2015年1月25日


「彼の言うことを聞きなさい」
ルカの福音書 9章28〜36節

1.「山での祈りに導かれる」
イエスは、今まで弟子達とともに旅をしてきて、ここではじめて、これから自ら負われる十字架の苦しみのことを語られました。そして、自分についてきたいと思う人は、日々自分を捨て、日々、十字架で古い自分に死んで新しくされていきなさいと、そのように教えました。しかし弟子達はまだ、その意味を分らないでいたというのが、前回のところでした。そのようにイエスがご自身が与えようとする救いを少しずつ表されるのですが、今日のところでも、イエスは弟子達にさらに別の方法でご自身を現わされ、神の国を示されるのです。それはその出来事から八日目の出来事でした。
「これらの教えがあってから八日目ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」(28節)
 このペテロ、ヨハネ、ヤコブという三人は、かつてイエスが、一番初めに声をかけ弟子として召した弟子達でした。彼ら三人は、12弟子の中でもリーダー的な存在であったとも言われています。そして、この時のように、イエスはよくこの三人を連れて、祈りに行ったことはこれまでも何度もあったのでした。この時の登った山は、タボル山、あるいはヘルモン山であるとも言われています。その山にイエスは、この三人を連れて登ります。祈るためにです。そのようにして、イエスは祈りに入られたのですが、32節を見ると、弟子達は眠くてたまらなかった、とあります。弟子達がイエスの祈りのときに眠っているという場面も幾つかあるのですが、それは、イエスの祈りはいつもとても長かったとも言われています。ですので弟子達はイエスの祈りの間、おそって来る睡魔との戦うわけです。眠ってしまったこともあったでした。この時は、最初は何が起こっているか気づかないで、まどろんでいる弟子達のようなのです。そんな弟子達のまどろみの中でそれは起こるのでした。

2.「光り輝くイエスの栄光ーその中にモーセとエリヤ」
「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について一緒に話していたのである。」 29節〜31節
 イエスの顔が変わります。そして、「御衣」が白く光り輝いたとありますが、それは、イエスご自身の身体からの輝きが放射されて光り輝いていたのでした。しかしそればかりではありません。30節には、二人の人とイエスは話し合っていたとあるのです。それはモーセとエリヤでした。モーセはイスラエル最初の預言者であり、神がモーセを遣わし、神のことばを伝えさせ、エジプトから民を連れ出しその苦しみから解放させました。ですからそれは、来るべきメシヤのモデル、雛形であるとも言われています。そしてエリヤは誰でしょうか。これもイスラエルの人々は必ず知っています。エリヤもモーセ同様に、神が選んだ者として、イスラエルの不信仰の時代に、自らの沢山の葛藤の中で、神のことばを伝えた預言者でした。彼は生きたまま天にあげられた預言者であり、「神が選んだ者」として、ユダヤ人が預言者というとまずすぐに連想する代表的な預言者です。その二人がイエスと話し合っています。そのイエスの放つ栄光のうちにです。
 とてもこの世のものとは思えない、見たこともない、しかし、まさに天国のような神々しい荘厳な情景がそこには広がっていたことでしょう。

3.「モーセとエリヤが話すイエスの「出発」」
 しかしです。書いてあることを見ますと、そこで話している内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったのでした。新改訳ではそのように長い言葉で説明がされていますが、英語ですとDeparture、「出発」ということばが使われています。さらに原文ですと、Exodus、「出て行くこと、出国」という意味です。Exodusというのは、出エジプトをExodusといいます。ですから、この意味は、イエスの出発です。まさに、八日前に話した、苦しみ、十字架の死と復活の時への出発です。ですから新改訳では、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」と分りやすく説明されています。別の言い方をすれば、まさに「すべての人のための新しい出エジプトという救いを達成されるためにイエスは出発される」ということでもあるでしょう。そのことをモーセとエリヤとともにイエス様は話しをしているのです。
 このことはとても幸いです。神がなそうとしている救いの計画、そして神が私たちに与えようとしている救い主とその救いが、ここにもはっきりと示されているからです。9章の途中でも見てきました。民はイエスを何と言うかという場面であったように、民はまだメシヤを、モーセやエリヤに見ていました。彼らは、そのような「人」が救済する、しかもそれはダビデのような軍事的、政治的は解放で、再び、国に繁栄をもたらすのだと見ていました。しかし、神の救いの計画では、その二人が救い主と崇め、話しておられる方がいる。その救い主である方のこれから遂げようとしておられる新しい出エジプトのために、出発のために。「モーセ、エリヤが救い主である」のではなく、モーセ、エリヤの二人も、まことの救い主を指し示していることがわかるのです。そして旧約聖書に見られるモーセやエリヤ自身の歩みもわざも、すべては彼らが行なった業ではなく、一つ一つのことは、主ご自身が、彼らとともにあり、主がみことばを持って主の栄光のうちに、彼らを用いて業をなさってきたのだということを聖書は証ししています。
 このように、この出来事も、そしてモーセもエリヤも、私たちにはっきりと伝えています。神が計画され、神が世に与えて下さった救い主はこの方、ただ一人、イエス・キリストこの方であると。私たちの救いは、私たちの出エジプトは、この方、イエス・キリストによって成し遂げられたんだ。この方、イエスこそ、私たちの救いのため、出エジプトのために、今、出発し、苦しめられ、十字架にかかって死に、よみがえられたんだ。そのためにこそここで今、まさにイエスは出発される。その真理を私たちにはっきりと示しているでしょう。聖書が示すように、イエスの十字架と復活に現わされている、神から私たちへの救いの確信と喜びをぜひ覚えて、今日も私たちは、唯一のまことの救い主イエス様の名前を、誉めたたえ讃美したいのです。

