチャンは天国であっても地上であっても、復活のイエスにあっては、皆、永遠のいのちにあるのですから、今やそのイエスにあっては、天国とこの教会は繋がっていて、同じイエスの前にあるということなのです。理性や常識ではわからないことです。肉の目にあってはピンとこないかもしれません。けれども神の前にあってはそうだということです。そして今日は聖餐式もあります。これはみことばのゆえに確かにイエスのからだと血です。イエスのみことばのあるところにイエスがおられ、イエスが与えてくださる聖餐です。つまりこの聖餐式は、私たちの思いをはるかに超えて、イエスにあって神の国にあるのであり、一人のイエスにあって、私たちは召天者の兄姉たちとともに同じイエスの食事の座にあるのです。私たちの思いでも、物理的にも「地上と天国」で離れてはいるけれども、しかし私たちはみことばとイエスにあっては召天者とともにある。同じ新しいいのちにある。素晴らしいことではありませんか。それも「今の恵み」「今の約束」であるということです。ぜひ天と教会で、今日も召天者とともに私たちは聖餐にあずかることを喜んで与りたいのです。

6.「復活は「未来」の約束と希望」
 もちろん復活は未来の希望でもあります。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなた方には知らないでいてもらいたくありません。あなた方が他ののぞみのない人々のように悲しみにしずむことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じてます。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと一緒に連れてこられるはずです。」テサロニケ第一4章13?14節
 復活の未来の希望は、肉体の復活です。イエスにあっての今の復活の素晴らしい恵みに加えて、未来の希望、それは、召天者、そしてもちろん私たちが死んでもですが、イエスの再臨、そして新しい天と新しい地が始まる時に、皆死から復活して、全く新しい肉体が与えられ、肉体同士で会うことができるわけです。これも素晴らしい希望です。どのような身体かはわかりません。イエスのように「締められた戸を通り過ぎる」(ヨハネ20:19)ことができるような不思議な肉体かもしれませんが、黙示録には「苦しみも悲しみも涙も無い」喜びの肉体のことが書かれています(黙示録21:3?4)。そのような新しい体で召天者の兄姉も、私たちの肉体が死んでも皆復活します。私たちの教会の召天者だけではなくて、パウロやダビデ、モーセやアブラハムとも会うことができるでしょう。そして皆が、体と体、肉体の手と手を取り、私たちは再会できるのです。何より、今ももちろんイエスは聖霊とみことばにおいてともにありますが、復活の体のイエスとお会いできるのは何より幸いな約束ではありませんか。

7.「おわりに」
 この召天者記念礼拝の時を感謝します。聖書が約束する、復活の、今の恵みと、将来の希望。ぜひ、この恵みを信じ、平安を得ましょう。罪の赦しの確信を得て今日も新しくされ、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そしてこの恵みと希望を世に証ししていこうではありませんか。