2015年1月18日


「イエスは水をぶどう酒に」
ルカの福音書 2章1〜11節

1.「宴会でぶどう酒がなくなる」
 今日のお話は、結婚の祝宴での出来事が書かれています。イエスと弟子達は、この祝宴に招かれていました。そして、そこには、イエスのお母さん、マリヤもいて、宴会のために給仕していることが書かれていますので、イエスの両親ヨセフとマリヤの家族と非常に親しい人、あるいは親類の結婚であったのではないかとも言われています。
 その結婚のおめでたい祝宴で、ぶどう酒がなくなってしまったのでした。宴会のためには欠かすことの出来ないものです。もちろん用意されていなかったのではなく、沢山、用意がされていたのでしょう。けれども用意していた以上に、出席者がお祝いに盛り上がって、沢山、ぶどう酒が出たのでしょう。その用意していた分のぶどう酒が底をついてしまったのでした。それでもその喜ばしい宴会は続いているのですから、ぶどう酒を絶やす訳にはいきません。ですから、宴会の主催者、ホストにとっては一大事です。

2.「水がめに水を満たしなさい」
 そんな状況でした。そこでイエスが行なった不思議が、この出来事であるのです。
 まずイエスはそのことを知り言います。
「イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」(7節)
 「水がめに水を満たしなさい。」ーなんとみずがめに「水」です。同じ液体ではありますが、ぶどう酒となんら関係がありません。まず6節に書かれていますが、ユダヤ人の家には、大きな水がめが幾つもあったようです。それは「きよめのしきたりによって」とあります。日本の神道でも、神社などでは、おきよめの水を用いて、手を清めたりしてから、祈願したりします。それと同じように、ユダヤ教でも、誰もが神の前にはきよいものではない、汚れたものであるので、神の前に祈る時、祈る前、あるいは、特別な日の前には、そのきよめの水で、手だけでなく身体全体をきよめるという習慣があったのでした。そのための水がめです。ですから、その水がめ自体も、飲み水のための水がめというよりは、まさしくきよめの水を入れるための水がめであるのです。
 イエスはその6つの水がめにすべて水を縁一杯まで満たしなさいといったのでした。一体何をしようというのでしょう。言われた人々は、まったく理解できなかったことでしょう。水は水であるからです。しかしその宴会の裏で給仕していた母マリヤは、「イエスの言うことは何でもしてあげて下さい」とも言っていました。ですから、言われた人々はとりあえずそうしたのでしょう。水がめに縁一杯に水を満たしてみたのです。

3.「さあ、今汲みなさい」
 すると
「イエスは彼に言われた。「さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持っていきなさい。」彼らは持っていった。」(8節)
 その水がめにいれた水であるはずのものを、イエスにいわれた人は、汲んで世話役のところに持って行きます。もちろん、9節にある通りに、すでに水ではないものになっているのですが、汲んで持って行った人も、緊張したのではないでしょうか? 確かに水をいれたはずなのですから。しかし世話役がそれを飲んだ時いいます。
「言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分に飲んだ頃になると、悪いものを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(10節)
 世話役は、「こんな良いぶどう酒をなぜ今まで取っておいたのか」と喜び驚くのです。「水がめにいれた水、そして水であるはずのその液体」はぶどう酒になったのでした。しかも最初に準備していた最初に出てきたぶどう酒よりもはるかに良いぶどう酒だと。9節に書かれているように、世話役は「それがどこから来たのか知らなかった」とあります。ですから、その裏で行なわれていた経緯を全く知らないのです。それが水がめに入れた水であるということもです。そのことが、この世話人の驚きの声には現れているでしょう。そのように宴会は、その良いぶどう酒で、さらに盛大に行われ、幸いな喜びの時は過ぎて行ったことでしょう。
 しかしこのところの聖書のメッセージは、イエスが言ったその通りにしたとき、その水がめに満たされただけの水は、上質の良いぶどう酒へと変わったそのことなのです。こう結ばれています。
「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで弟子達はイエスを信じた。」(11節)

