2015年1月11日


「自分を捨て、十字架を負って」
ルカの福音書 9章21〜27節

1.「はじめに」
 「神のキリストです」と答えた弟子達。その「神のキリストです」という告白が、人によるものではなく、神から明らかにされ与えられた恵みであるということ、ゆえに今私たちに「イエスは神のキリストである」という信仰があるということは、神の恵みによって私たちは確かに救われているという、確信の証しです。イエスは、その恵みの信仰はどのようなものであるのか、その救いはどのようなものであるのかを続けて話して行きます。

2.「神が与える救いとは」
「するとイエスはこのことを誰にも話さないようにと彼らに戒めて命じられた。」(21)
 まず、不思議に思うかもしれません。そのように彼ら弟子達の口に、「イエスはキリストである」という告白が与えられたことは素晴らしい恵みであるのですが、イエスはその与えられた告白を、今度は誰にも言わないように命じたのでした。それはなぜなのでしょうか? こう続けます。
「そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達に捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならないのです。」(22節)
 ここでイエスは弟子達に始めて、これから起こる苦しみ、殺されること、そして復活のことまでも伝えるのでした。このことのゆえにです。まだ誰にも語っては行けないというのです。そしてその自分の苦しみ、死、復活によってこそ、人類に救いを与える、まさにそれが「神のキリスト」であると言うのです。イエスはそう伝え十字架に向かって進んで行くのですが、しかしそのようなキリストの姿は、むしろこの時代の多くの人々にとっては躓きであり理解できないことであったのです。なぜなら多くの人はメシヤ、救い主という時に、ダビデ王のような軍事的征服者を期待していました。占領者であるローマを追い出してくれるような強者です。しかしイエスは天からの救い主の人と働きが誤解されることのないようにと弟子達には度々「沈黙」を命じて来ていたでしょう。今日のところでもそれははっきりしています。神のキリストの与える救いは、そのような世の人々の期待するようなものではない、むしろ、その救いというのは、救い主が苦しんで、十字架にかけられて死に、三日目によみがえることにあるのだとはっきりと伝えるのです。これを聞いた時に、弟子達は何を思ったでしょうか? まず弟子達でさえも理解できなかったことでしょう。ピンとこなかったのです。誰もが、救い主である方は、勝利者なんだと見るのです。誰もが繁栄と華やかさを期待し待ち望むのです。そのような人の思いの中で、誰が、救い主である方がユダヤの宗教指導者たち、民族的リーダー達に逮捕されて苦しめられ殺されなければならないのか。理解できないでしょう。イエスはここで十字架とはまだ言っていませんが、23節では十字架を示唆しています。その十字架さえも、イエスの苦しみと十字架がどうつながるのだろうか、自分の十字架とは何のことなのだろうか、と、弟子達は全く分らなかったことでしょう。なぜなら、重罪人の死刑の道具が十字架であり、それとイエスはつながらないし、まして民族の解放者であるメシヤがつながるはずがなかったと思われるのです。メシヤであるイエスがなぜ殺されなければならないのか?そんなはずがないと弟子達は思うのです。更に訳が分からない事までイエスは言います。三日目に復活すると。弟子達であっても、全くもってこのイエスのことばは理解できないことであったのでした。しかし、神の御子イエスははっきりと伝えるのです。これが「神のキリスト」であると。神のキリストの救いはこれであると。聖書が約束して来た救いはこのようにあなたがたの所に届けられるのだと。

3.「救いは神から」
 このことから分るのです。救いというのは人のわざでは決してない。人の思いや期待や創作でも決してなかった。人の思いや期待とは全く逆の所に、人のわざも理解もまったく及ばない、そこに神の救いは神によって明らかにされる。そのことが教えられるのではないでしょうか。このように「神のキリスト」「救い」は、まさに天から、神からの恵みであるということです。そしてこのイエスがここではっきりと示す、十字架と復活にこそ、紛れもない、天からの救いがあるのだということが、今日も明らかにされているということです。私たちはどこに救いを見るでしょうか? むしろ私自身には見いだすことは出来ない。私たちの期待や願望の先に救いが見つかる、私たちが捜し出せるのでもない。しかし、このように神が明らかにしてくださった神が与え神がここに示す「神のキリスト」イエス、そのイエスが、ここに神のキリストの与える救いがあると示す十字架と復活にこそ、十字架と復活にのみ、そしてその十字架と復活を通して、私たちの今の救いがあるのだと、伝えられていることを、ぜひ感謝しようではありませんか。

