2016年3月6日


「招かれている祝宴」
ルカによる福音書 14章15〜24節

1.「神の国を伝えるために」
 パリサイ派のリーダーの家の宴会に招かれたイエスを見てます。前回は、イエスは招いてくれた主人に、食事を開いて招くなら、貧しい人や体の不自由な人、足のなえた人、盲人たちを招きなさいと教えました。それは神の国にあっての私たちが隣人になすべき神のみこころでもありました。イエスはそこで「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」と言いました。つまり天の神の報いを受けることこそ幸いであり神の国の真の祝福であることをイエスは教えたのでした。
 イエスが伝えたい真意が、そこにいるどれだけの人が分かったのかはわかりません。いやむしろ神の国の真理、奥義は隠されているとあるように、弟子達でさえもわからず、彼らも後に聖霊を受けた時にイエスの伝えることの真理を悟って、ルカはこのように書き記すことができているのです。しかしそうであったとしても「全く」わからなかったということでもありません。多くのパリサイ人たちはイエスに反発して、イエスのなすこと話すことを拒み反抗する人が多かったのですが、13章31節で見てきましたように、イエスに逃げるように勧めるパリサイ人もいましたし、イエスに何かを期待する人もいたのです。

2.「間違った期待」
「イエスと一緒に食卓についていた客の一人はこれを聞いて、イエスに「神の国で食事をする人はなんと幸いでしょう」と言った。」15節
 この人はイエスのこれまで7節から話してきた祝宴のことを聞いてきて、それが神の国のことを言っていると理解したのでした。いや聖書をよく学んできていた彼らの多くは、祝宴は神の国のことだろうということは結びつきました。なぜなら彼らは、旧約聖書の伝える神の国は宴に例えられていることを知っているからです。パリサイ人たちは旧約聖書に精通していた人々ですからすぐに結びついたことでしょう。しかしイエスに反感を抱いていた人々は、それは神への侮辱と取るのが普通でした。けれども、この人は逆に肯定的です。「神の国で食事をする人はなんと幸いでしょう。」そのように言うのでした。
 けれども大事な点ですが、彼らはもちろん弟子たちも、この時、その神の国が十字架の辱めと死を通して来るということこそ誰も悟り得ない隠されている天の奥義であるということです。彼らはもちろん、この「幸いでしょう」というパリサイ人も、そして弟子たちでさえも、この時、何を救い主や神の国に期待していたかというと、「地上において」そのローマの支配からの軍事的な革命の後に来る政治的な独立と、イスラエルの黄金期の繁栄の復活であったと言われています。弟子たちでさえもそのようも「今がその時か」と待っていますし、さらに彼らは神の国の完成の時には、自分たちは良い地位を得られるとか、誰が偉いかとか考えているわけです。ですから、このパリサイ人の賞賛と神の国の宴も、十字架の死と復活の先にあ「罪の赦しと新しいいのちの霊的な神の国」のこととは見ていません。地上の王国としての神の国への期待を超えるものではないのでした。