4.「イエスが私たちに伝えていること」
 今日のこの不思議な出来事、イエスはこのことを通して私たちに何を伝えているのでしょう?
A, 「イエスは水をぶどう酒に変えることが出来る神である方」
 まず第一に、イエスは、このように水をぶどう酒に変えることができる神であるということです。11節では「ご自身の栄光を現わされた」ともありますが、その言葉の意味は聖書では、栄光は神にみ帰される、そして、神こそがご自身の力とわざを現わされたという意味になります。ですから、この「水をぶどう酒に変えた」ということ、それが「最初のしるしと現わされた」ということ、そして「多くの人がそれを見て、そのぶどう酒を味わった」ということは、イエス・キリストは、確かにそのことをなさった、そのような不思議をお出来になる、確かに天から来られた神、まことの救い主であるということを、自ら、示された、明らかにされているということなのです。本当に信じがたい、ありえない、人にはできないこと、不可能なことです。けれどもその人の思いをはるかに越えたことを神はすることができる。その神がここにおられる。神がその力を現わされた。このイエスを通して。そのことを私たちにまず第一に語りかけているのです。
B, 「イエスは私たちをも新しくすることができる」
 第二に伝えられていることは何でしょう? それはイエスは、このように水をぶどう酒に変えられたように、私たちこそを、きよめ、新しくすることがお出来になるということを伝えています。イエスは救いのために来られたのですから、この上質の良いぶどう酒のように、私たちをも新しくする、そのことこそ、イエスが来られた目的でもありますし、その新しくすることこそイエスが何より私たちに与えて下さる素晴らしいものといえます。
 私たちの持っているものも古くなります。とりわけ、電化製品、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、パソコン、などなど、長く使っていて壊れないのもありますが、対外、壊れて買い替えなければなりません。洋服や靴もそうです。私たちは、そのように古くなったものを、新しくするのは、買い替えるわけです。つまり代価を払って新しいものを買う訳です。
 けれども聖書は救いのことを伝えていますが、救いということについてはどうでしょう。きよめの水の話しがありましたが、自分を清めるとか、自分を新しくする、変えるとか、それは電化製品のように気軽に買い替えることは出来ないものです。買えないものです。きよめの水でもそれは神の前にまったく清くなる訳でもないでしょう。そのように、神の前での救いやきよさについても、決して、お金で買うことは出来ないし、自分の努力やわざで達成できないものではないものです。けれども、この出来事を通してイエスは私たちに語りかけています。「水をぶどう酒に変えたように、わたしはあなたにできるのだ。あなたをわたしが、まったくきよめ、新しくすることが出来る。そのためにきたのだ」と。
C, 「救いはイエスがなしあたえる」
 確かに今日のところでも、それを味わっている人々は、イエスの変えた上質のぶどう酒に与って、飲んで、喜んでいますが、彼ら自身は、「どこから来たのか知らない」とある通りです。彼らにはこのしるしはできないし、自らあれをしたりこれをしたりして実現できるようなものではないことがわかります。彼らはただイエスがしたこと、変えたものをそのまま受けて、飲んで、喜んでいるだけです。ですからこの出来事は伝えています。救いとはそのようなものであると。イエスがなさることであると。私たちにはできないことを、イエスがしてくださる。与えて下さる。それは自分でも、きよめの水でも、神の前に、自分を清くすることも新しくすることも出来ない私たちですが、そんな私たちを、イエスが、まったくきよいものとして、新しくすることが出来る、新しくして下さる。それが聖書が私たちに伝え、与える救いなのです。イエスが私たちを救うことが出来る、救ってくださる、という良い知らせだということです。そして、イエスのことばの通りにした時にそれがおこったように、何よりそれはイエスのことばによってこそ、その「新しくする」ということをしてくださるということです。
 これは「最初のしるし」であると、書かれています。ですからこの後も、イエスはご自身を人々にあらわして行くのですが、しかしそれらはすべてこのことを伝えるためです。イエスこそ救い主、イエスが私たちに働き、新しくして下さると。そのことが沢山書かれているのが聖書なのです。ぜひ今日だけでなく、そのために来られたイエスの一つ一つの出来事、メッセージ、語りかけを、イエスの私たちへのことばを、これからも、ぜひともに聞き続けていきましょう。神によって新しくされたいと思いませんか?神であるイエスは、そのことをこそをしてくださいます。与えて下さいます。
D, 「神のすべては『私たちのため』に」
 そしてこのところが伝えている第三のこと。それは、この11節に、「弟子達は信じた」とあるでしょう。このように、この最初のしるしは、弟子達が、そして私たちが「信じるために」なされたということです。聖書には、人は「信じて救われる」ともあります。ですから、このしるしは、私たちが信じるため、信じて救われるために、つまり、「私たちのため」のしるしであるということ、それが第三のことです。この聖書は、神のことばです。もちろんクリスチャンは大事にしている聖典ですが、それは「私たちが神のために」大事にする、私たちが神のために何かをする、しなければいけないという義務の聖典とは違います。他の宗教の聖典はそのようなところがあるかと思いますが、しかし聖書の場合は、「神が私たちのために」ということを何よりも伝えています。最初の創造から、最後の黙示録まで、それは「神が私たちのために」ということの神から私たちへのメッセージの記録です。そして、すべてがその中心イエス・キリストを伝えていると言われるのですが、そのイエス・キリストそのものは、何よりも「神が私たちに」「神が私たちのために」すべてをしてくださった、全てを与えて下さったということの証し、実現であることを聖書は伝えています。このように、聖書全体はもちろん、この救い主イエス、イエスがここで水をぶどう酒で変えたことも、イエスがなされた全てのことも、そして、このイエスが十字架で死ぬことも、三日目によみがえることも、そして、今も、これからイエスがしてくださることも、すべては、「わたしたちのため」であるということです。ここでは弟子達が「信じる」ということさえも、イエスの不思議なしるしによって導かれているでしょう。その神への信仰さえも、「神が私たちへ」「神が私たちのために」ということが貫かれていることがわかります。イエスは、水をぶどう酒に変えることが出来るまことの神です。しかし大事なことは、そのイエスのすべて、神の御心のすべては、「私たちのため」であるということ。私たちの愛と祝福のためにこそ、神はどこまでも働かれる。この聖書を通して、今日も、いつも、いつまでもそのことを語って下さるのです。

4.「おわりに」
 「神が私のために」このことをぜひ感謝し喜びましょう。全ての人のために、神は救いの恵みを与えて下さっています。その「神が私のために」と与えて下さっているものをそのまま聞き、そのまま受けとるだけでいい、救いは受けるものです。誰でも救われます。ぜひ、その神がその私たちのために与えて下さるまさに素晴らしい「救い」という、上質なぶどう酒を、誰でも、ぜひそのまま受けて、私たちも救いの道を喜び歩んで行きましょう。