2015年1月4日


「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」
ルカの福音書 9章18〜20節

1.「信仰告白の恵み」
 イエスは弟子達に、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねました。弟子達を代表してペテロが答えました。「神のキリストです。」と。これはマタイの福音書の方では「生ける神の子キリストです」と答えています。これは最初の信仰告白と呼ばれる有名なところです。使徒信条は、この告白を土台にしてきたと言われていますし、マタイの福音書にははっきりと書かれているように、この信仰告白の上に、イエスが教会を建てるのです。
 この信仰の告白は、とても大事なところです。教会の土台はもちろんですが、その教会に集められるクリスチャンは、信仰を告白して洗礼を受けます。ですから教会は「信仰告白者の群れ」でもあります。洗礼の時の教理問答も信仰告白もただの儀式で形式で格好だけのものであるというなら教理も信仰告白は重要ではないのかもしれませんが、しかし真実に真心をもって「イエスこそキリストです、救い主です。私の救いです」と、告白して洗礼を受けて、今の救いの確信、クリスチャンとしての歩みがあるのだと信じる人にとっては、この信仰告白ということは、まさに私たちの新しい誕生の産声でもあり、今を生きる証しともいえるとても大切なものだと言えます。

2.「五千人の給食のあと」
 まずこのところは五千人の給食と呼ばれる直後の出来事です。それはイエスが神の国の福音を伝えていると、夕暮れになってしまい、田舎の何もないと所で、五千人以上の人々がそれから帰るにも空腹のまま帰らなければならないということで、イエスは弟子達に「何か食べさせなさい」といいました。しかし弟子達にあるのは、たった5つのパンと2匹の魚だけです。弟子達はそれだけでは何が出来ようかとイエスに返すのでしたが、イエスはその足りないと思われるような僅かな物さえも恵みと感謝し祝福したときに、その僅かな物から五千人以上の人々に十分な食事を与え、さらにパンは12の籠にいっぱいになった、そのような出来事であったのです。そのようにイエスは、僅かなことでも恵みとして感謝することはもちろん、ご自身はまことの救いの神であることを示し、神こそが全てを満たし成し遂げることが出来ることを、群衆にも何より弟子達にも示した出来事であったのです。
 その後にイエスは祈りの後に彼らに尋ねます。
「さて、イエスが一人で彼らに祈っておられたとき、弟子達がいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(18節)
 イエスは「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と尋ねています。そのように救い主の不思議な御業を現わされて、目撃して、お腹までいっぱいになった出来事でしたが、そのことをまさに目撃し経験した群衆はイエスを何といっているのか。イエス様は奇跡を行なったんだから、みんなイエスはキリストだというだろう。そう思うかもしれません。

3.「奇跡を経験した人々の答え」
 けれどもどうでしょう?
「彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い。また他の人は昔の預言者の一人が生き返ったのだとも言っています。」(19節)
 弟子達はその出来事の時の、群衆の反応を聞いていたのでしょう。多くの人は、イエスに「かつての偉大な預言者」を見ていました。同じ時代ではバプテスマのヨハネ。あるいは、かつての預言者エリヤが、その時代にやってきたんだ、あるいは、その他の昔の預言者の一人が生き返ったのだ、そのように言う人もいました。しかし「イエスはキリストである」という声は聞けなかったようです。多くの人は、過去のイスラエルの歴史にその大きな業の糸口を見ようとしました。あるいは、救い主、キリストというのは、地上の優れた預言者なんだという理解と期待しか持てなかったということもできるでしょう。そのように神の業が現わされたその奇跡、神のしるし、神の恵みの実現が目の前にあったとしても、人は自らでは、決してキリストを見いだすことが出来ない。ただ人間の知識の範囲、歴史の範囲のことでしか、答えを導き出せない、そのように神のなさることへの、人間の知識や理解の明らかな不完全さがここには現れています。つまり、人は自らでは神を信じ、神を見いだし、神を告白することができないということを、イエスは分って尋ねています。

4.「弟子達の答え」
 しかしイエスは、ここで再度、同じ質問を今度は弟子達に聞くのです。そしてペテロが答えるのです。
「イエスは、彼らに言われた。「ではあなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神の子キリストです。」」20節
 ここで「あれ?弟子達は、「キリストです」と答えているではないか。やはり、ある程度、人は自ら知識が進んで告白できるようになるんだ」そのように思われる所かもしれません。しかしマタイの福音書を見ると同じような告白の場面がありますが、そこではイエス様のさらなる言葉が書かれていることを見る時に、信仰の告白とは何であるのかが更に良くわかるのです。マタイ16章16節から
「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは生ける神の御子キリストです。」
「するとイエスは、彼に言われた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
 イエスは、「この「イエスは「生ける神の子キリストです」という信仰の告白を、あなたがたの口に与えたのは、人間ではないのだ、あなたがたではないのだ。それは天の父なる神があなたがたに明らかにしたのだ、だからこそ、あなたはそのようにしてあなたにその告白が与えられたのだ」とイエスは言っているのです。
 パウロもこのことに一致しています。コリント人への手紙第一12章3節では、
「神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」と言うことは出来ません」
 と彼は教えています。またピリピ2章10〜11節でも、イエスの御名によって、つまりイエスのご自身の力と働きによって、全ての口が「イエス・キリストは主である」と告白して神を誉めたたえるともあるのです。

