2016年3月27日


「イースターの恵み」
ルカによる福音書 24章1〜11節

1.「はじめに」
 イースターは、イエスが死からよみがえられたことを記念する日です。この「死からのよみがえり」というのは、人間の常識からはあり得ない信じがたいことです。科学が発展している今においても、人を死からよみがえらせることできません。このように人間にとって「死」は人の前に立ちはだかる圧倒的でどうする事もできない現実なのです。けれども聖書は私たちに伝えています。神はイエスを死からよみがえらせた。そして、神は死ではなく、むしろ「新しく生かす」お方であると。イースターというのはそのような恵みとメッセージを、私達に伝えている素晴らしい日なのです。

2.「復活の日の朝の出来事」
A,「彼女達は「死んだイエス」のところに」
「週の初めの日の明け方早く、女達は、準備をしておいた香料をもって墓についた。」
 それはイエスが十字架につけられて死んで三日目の日の朝、週の初め、日曜の朝の出来事でした。イエスと親しかった女達はイエスの墓に行くのです。そこで「香料を持って」とあります。それはイエスの亡がらに塗るための香料でした。ここでは当然、女達は、死からのよみがえりなど思っていません。彼女にとってイエスはもはや「死んだ人」です。彼女達だけではありません。イエスとともにいた弟子達にとっても、イエスがよみがえるなどと思っていませんでした。実は、イエスは弟子達に前もって「よみがえります」と伝えていました(マルコ14:28)。しかしそれでも、この弟子達でさえも、今日のところの11節にもありますように、イエスがよみがえるなど信じていなかったのでした。
 ここでは女達は死んだイエスの亡がらに会うために、そして「香油を塗る」というその死者の埋葬のための作業をするためにやって来たにすぎないのです。しかしです。
B,「大きな石は転がされた」
「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。」2?3節
 「石が墓から転がしてあった。」ーその墓は横穴の墓です。その入り口には、大きな石のふたがされました。他の福音書、マルコ16章3節を見ますと、「「墓の入り口からあの石を転がしてくれる人が、誰かいるでしょうか」とこの彼女達が悩んでいる様子も描かれています。女性数人では動かす事が不可能な大きな重い石であったようです。しかもイエスを処刑した人々はイエスの遺体が盗まれないように番兵を置いていたともあります。
 しかしその石が脇に転がしてあった。入り口は開いていたのでした。その番兵が動かして開けたのでしょうか?マタイの福音書にこうあります。
「すると、大きな地震が起こった。それは主の使いが天から降りて来て、石を脇にころがして、その上に座ったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵達は、御使いを見て、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」マタイ28章2?4節
 驚くべきことが描かれています。天の御使いが石を動かした。そして入り口の所にいた番兵達はそれを見て恐ろしさのあまり、震え上がり死人のようになった。番兵でもない、当然、女達でもない、天から使わされた神の使いが石を動かして開けた。実に不思議な出来事です。そのように墓が空いていたのですから彼女達は中に入りました。しかし、そこにはイエスのからだはもうなかったのでした。そして
C,「イエスのからだはなかった。そしてみ使いは語った」
「そのため女達が途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女達の近くに来た。」ルカ24章4節
 女達は途方にくれるしかありませんでした。何が起こったのかわかりません。ヨハネの福音書をみると、女達は「誰かが主を取っていった」と言って嘆き悲しむことばも書かれています(ヨハネ20:2、13)。誰かに取られた。遺体の場所を移された。盗まれた。と思ったのでした。しかしそこに、輝く衣をきた2人の人、天の御使いが近づいてきました。女達は怖くなって地面にふします。見た事もないような人達であり光景であったのでしょう。そんな女達に御使いはいうのです。
「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人達はこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」5?6節
 「あなたがたはなぜ、生きている方を死人の中に捜すのですか?ここにはおられません。よみがえられたのです。」ー御使いは、伝えます。「イエスはよみがえられた」と。御使いはこうもいうでしょう。「なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」と。
 先程もいいました。人間にとって死人がよみがえるなどありえないことです。女達も、イエスの「亡がら」に会いに来ました。しかし御使いは、死んだはずのイエスが、当然のように、生きているのだと話しているでしょう。それは死んだイエスの「亡がら」に会いに来たことがおかしいことのような言い方でもあります。けれども、御使いはこう続けて言っています。
「また、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならないと、言われたでしょう。」(6節後半?7節)
 御使いはいいたいのです。「それは驚くべきことではない。なぜならそれは神の子イエスが十字架にかかる前にあなたがたに伝え約束していたことでしょう。神の言葉がその通りになったのです。神はその約束の通りに、御子イエスをよみがえらせたのです」と。

