2016年3月13日


「自分の十字架を負って」
ルカによる福音書 14章25〜35節

1.「はじめに:エルサレムへまっすぐと目を向けて」
 パリサイ派のリーダーの家での宴会の場面が続いています。イエスはまずその場にいた病人を安息日に癒してあげることから始まり、「神の国」を宴会にたとえてパリサイ派に伝えてきました。上座を好んで座る彼らに対しては「神の国にあっては、自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされる」と伝えました。宴会の主人には「人を招くなら、お返しのできない貧しい人や病人を招きなさい。なぜなら彼らがお返しができないこと、そしてやがて天の父が報いてくださることこそ幸いであり真の神の祝福なのだ」と教えました。そして神の国を期待する人々にも祝宴への招待のたとえから、地上の物事を優先する人は神の国の祝宴の準備ができていても断ってしまうと教えるのでした。
 そのように見てきました、一つ一つのイエスの教えは非常に厳しいものであり、神の国は実に狭い門であることを示されました。そしてそのようなイエスの厳しさから、ただただ自分の罪、不完全さだけが示されました。「誰が神の国に入れるだろうか」と思わされる教えでした。しかしいずれもそこに共通することは、イエスは、「この時、既にエルサレムへとまっすぐと目を向けて進んでいる」(ルカ9:53、13:33)ということでした。つまりイエスは、これからかかろうとしている、ご自身の十字架と復活にこそ神の国はあり、その門はご自身を通してこそ開かれ入れることを見て語っていたのです。ですからそのように教える神の国のこと全て、つまりご自身を低くされることも、何のお返しも出来ない貧しい罪深いものを食事に招いてくださることも、何よりイエスご自身こそが果たされることの教えだったのですから、これまでの厳しい教えはただ「律法」ではなく、むしろ全てイエスご自身のことを指している「福音」でもあったと言うことであったのでした。それが土台になるのです。
 今日のところは、周りについてきている群衆に向けられています。この群衆への言葉も神の国のことであり厳しさも続いているところです。しかしここも同じです。律法とともにやはり福音であるイエスご自身にこそある神の国の恵みが私達に示されているのです。