3.「神の国のたとえ」
 イエスは、そのようなこともすべて見通しています。そしてそのような地上の物事や、イエスが言うように恥とか面目とかのみに縛られて、自分を高くするような彼らに、イエスはさらなる神の国の真理の例えをこのように話し始めるのです。
A,「招かれているのに断る人々」
 まず16節ですが、ある人が盛大な宴会を催します。それはこれまでのことからもわかるように、「ある人」というのは創造主なる父なる神のことを指しています。そして宴会はイエスが世に来られ神の国が今実現していることを示しています。そこに大勢の人が招かれていました。そして17節にある通りに宴会の準備が整い始まる時間を迎えるのです。主人はしもべを遣わして言わせます。
「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから」
 僕は招いた人々のところに行き伝えます。しかしです。ここには3人の人のことが書かれていますが、皆、その招きを断るのです。この断る理由については、申命記20章6?7節にある兵役を免除されるときの正当な理由にあてはまります。
 最初の人は、「畑を買ったので、それをどうしても見に行かなければならない」と断ります。次の人は「5くびきの牛を買ったので、それを試さなければならないから」と断ります。どちらも財産です。しかも二人目の人は、かなりのお金持ちです。1くびきは2頭の牛ですから、5くびきは合計10頭の牛を買ったということです。一般的な農家の牛の所有は1くびきであったと言われていますから、かなりの資産家というか投資家でもありますし経営上手でもあります。それらの財産ももちろん神が与えた賜物でもあります。ですから財産の所有も投資も決して悪いことではないです。十戒の学びでも見てきた通りです。けれども問題は、彼らの優先するところが、その大事な招きよりも、その財産、もうけ、利益に向いているということです。それは3人目の「結婚」ということにおいても実は同じです。自分のことが最優先であるのです。このことが示しているのは、この3人はせっかくの神の大事な宴の招きであっても、自分の物事、自分の思いや感情、地上の物事、周りの物事を優先し、それに執着してしまって大事な招きを断ってしまっているということです。
 このことは、約束の救い主が来られて、その救い主が目の前で神の国の業を行い、神の国の福音を伝えているのに、それを拒んでいるユダヤ人たち、このパリサイ人たちや、あるいは神の国を見誤って期待しているこの人のことを指しているわけです。彼らは見てきましたように、安息日についても、自分たちの伝統と社会の枠組みでしか理解できませんでした。そこにこだわりがありました。彼らは自分たちの恥や面目などを気にして高ぶっていることもイエスに示唆されています。彼らは地上の自分たちの物事に縛られ優先してしまうことによって、イエスやイエスが語る福音や貧しい人の癒しが見えないわけです。そのように彼らはイエスを拒み、福音を拒みます。癒しや悪霊が追い出されて貧しい人が幸せになるよりも、安息日の戒めや伝統を破ったことこそが重大なことであったのでした。いや拒むだけではなく、告発しようとさえこの時は思っています。
B,「教えられること」
 ここは霊的に教えられるところでもあります。私自身の性質を思い巡らしても、私も事実、そのような自分のことや地上のことや目先のことばかりを優先させ、優先順位を間違ってしまうことによって、大事なイエスのことを見失ってしまうことがあるのです。信仰のこと、信じることや、委ねることを見失ってしまっていることがあるのです。その時言えることはやはり平安が何よりも無くなります。そして恐れと心配や、あるいは人間的な思いや推測に縛られてしまっている自分に気づかされるのです。しかしそのようにしてすでに与えられている神の国、すでに神と幸いな交わりにあることさえも見失っていることは、まさに招きを断っていることと同じなのです。このパリサイ人への皮肉は私自身への皮肉、示唆としても受け止めさせられるところです。
 そして同時にこのところから教えられる大事なことは、人はどこまでも神の国のことについては盲目で無力であるという性質に気づかされます。しかしだからこそ、信仰のことは、私自身では決して持ち得ないことであることもわかりますし、だからこそそのような自分に信仰が与えられ、そして今やイエスの十字架に神の国があることを教えられ、今、信じていることがまさに神から来た奇跡であることを気づかされるのです。そしてそのような神の恵みによるキリストの十字架、その十字架によって私の罪が本当に赦されているという信仰こそ、神の国の平安をそのような私たちに満たすことができると、私たちはいつでも立ち返ることができるでしょう。私たちは事実、神の前に罪深く不完全であると知るからこそ、すべてを追ってくださった十字架と復活のイエスにあって神の前にどこまでも弱さと罪を認め、その時にこそイエスにそのまますがることができる。イエスにこそ行くことができる。そして、新しい生き方を与えてくださるイエスに求めることができる。そこに新しいいのちの全てがあると立ち返らされるのです。
C,「貧しい人が祝宴に招かれている」
 後半部分はその恵みをイエスは伝えています。このようにこの例えは、ユダヤ人たちは最初に招かれていた選びの民であるにもかかわらず、神の国を拒むその現実を伝えているのですが、イエスはもう一つのこととして、招きはそのよう受けるに値しないような罪人にこそ一方的に向けられることを伝えていきます。21節以下、主人はその報告を受けて怒り僕に言います。
「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しいものや、体の不自由なものや、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。」
 それは13節でもイエスはそのような人々を食事に招きなさいと言っています。述べた通りに彼らは虐げられている人々です。物乞いをしている人もいました。社会からは虐げられ、罪人と呼ばれ誰も交わろうとしない人々です。しかし主人である神は、そのような人々を招いてくださり、この宴会の席につくことを御心として招いてくださっているでしょう。これはまさにイエスに現れている姿です。このような人々のところにこそイエスは言って、手を差し伸べて癒し、友となり、一緒に食事をしました。「悔い改めて神の国の福音を信じなさい」と招きました。この招きもイエスにあって実現しているのです。そのことを示しています。そしてその人々は招きを受け入れたこともこの例えは重なるでしょう。ここに一つの示唆があります。事実、そのような自分が虐げられ、疎外され、罪人と呼ばれている彼らがイエスの愛とわざと福音をそのまま受け取るでしょう。高ぶり、自分が正しいと思って、裁く人にとっては、福音は邪魔で律法の方がむしろ心地よかったのですが、逆に、自分が神の前にあっていかに罪深く弱いかを知っている人こそ福音の恵みがわかるのです。それは福音は、一方的な神からの罪の赦しの恵みであり、自分の力によってなんとかしようとする人にとってはその恵みがわかりませんが、このように本当に何も持っていない、自分は本当に罪人であると分かり、心を打ちひしがれている、心の貧しい人にとっては、平安であり喜びになるのです。
 このことからも11節の言葉につながります。
「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。」
D,「神はこの喜びの時のために」
 23節からも、神は大勢の人をその宴会、神の国に招きたい、その神の国をたくさんの人で一杯にしたいう思いが伝わってきます。神はこのように喜びをもって私たちを神の国に入れるためにイエスを遣わしてくださいました。この喜びの宴のためにこそ神はこのイエスを死なせ、その十字架の死で私たちに罪の赦しを与え、神の前で私たちの罪をもう見ない。このイエスのゆえに神の前で私たちを正しいもの、神の国にふさわしいものとして招き受け入れようというその神の思いがここには溢れています。このように私たちは皆、この祝宴に招かれているのです。つまり神の国は私たちのためにと与えられているのです。感謝ではありませんか。しかしそれは、「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです」とあるでしょう。神の国の真理は「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」にあるとイエスは教えているのです。