5.「神によって賜る信仰の告白」
 皆さん、この御言葉、約束は幸いであり平安ではないでしょうか。もし今、「イエスはキリストである」という告白が私たちの口にあるなら、もし、イエスこそ本当の私の救い主ですという信仰があるなら、それは神の恵みだということですし、神の恵みのみによってこそ、私たちは確実に救われている、救いの確信があるということを伝えています。
 確かにこの9章はそのことを伝えています。弟子達は一人一人は不完全で罪深い一人一人であることには変わりがありません。しかしそのような弟子達に、イエスがイエスの名の力と権威を与えたからこそ、彼らは各地でイエスの御業を行なって来ることが出来たでしょう。そして、先週の所でも、弟子達はまさに無力以外の何ものでもないことを示しています。たった5つのパンと2匹の魚しかできませんでした。しかし、そこでその僅かなものさえも恵みとして感謝して祝福したのは、イエスであり、そしてイエスがその奇跡を行なって、人々を養ったでしょう。それでも群衆は、イエスはキリストであると告白できず、歴史の偉人に救い主を求めるしか出来ません。ヨハネの福音書を見ると、イエスは、この奇跡の後、多くの人々がイエスに従ってくるのは「ただパンを食べて満腹しただけである」と、彼らはただ自分の空腹が満足させられただけで自分を神と祭り上げようとしていると、実に辛辣で厳しく答えてもいます。そのように人々は自らでは神の御業、キリストを、神のなさる救いをわからない。理解できない。間違って理解するのです。決して自らは「イエスはキリストです」とは告白できないものなのです。
 しかし、そんな弟子達の口に、イエスは「神のキリストです」「あなたは生ける神の御子キリストです」という告白がある。「それは人によるものではない、あなたがたによるものではありません。神が明らかにして下さった、神が、聖霊が与えて下さった、告白であり、神からの素晴らしい賜物、贈り物なのです」と、イエスは伝えてくれているのです。そして私たちは知っているでしょう。そのただ信仰の告白によって、イエスの死と復活である、イエスご自身が与える洗礼によって私たちは、確かに救われたと聖書は約束し、その通りに与えて下さっていると。このように、私たちの救いは、信仰は、どこまでも恵みであるという素晴らしい出来事、幸い、事実を、このところからも、ぜひ覚えて讃美したいのです。

6.「やがて」
 実にその通りです。来週の箇所になりますが、この後イエスは、21節以下で、彼らに始めてそのキリストの苦しみと十字架と死のことを伝えてはじめるでしょう。そしてそこで「従う」、「信じる」とはその十字架とまさしく関係があることなんだと。イエスはまさに時を見て、ちょうど良い時に弟子達にこの十字架のことを教えるのですが、それはまさにイエスの圧倒的な計画のなかで、イエスの完全な御手のなかで、彼らは導かれているということが現れているのです。そのようにイエスの時があってこの十字架のことが語られますが、しかしそれでも弟子達が理解できず、それはやがて復活の後に、聖霊によってはっきりと理解できる時までも、更にイエスによって備えられてもいるでしょう。むしろ弟子達はどこまでも救いや神の国のためには、何の力も業もなく、十字架の場面では、彼らはイエスを見捨て逃げ、ペテロは告白ではなく、むしろ三度否定して、逃げて行き、泣くでしょう。ユダは裏切り首をつり、他の弟子達は、戸を閉ざして部屋にこもってしまいます。しかし、その戸を開け、信じられない復活の事実を明らかにするのも、復活し部屋に入って来て十字架の傷を、自分から示し触らせるイエスであったでしょう。
 このように、福音書は私たちにはっきりと示します。イエスの恵みによって私たちは救われているということ。私たちの業、人のわざでは決してない。私たちの信仰さえ、口の告白さえ、救いは、神からの御子イエスのゆえに。イエスから与えられた。私たちの救いはどこまでも神の恵みである。そして、弟子達の歩みがそうであり、使徒の働きの時代の教会や使徒達がそうであったように、そしてパウロがはっきりと伝えているように、私たちが今、継続する進行形の救いを生きるのも、どこまでもそれは神の恵みによるのだ。その福音が今日も私たちに伝えられています。

7.「結び」
 イエスの恵みのゆえに、十字架と復活のゆえに、私たちは今日も、イエスの死と新しいいのちに与り、罪の赦しが宣言されて、新しいいのちのうちにあります。その「イエスの恵みのゆえに」という福音をしっかりと握って、その与えられた信仰の告白を、喜びと平安を持って高らかに叫び、主を誉めたたえ讃美して行こうではありませんか。そしてその恵みの福音をこころから喜び、福音の喜びに満たされて、神を愛し、隣り人を愛していこうではありませんか。