2.「神の国のための備え」
「さて、大勢の群衆が、イエスと一緒に歩いていたが、イエスは彼らの方を向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまで憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負って私についてこない者は、わたしの弟子になることはできません。」25?27節
A, 「神を愛することを強調するために」
 「イエスについていく」、「弟子になる」ということは、クリスチャンになることを意味しています。ですから全ての人に向けられ、全てのクリスチャンへの言葉でもありますが、非常に厳しい言葉でもあります。「憎む」という言葉もあります。しかも家族や自分の命を「憎む」です。もうここで躓いてしまうかもしれません。しかしこのような言い方は当時のヘブル語の独特の言い回しだと言われています。つまり「大事な何かを誰かを愛する」ことを強調するための言い回しで、その愛する対象を強調するためにもう一方の例としてあげられる対象を低くする。「憎む」という極端な言葉を用いて低くしてまでも、その愛すべきものを強調する、そのために用いられる言い回しであるとされています。
 ですから、まず安心していただきたいのは、イエスは決して家族を憎むことを命令しているのではないということです。むしろ神は、聖書で一貫して家族を大事にするように教えてきています。創世記にヤコブと二人の妻レアとラケルのことを思い出すことができます(創29章)。そこでヤコブはレアよりもラケルの方を愛するわけです。そこで創造主なる神は、「レアが嫌われているのをご覧になって」とあり、レアを憐れまれて、レアに子を授けます。愛されていないレアを憐れむ神が「家族を憎め」とは言わないはずです。家族の愛情やその不完全さ、そこにある苦しみをも神は憐れまれ介入される神なのです。
B, 「神の国の備えのための優先順位」
 ですからイエスは決して文字どおり家族を憎むように言っているのではありません。もちろん33節では「自分の財産を全部捨てないでは」という言葉もあります。しかしその前の二つの例えは、イエスについていくために、弟子となるためには「備え」が必要であり、その備えとして、「自分を捨てて」ということにつながっていることも読む取ることができるのです。ですから、この所は前回の祝宴の招きを断った三人の人のたとえからつながっているメッセージなのです。その例えでは神の国の宴が準備が整い全ての人は招かれています。けれども地上の財産や利益や儲けのことや、家族や親戚の結婚のことが気になってしまって、つまり優先順位を間違ってしまい、大事な宴の準備が整っていること、素晴らしい宴会、つまり神の国がそこにもう来ていて救い主が来ていることに気づかない。地上のそれらのことを優先してしまい神の国が来ているのに拒んでしまう。それと同じことをイエスはここで言っているでしょう。
 ですからこのところでも「何を第一とするか」ということを言いたいのであり、つまり神よりも地上の他のものを愛するとき、つまり優先するとき、その人は神の国に招かれていて入れるのに入れないのです。ここで「ついていく」ことも、「弟子になる」こともできないのは、それは「神がそうする」ということよりも、むしろ財産、地上の物事を愛する人にとっての避けられない必然、そうなるという現実をイエスが伝えているのがこのところなのです。
 前回の例えからも分かります。神の国には「全ての人が招かれている」のです。それゆえここでも「イエスが受け入れない、弟子にしない」ということを言っているのではありません。しかしついてきても神を愛さないなら、その人は神の国はわからない。いやその宴会の招きよりも、土地や10頭の牛や結婚の方が良いと選んだように、その人は神の国の素晴らしさに気づかない、わからないと言えます。そのような人は、あの「悪い土地に落ちた種の例え」(ルカ8:4?15)にわかるように、むしろ信仰が根付いていきません。その人にとって神の国はむしろ居心地が悪く、必然的にその性質として愛する世の物事の方に向かっていくことになります。ですから、そのような人は、「イエスが」受け入れない、弟子にしないということではなく、まさにイエスがいうようにその人は「弟子になれない」のです。ついてこれないのです。
 ここでの塔を築く例えも、戦争に行く例えも、そうではないでしょうか。人は誰でも大きな計画の前に何が大事か、何が必要か考えます。つまり神の国に入る時に、何が準備ができているかを問われています。しかしその神の国では地上の財産は必要ない、いやむしろ何の役にも立ちません。地上の物事や財産を自分にとって一番大事な備えだと備えても、神の国の前で、あるいは神の国では、何か築くにせよ戦うにせよ、それは完成させるための何物にもなりません。戦うための兵力にもならないのです。むしろイエスはこう言っています。
C, 「自分の十字架を負って?塩気のある塩」
「自分の十字架を負って私についてこない者は、わたしの弟子になることはできません。」
 神の国に入るために、イエスについていくために、弟子となるために、「自分の十字架を負うこと」ーそれこそが備えであり優先すべきことであると。ですから34?35節もこのことから理解されます。
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
 このことは伝えています。仮に神の国に入っても、イエスについていくことができて、イエスの弟子になったとしても、仮に信仰者になることできるとしても、その「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」がないなら、それは塩気のない塩と同じであり味付けもできない、土地の肥やしにもならないで捨てられるといいます。大事な備えは「神を優先し神を愛すること」そしてこの「自分の十字架を負うこと」です。そしてそれが信仰の全てとイエスは示しています。そしてそれがないなら信仰は意味がない。それだけでない、それがないなら地上においても本当の実りにならない。神への愛のない行い、十字架のない行いは、どんなに表向きが良くても、塩気のない塩と同じなのだとイエスは教えます。その神を何よりも愛し自分の十字架を負う信仰こそが、弟子となり、神の国に入るための大事な備え、必要なものなのです。