4.「終わりに」
 私たちは皆、神の前にあります。皆、神の前にあって自分を隠すことはできません。しかしそれでも神は私たちに豊かに与えてくださっています。どんなに罪深くとも。財産も家族も地位も名誉もです。そのように私たちのすべては神の前にあってどこまでも「神から」であり「神のゆえに」です。何より、救われたのは、聖書にあるように、ただただこの神の御子イエスの十字架のゆえです。それが福音であり、主は聖書を通して、この「福音に生きなさい」と勧めています。そうであるなら、その神の前で私たちはもはや神がないかのように高ぶる必要はないでしょう。あるいは、神ではなく自分がすべてであるかのように、自分の何か、地上の何かにこだわり、すべては自分のものであるかのように、自分が何でもするかのように、できるかのように、振舞う必要ももはやないのです。それはむしろ不自由です。平安がありません。まさに王権を振りかざしたサウルやヘロデや常に不安と恐れに縛られていたように、ヘロデやパリサイ人が恥や面目にこだわりすぎて福音に嫉妬して妬みにかられてイエスを拒んだように、そこには不安と恐れが溢れています。しかし、そこから解放するためにこそイエスは私たちのためにこられた私たちの救い主なのです。そのための十字架なのです。今や私たちはその前に、低くなるだけでいい。いや、低くなることさえも私たちには神のことばと聖霊の助けが必要です。しかし主は私たちをいつも導いて招いておられます。私たちをいつも語り導いておられるのです。「罪はわたしが十字架で負ったではないか?わたしがこれからもすべて背負おう。そのままでわたしのところに来なさい」と。私たちはその恵みのうちに罪深い自分を認め十字架のイエスに追っていただくだけでいい。そこではイエスのなさったことや言葉や全てが恵みとして見えてきます。それによってイエスが与えるものは平安であり、喜びです。ですからその罪のままの、無力なまま、心の貧しいまま、卑しいままで、イエスの元に行けばそれでいいのです。それが福音の素晴らしさ、信じることの幸い、それこそ本当の平安であり自由に他ならないのです。