3.「イースターの恵み」
A,「神の約束は真実でその通りになる」
 聖書はイースターの深いメッセージを私たちに伝えてくれています。それはただ「イエスがよみがえった」だけではありません。神がその言葉の通りに、約束された通りになさったということです。そのように神の言葉はどこまでも真実であり、約束を必ず果たされる、ということを、御使いは女達に示しているのです。誰も信じていませんでした。いやイエスのことば、神の言葉を忘れてしまっていました。逆に「人の言葉」はその通りにはならないことを弟子たちの姿は伝えていました。イエスが十字架にかかって死ぬ前に、弟子達はこう言いました。「他の誰かが裏切っても、私は裏切らない」と。彼らの言葉、誓いでした。しかしその「人の言葉」はその通りにはなっていきませんでした。彼らは皆、裏切って逃げて行ったことが聖書には描かれています。そのように人の言葉も、人の業も、神のなさろうとすることの前にはあまりにも無力であったのでした。その人の業、人の言葉と実に対照的に、この御使いの言葉は私達に示しているでしょう。それは神のことば、イエスのことばはその通りになった。神の言葉、イエスのことば、約束は真実であると。
 復活のイエス、イースターは「神のことばの真実さ」を、私達に証ししています。私達は何を信じますか?何を拠り所としますか?確かに、目の前には確かな「ように見える」物や言葉が沢山あります。しかしそれは確かでしょうか?人の言葉は確かでしょうか?聖書には弟子達のことばだけではありません。その社会では、表向き立派な言葉をはっするパリサイ人や、律法学者の声も沢山あります。それは表向きは立派ですが、しかしそれは自分を示すための言葉でした。そしてその同じ彼らが妬みにかられて偽りの言葉で証言して無罪のイエスを十字架につけたです。このように人の確かさ、そのことばの確かさも不完全です。もちろん時に真実なときもあります。しかし決して完全ではない。いやむしろ、私達は表の部分しかみえないものです。確かさは曖昧であり確かではないでしょう。
 しかし神は、「わたしのことばは真実である。そのとおりになる。力がある。死人さえもよみがえらせる事ができる。決して裏切らない。見捨てない。」と私達に示すのです。その一つの証しが、まさにこの御使いの言葉にあり、そしてこのイースターそのものにある恵みなのです。そしてその真実なことばが私達、すべての人に与えられているのです。それはこの聖書にほかなりません。イースターは、私達に、この真実な神のことばにいつでも聞くように、拠り所とするように、このことばに聞き、真理と確かさ、そして本当の安心を得るように、私達を招いている恵みの時でもあるのです。
B,「なぜ生きている人を死人の中でさがすのか」
 そして御使いの最初の言葉、「あなたがたは、なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」という言葉。このことばはイースターのはっきりとした事実を私達に伝えています。それはイエスは生きているということです。このイースター、私達は死人や過去の人を記念し、信じ、祝うのではないということです。生きている人を、つまり、今も生きて存在され、そのみことばをもって働いてくださっているイエスを記念し、信じ、賛美し、祝っているということです。
 イエスは決して過去の人ではありません。確かに聖書に書かれているストーリーは過去のことです。十字架の復活も、歴史に起こった過去のことでしょう。しかし神が聖書を通してすべての人に与えると言っている「救い」「新しいいのち」というのは、イエスのいのちのことです。けれどもそれがもし「死んだ過去の人のいのち」であるなら、私達に何の意味があるでしょう。私達も死んだものです。信仰に意味がありません。祈りに意味がありません。今と何の関係がありません。しかし神様はそのような意味のないいのち、信仰を私達に与えるのではないのです。聖書がはっきりと伝えること。それは神はイエスを死からよみがえらせた。だからイエスは今も、生きて、私達のために働いている。そのことです。だから御使いは今も私達にいっているでしょう。
「あなたがたは、なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」
 と。私達は本当の救い主をどこに探しますか?どこに見ますか?周りの目にみえるものや人ですか?過去ですか?神はすべての人にこのイースターの恵みを通して、過去ではなく「今を」示しています。ぜひ私達はイエスを死人の中で捜すのではなく、よみがえって生きているイエスを見、捜し、求めようではありませんか?イエスは生きていて、今日この時、この瞬間にも、私達にみことばを通して働いてくださるお方なのです。ですから、今も生きているイエスが、聖書を通して、牧師の口を通して、そして洗礼、聖餐を通して、イエスが私達に語ってくださり、働いてくださっているのです。そして、今生きているイエスが、日々新しくしてくださるり、新しいいのちで満たしてくださる。それがこのイースターのすべての人への恵みなのです。ぜひ誰でも生きているイエスのいのちをそのまま受けましょう。それが信じるということなのです。

4.「終わりに」
 このイースターの良き日、ぜひイエスのよみがえりはすべての人にとって決して無関係ではない。いやむしろイエスのよみがえりのいのちは、すべての人がいつでも神にあって新しくされるために、私たちすべての人に与えられているものなのです。受け取るだけでいい。拒むのは人間です。けれどもせっかくの神からどうぞと差し出されているプレゼントを遠慮する必要はないでしょう。拒むことも必要ありません。そのまま受け取るだけでいい。それが聖書が約束すること。そしてその神の約束は必ず果たされていくのです。ぜひ受けましょう。イエスのいのちを。