2015年1月1日


「栄光を私たちの神に帰せよ」(元旦礼拝)
申命記 32章3〜4節

1.「主の民」
 モーセがイスラエルの全民に告げたことばの一部です。イスラエルの民は「主の民」と呼ばれます。その理由は何より、エジプトに捕われの民であったイスラエルを、主なる神が救い出して下さったということに、理由の全てがあります。それは十戒の初めの所で、十戒の核、中心である、「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という言葉にこそ始まり、十戒が与えられていることからもわかるのです。モーセは、ここで、主の民、つまり「主によって救われた民、主の聖徒」にとって何が大事であるのかを指し示しているのです。しかしながら、この言葉は、どのような時、状況、背景ではなされているでしょう。このモーセのことばは、どのような背景で語られているでしょうか。24節からそのことを見て取れるのですが、そこで、モーセは、神からの十戒の入った「契約の箱」の前にあるのです。モーセは、神から与えられた十戒、つまり神のみことばこそ、救いの民の中心、神のみ心であり、これに従うことこそ祝福だと、民に伝えて来たでしょう。その契約の箱の前です。しかし、モーセは、
「私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間で生きている今ですから、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。」(27節)
 さらに
「私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降り掛かることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたが手のわざによって、主を怒らせるからである。」(29節)
 モーセは民の「これまで」と、「これから」を見ているのです。27節は「これまで」、そして29節は、「怒らせるからである」と未来に向かって断言的です。この先のイスラエルの未来を預言しているようにも受けとれます。

2.「主に逆らって来た歴史」
 実に民はモーセの言うそのとおりでした。民は、主に、エジプトから救い出された民でした。だからこそ主は「わたしの民」「わたしはあなたの神」と言ってきました。だからこそ彼らは神の恵みのうちに「主の民」「聖徒」であったのです。しかし、彼らは、目の前の困難を前に、その過去だけではない、絶えず確かにあって、未来も確かにある神の恵みを忘れて、モーセに、そして神に、疑いと不平、不信を言って神を捨てようとしたことは数しれなかったのでした。そして、遂には「神ではないもの」、金の子牛を造らせて、それを拝んだのでした。そのように主の民であっても人は、神ではないものを崇め讃美し信じることは実に容易いことで、恵みを知っているはずの彼らでさえも、恵みの神、救いの神に背を向け、神ではないものを神とした、歴史があったのでした。
 しかしモーセはこの時、それは「後の日に降り掛かることを知っているからだ」と、「あなたがたは主の目の前に悪を行ない、主を怒らせるからだ」とも続けるのです。
 事実、この後のイスラエルの歴史もそうなります。神ではないものを、神とし、神ではないものを祭り上げ崇め、讃美していく偶像礼拝に陥って行く歴史であることを、士師記や列王記等は記していることを見ることが出来ます。しかしモーセより誰よりも神ご自身が、十戒のまず第一戒で「あなたはわたしのほかに他の何ものをも神としてはならない」と掲げたように、まさに神は創造の恵み、救いの恵みを忘れ「神ではないものを神とする」ことが人間の堕落の根源であることをまさに知って伝えているのだとも分るのです。アダムとエバの堕落も、まさに、神ではないものを神とする誘惑であったでしょう。その誘惑は、「自分が神のように、目が開かれ、善悪を判断でき、賢くするという」その木の実を自ら得たことにありました。このように聖書は、神以外の者を神とし崇拝し讃美する、偶像崇拝こそ、罪の初め、根源であり、偶像崇拝こそ、神の怒りであり、最も恐ろしい私たちの周りにある現実であることを、聖書も、十戒も伝えています。しかもその偶像は、自分自身さえその対象になることさえ、アダムとエバの堕落は伝えています。そしてそれは「見るに慕わしく食べるのに良い」ともあるように、明らかな偶像として以上に、まさに見るに麗しく慕わしい姿で、見た目は良いものとして誘ってくるものとしても描かれています。まさにモーセのとき、エジプトからの戦利品の黄金は、民にとっては宝であり繁栄のための良いものであり、黄金やお金は、即座に繁栄を目にすることが出来る即効性のある、良いものとして人々は見るものです。その金で造った子牛は、まことの神さえも退けさせる程に良いものとして彼らには見えて造ったのでした。モーセ以後の、士師記の時代も、偶像礼拝と回復の連続です。サムエルの時代も、人の王がまさに神に変わるものとして欲しいと民は願いました。サムエルはそれを嫌い、神も警告しましたが、民はそれでも欲しい。神はそのとおりに与えました。その王サウルは、まさに神を退け自分を神のようにしました。そして、ダビデもその誘惑の連続、そしてソロモン王も結局は偶像礼拝の端緒となり、イスラエルは、実にここでモーセの預言した通りに分裂し、偶像礼拝にそれていくのです。モーセはそのことをこの時、見ているのです。