4.「福音か?律法か? ー自分を捨て、十字架を負って」
 そしてイエスはこう続けます。
「イエスはみなの者に言われた。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(23節)
 「もしわたしについてきたいと思うなら」「自分の十字架を日々おい、ついてきなさい」ーこれは有名なことばです。皆さんはどう理解するでしょうか? これは福音でしょうか?それとも律法でしょうか? このことばは何を私たちに伝えているでしょうか?これは紛れもなく福音の言葉です。私たちを救い、私たちに平安をあたえる素晴らしい福音のことばです。なぜならイエスは十字架と復活を示してこれを言っているから、つまり、罪の赦しといのちが示されているからです。確かにここには「自分の十字架」という言葉があります。しかしそれは何でしょうか? その言葉の前には「自分を捨てて」ともあります。英語ですと、denyという言葉も使われています。「否定して」という意味です。「自分を否定して」ーどういうことでしょうか? まずイエスはこのことばを、神のキリストであるご自分の十字架と復活を示して言っています。「わたしが救いのために苦しみ死ぬのだから、あなたがたは救いのために自分を捨てて、自分を否定して」と。皆さん、救いのためには私たちは何も出来ません。救いのために、私たちは、自分は「全くない」のです。そうであるなら、まさに救いを前に、神の前に、罪の前に、私たちは自分の力や業を放棄するしかないのです。自分を捨てるしかないのです。しかし捨てることこそがイエスの救いを得る第一歩になるのだと。捨てなければ自分で何とかしようとするままです。しかしそれでは救いは決してありません。不可能だからです。ですから、ここでイエスは、まず救いのためには、この「神のキリスト」こそを明らかにし、神のキリストであるご自身が十字架で死に、よみがえることを示して下さっているのです。つまり救いの力も業も私たちにはない。この神のキリストがする十字架と復活にこそある。だからこそイエスはいうでしょう。「自分を捨てなさい」と。本当の救いのために、本当の救いの道、救い主の与える道を行くためには、救いや罪のために自分で行なおうとするその自分を捨てることがなければ、ありえないことをイエスは伝えているのです。

5.「十字架のしめすもの」
 そしてイエスは「十字架」という言葉をつかっているでしょう。聖書で、十字架が意味することは「死」です。さらにいえば「罪の死」です。つまりここで「自分の十字架を負って」とイエスがいうことは、まさしく「私たちが罪に死ぬこと」を意味しているのです。しかも「日々」とあります。「日々、死ぬ」ということばは不思議な言葉ではないでしょうか?本来であれば死んだら「日々」はないわけです。ですからここで「日々、十字架」とあることは、肉体の死ではないのです。それは日々、繰り返される私たちの罪深い自分、聖書では「古い人」とも言います。その「古い人、罪深い自分が、この十字架で毎日死になさいと」いうことこそイエスの伝える意味になるわけです。しかしイエスはここで示しているわけです。その十字架にこそ、神のキリストである、自分がかかって死ぬのだと。そしてそのゆえにこそ「自分を捨てて」、そして、「自分の十字架をおって」、「日々、古い自分が十字架で死んで」とつながって来ることが分るのです。この十字架は、私たちには負うことはできません。私たちは罪に対して無力です。日々、罪深い自分に気づかされますが、私たちはどうすることも出来ません。神の前にあって私たちは、自らでは決して申し開きすることが出来ないものですし、私たち自らでは、神の前に立たされるなら、ただ有罪を宣告されるだけです。しかしイエスは、はっきりと救いの恵みの素晴らしさを伝えているでしょう。「あなたの神が明らかにしたこの「神のキリスト」であるわたしこそが、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達に捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」のだと。わたしこそが神が定められたその十字架を負うのだ。負わなければならないのだ。必ず。それこそ神が定め、神が約束し、神が与える救いであるからだ。この十字架と復活によってこそ、あなたがたは、神の前に確実に罪の赦しが宣言される。そして本当の喜びと平安が、あなたがたに来るのだ」と。だからこそです。だからこそ。「あなたがたは自分を捨てなさい。自分で自分を救ったり、罪を何とかしようとすることを放棄しなさい。そのような自分を否定しなさい」と言っているのではないでしょうか。なぜなら私たちにはこのキリストの負う、十字架の死と、復活の新しいいのちによって、救いがくるのだから。この十字架によって、私たちも古い自分が罪に死に、罪が赦され、平安が来る。このイエスの復活によって、私たちも、日々、よみがえり、新しいいのちが溢れ出るのだ。だからこそ、自分を捨てて、イエスの十字架によって、あなたがたの古い人も日々、死になさいと。そして日々、新しくされなさいと。それが従うということ、イエスについて行くということの幸いであり素晴らしさであることを、イエスは私たちに伝えています。