3.「罪の現実を示す神の要求(律法)、しかし律法から自由にし平安を与える福音」
 今日のところから皆さんは何を思わされるでしょう。このところも厳しい教えであり求めではないでしょうか。そして私達罪深い人間は、この要求に無力で、答えられない自分というのを何より気づかされるでしょう。そうなのです。私たちは神を愛するということにおいて、不完全で、自らではできないものです。神を知らなかったですし、知っても拒むものであったのですから。いやクリスチャンになってもなおも不完全です。神よりも自分のことを優先してしまう弱さは皆あリマす。それが人間の性質です。まさにこのところももまた私達は、神の前にただただ罪深い自分が示されるだけなのです。「誰が救われようか」「誰が弟子になれようか」「誰がついていくことができようか」「この神の要求に照らし出すならそう思わされる、神の国はまさに狭い門ではないか」ー全く救いようのない言葉に思えてきます。
 しかしです。今日の核心部分、福音です。イエスは大事なのは「自分の十字架を負って」と言っていることです。「十字架を負って」という言葉をあえて使っています。このイエスの言葉は、これを聞いていた人々は全くわからなかったことでしょう。弟子達でさえもです。ローマの重罪の処刑道具を「負って」と言われても、多くの人が自分と当てはまらなかったことでしょう。「それほど自分は重罪人なのだろうか」「十字架と神の国とどう関係があるのだろう」ーつながらない言葉でもあったことでしょう。多くの人はイエスは革命的な改革でイスラエルの繁栄をもう一度もたらすと期待していたのですから。誰も、イエスの十字架の死と復活に神の国があるとは思わなかったのですから。しかし私達は今や「十字架を負って」という言葉は何を伝えているかわかるでしょう。それはまさにイエスご自身を指しているのです。ご自身がやがて負って死なれるその十字架なのです。まさにその全ての厳しい要求は、イエスがその十字架の上で、私たちの代わりに完全に果たされるわけでしょう。私たち自身はその神の要求することにかなわないものなのです。けれどもイエスが十字架でまさに、すべてを捨てて、家族も友も財産も、そして何より「自分の命までも憎んで」捨て去ったではありませんか。「私達一人一人の代わり」に、「私達のために」です。さらに素晴らしい事実は、イエスは私のものをイエス様のものとしてくださった代わりに、イエスはそのご自身がした全てのことを、私たちがしたこととしてくださるのです。これが十字架に現されたことです。
 弟子達は、この「十字架を負う」ことの意味をこの後、十字架のイエスを見て悟りました。そして復活のイエスと会い、聖霊を受けた時、それが自分のためであったとわかりました。弟子たちは「そのイエスの十字架によって、自分は罪人なのに、神の前に罪赦されて義しい者とされている。そのようにただただ神が、イエスのゆえに義も神の国も与えてくださった。そのようにイエスを死なせるほどに神は私たちを愛してくださり、神の国に招いてくださり入れてくださった。」その恵みを賛美したのです。その事を信じ、神の恵みであるイエスにいのちのすべてを委ねることに自由と平安と喜びを味わい、その自由と平安と喜びのうちに彼らは神を愛し隣人を愛し、宣教して行ったのでした。

4.「「自分の十字架を負って」という信仰の賜物」
 「自分の十字架を負って」というその信仰、それはイエスにある恵みです。私たちが持っている「イエスが十字架で私の罪のために死んでくださり義を得させてくださった、私もイエスと一緒に死に、新しくされたのだ」という信仰と洗礼は「与えられた」ものであり、その賜物である信仰と洗礼が私たちを神の国に与らせ、恵みのうちに私たちを弟子としてくださることを、イエスは伝えているのです。私たちが今まさにそのように信じているのは、神の賜物であり神の恵みなのです。私たちはその恵みのうちにイエス様の洗礼にあずかってすでに新しくされているものです。そのようにただ主イエスの恵みによって信仰も新しいいのちも全て与っていると信じるからこそ、私たちは全くイエス様に荷を下すことができます。そのようにイエスに荷を下ろしてこそ、その信仰は私たちを本当に自由にし平安にし喜びで満たします。そしてその喜びと平安と自由が、私たちを世にあって塩気のある塩として本当の隣人愛へと駆り立てるのです。ですから私たちは今日、自分では愛することができなかった神への愛、信ずることができなかったその信仰が、今、恵みによって与えられ、洗礼の恵みによって新しく生かされていることをぜひ喜び賛美しようではありませんか。そして確かに救われているという確信を今日も新たにさせられ、その喜びと平安のうちに、神を愛し、隣人を愛するために遣わされていきましょう。