3.「そのような民に歌う主への讃美」
 しかしそれでもモーセは、今日のこの言葉を伝えるのです。30節を見て分るように、モーセは、これを歌っています。その歌を、「会衆に聞こえるように」歌うのです。つまり、モーセの讃美です。そして、民にという以上に、これは1節を見て分るように、「天よ。地よ。」と、神が造られた天地に向かって歌っていることがわかるのです。そのなかで彼は歌います。
「私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。」
「私は主の名を宣べよう、われわれの神に栄光を帰せよう。」(別訳)
 これは、この歌の主題ともなることばです。モーセは指し示します。人にとって主の御名が全てである。神がすべてであると。まさにモーセは証しするのです。「私たちはどこまでもその神様から命を与えられたときから、背いて、偶像礼拝から自由ではないもの。いとも簡単に良いものとして金の子牛を造ってしまったではないか。私たちは皆、堕落の子、これからも堕落は必ずしていく。しかし、そのような私達にとって、そのような私たちだからこそ、生ける神こそ全て、神こそ救い、神こそまことの光である。だらか、「わたしは」どこまでもその「主の御名を宣べよう」」と。モーセは自分でも神以外の誰でもない、この堕落の民である私たちを救い出して下さった神にこそ栄光を帰せようと。なぜなら、私たちは誰一人一人として、完全ではない、正しくない、真実でない、偽りがある、しかし、主はこう続けて歌います。
「主は岩。主の御業は完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(4節)
 と。

4.「救いの主の名をおそれ信頼せよ」
 主の民にとって、最も大事なことはなんでしょうか?それは主こそが私たちを救い出してくださった私たちの神であるということです。そして、神に救われた私たちは、だからこそ唯一のまことの神のみを礼拝し、心から主を恐れ、愛し、主にこそ信頼し、主の上にのみ築かれなければならないと、モーセは讃美を歌うのです。
 イスラエルの民から教えられるように、罪深い人類にとっては、偶像礼拝は、まわりにまさに簡単に手に届く、得ることが容易いダイヤの輝きや素晴らしい繁栄や名誉や喜びのように転がっているものといえます。そして、私たちはそれに対して無力な罪の子です。しかし、そのような中での私たちの光は何であるのかをモーセは示しています。私たち自身は何を見、何に立ち返り、何を讃美したらよいかは自らではわからないし見誤りますが、しかしこの契約の箱の前でモーセは示すでしょう。神が御言葉をもって示して下さる。そのような私たちだからこそ、この真実な神のことば、十戒が与えられたと。ゆえに、その主の真実で完全な主の名を私たちは讃えようと。
 そして、キリスト以後に生きる現代の私達にとっては、完全な神の計画として、その十戒の完全な実現である御子イエス様が示され与えられているではありませんか。そのような救いのなかった背きの民である私たちに、そのイエス様を通して、十字架の福音、救いの福音、罪の赦しの福音を与えられた。そして、今や、そのイエス様と福音のみことばによって、私たちに主への信頼という信仰が与えられ、私たちは救いにあると。主は、私たちが人生の終わりの時まで、偶像礼拝を捨て、まことの救いである神への信頼に生きる日々を与えて下さっています。

5.「「我々の神に栄光を帰せる」とは?」
 「われわれの神に栄光を帰せよう」とモーセは歌います。これはルターが好んで引用したり語ったりしていることばです。「神に栄光を帰しなさい」と。それは時に教会では、「『私たちが』神の栄光を現わす」という言葉にかわり、「『私たちが』神のために栄光を実現する」という意味や、あるいは、「『私たちが』思うように願いように実現する所に、神の栄光や祝福がある」というような意味に理解している人が多いと言われています。しかし「われわれの神に栄光を帰せよう」というのはそのような意味ではないことを、旧約聖書学者のルターは非常に強調しています。「われわれの神に栄光を帰せよう」、「あらゆるほまれを主にのみ帰せること」ーそれは、どんなときでも神の恵みの賜物、霊的な助けと慰めを、主に求めることであり、良い時も悪い時も、生きる時も死ぬ時も、全ての時に、主に信頼することだと。ルターは、私たち自身に神のために何かが出来る、まして栄光を現わすことが出来るなど、むしろ傲慢であるし、罪深いといいます。そこれそ、神ではなくても自分が何か神のために出来るという、一つの偶像崇拝とも同じことです。聖書はむしろ、私たちはどこまでも罪深い、そのままではどこまでも堕落して行く偶像崇拝者。しかし神が、どんな時でも、死の直前までも、私たちを救って下さる、助け得くださる。慰めてくださる。平安を与えて下さる。神が心の貧しい私たちを神の国にあずからせて下さる。そうではないか。だからこそ、その全知全能の神、救い主である神にこそ信頼する。それが「神にこそ栄光を帰することだ」と、教えているのです。

6.「神に信頼し、神に栄光を帰して」
 私たちはぜひそのようにこそ、今年も「神に栄光を帰し」続けて行きましょう。つまり、どんな時でも、時が良くても悪くても、死の陰の谷を歩くことがあっても、救い主なる主はただ一人、その主こそ神、キリストこそ神として、キリストのみを崇め讃美して、その主に信頼して行きましょう。ルターはこうも説教しています。
「あらゆる誘惑の際に、主に避け場を求めましょう。あらゆる悲しみと悩みの時に、主を尋ね、主をのみ呼び求めましょう。これこそ、私たちのなす最高、最善の奉仕です。まことの信仰者、地上の聖徒達の小さな群れだけが、このような栄光を主なる神にささげます。彼らはまごころから主に信頼し、主の上に家を建てます。神よあなたが守り支えてくださらなければ、一瞬間も悪魔に対して抵抗できないことを知っているのです。」
 ぜひ、祈りと福音と聖霊の助けによって、この新しい年も、主の前にぜひ謙り、砕かれた思いで、主に信頼し、主に拠り頼み、主に栄光を帰して行きましょう。