6.「自分を捨てることの平安」
 ですから、皆さん、これは福音です。自分を捨てる、自分の十字架を負う。それは律法と理解しがちです。自分が一生懸命自己否定をして、自分の力で自分の罪を負って行かなければならないんだと、クリスチャンは考えがちかもしれません。しかし、ここでイエスがはっきりと、自分が負わなければいけない十字架と復活を示していることこそ中心です。その中心で見るなら、「自分を捨てる」ということも、それは「イエスがしてくださるがゆえ」に自分を捨てるのであり、それはむしろ、安心できる、平安な「捨てる」ということでしょう。十字架を負うということも同じなのです。古い私たちの罪をイエスが負ってくださって死ぬと、その十字架をイエスは見ているのですから、その十字架はイエスにとっては苦しみであり死ですが、私達にとっては、古い自分の死であり、罪の赦しの十字架です。そして三日目によみがえると復活を示しているのですから、そのように死は、新しいいのちでもあるのです。古い自分が罪に死ぬからこそ、復活の恵み、日々、新しい誕生があるということなのです。これがこのことばの意味です。ですから、紛れもなくこれは神のキリスト、イエスにあるなら、私達にとって紛れもなく平安の福音なのです。

7.「自分でいのちを得ようとするものは失う。しかし捨てるものは得る」
 24節以下も同じです。自分で命を救おうとする者はそれを失うとあります。自分を捨てない。自分を否定しないで、自分自身で救いを得ようとしても得られないのは当然です。しかしはっきりと書いています。「わたしのために自分のいのちを失うものは」と。イエスのゆえに、イエスにあって、イエスを動機として、自分のいのちを失う者、自分を捨てるもの、つまり、イエスがなして下さる救いのゆえに自分を放棄する者には、まぎれもなく、神のキリストの、十字架と復活の救いがあるのです。25〜26節では、確かに優れた人は、自分の力によって多くを得ることが出来、世界を手に入れることもできないわけではないのです。地上では、人の歴史を見る限り、覇権と繁栄を巡って人の力は、協力したり、争ったりし続けています。そのような中一つの国の繁栄と権力が全世界を支配して来た歴史も事実ではあるでしょう。地上ではその人が優秀であり、誰にも負けない力と富と繁栄があれば、世界を手に入れることが出来るのかもしれません。しかしイエスは、神の前のことをどこまでも示します。世界を手に入れても、誰も自らでは、神の前にいのちを、救いを誰も得ることが出来ないと。そしてまさにここで伝えている神のキリストが与える救い。その救いは、自分を捨てて、神から得ないなら、得られない。そして得られないなら、最後は何の益もない、空しいと。そして、そのように世界を手に入れても、救いを与えることが出来る神と神のことば、神の栄光を、蔑ろにするなら、得られないばかりではない、神はその人を恥とするともまでもいっています。神のキリスト、イエスのゆえに、イエスが負わなければいけないといって、私たちに示された苦しみと死の十字架と、復活のゆえに、そこにある完全な救いのゆえに、自分を捨ててイエスの救いを受けること、そのイエスの十字架のゆえに、イエスとともに古い自分が死に、新しく生かされること、それがイエスに従うこと、ついて行くことの全てなのです。

8.「おわりに」
「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者のなかからよみがえられたように、わたしたちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」 ローマ6章4節
 これは福音ですから、私たちの救い主、神のキリスト、イエス様が、必ず負わななければならないと、私たちのために負ってくださった十字架と復活のゆえに、そこに現わされた完全な罪の赦しと、新しいいのち、新しい歩みのゆえに、ぜひ、安心して自分を捨てて、イエスが与える古い自分の死と新しい誕生に与る日々を、喜びと感謝を持って過ごして行きましょう。