4.「ペテロの提案」
 そんな素晴らしい情景に、ペテロ達はまどろみから目覚め、周りに気付きはっきりとそれを確認します(32節)。彼らは本当に驚いたことでしょう。しかしモーセとエリヤはそこから去ろうとする中、
「それから、二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、素晴らしいことです。私たちが三つの幕やを造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきか知らなかったのである。」(33節)
 二人は去ろうとしました。しかしペテロは、それぞれ三人のために幕屋を造りましょうと提案したのでした。確かにこれは素晴らしい情景であり現実であったことでしょう。まさに天国のようです。光り輝くイエスに、民族をエジプトから連れ出したモーセと、生きたまま天に上げられたというエリヤが目の前に言えるのですから。しかも神の栄光に囲まれてです。人間が普通、経験したり目にすることができない現実を彼らは見ています。ですからペテロはこの天国をもっと、いつまでも見ていたいと思ったことでしょう。それで彼らが去らないように、いつまでも見ていれるように幕屋を提案したのです。気持ちはわかるのではないでしょうか?天国が目の前に広がっているのですから。いつまでもそこにいたいのです。誰でもそう思うはずです。しかしです。

5.「父なる神が私たちに明らかにされる救いの真理」
「彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲の包まれると、弟子達は恐ろしくなった。すると雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。」 34〜35節
 雲は、しばしば神の存在、臨在を表すしるしです。その雲が、イエス、モーセ、エリヤの三人をおおいました。弟子達の天国へのあこがれの気持ちは、急に恐れに変わっています。そして雲の中から、父なる神の声が、彼ら、弟子達に語りかけるのです。
「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」
 と。「これはわたしの愛する子、神の御子、ひとり子キリストである」と、父なる神ご自身が、弟子達に指し示しています。そしてこの愛する一人子キリストを、イエスを、「わたしの選んだ者だ」と、はっきり言います。何のために選んだでしょう。そして、それはまさに「出発のために」です。新しい出エジプトのために。それはまさに八日前に、イエスご自身が話した十字架と復活のため、つまり、私たち全ての罪を背負って、罪の身代わりとして死んでよみがえるため、それによって全ての人と、罪の裁きから救い、神の前に、まったき罪の赦しをすべての人に与えるために、つまり、私たちを罪から、闇から、サタンから救うために、「わたしが選んだ者」、それがこのイエス・キリストだと。このように、天の父なるまことの神も、このイエス・キリストを、私たちに、まことの救い主として、指し示しています。これが「わたしが選んだもの」、この者こそ、あなたの救い主、あなたの救いだ。この者に、そしてこの者が今出発し遂げられる十字架と復活にこそ、真の天国がある、世への勝利、罪への勝利、あなたの勝利、そして神の国があるのだと。
 だからこそ、父なる神は弟子達、そして、私たちにいいます。「彼の言うこと、彼に、聞きなさい」と。どこまでも「みことばに聞きなさい」ーこれがまことの父なる神から私たちへの救いの勧め、招き、愛のメッセージ、そして福音に他なりません。

6.「救いはキリスト、信仰はキリストに聞くことから」
 私たちの救いは、イエス・キリストです。そして、信仰は聞くことに始まるとある通り、私たちの平安と喜びの歩み、神の前に安心し喜んで仕え従って行く歩みも、それはイエスの言うことにまず聞くことに全てがあります。なぜなら、イエスこそ私たちの唯一の救い、唯一の神の国に与るための道であり真理でありいのちだからです。イエスのことばこそ、聖霊によって、私たちにイエスの平安と力を与え、道を示し、聖め、全てを与え、全てをなすイエスの力だからです。このイエスにあるからこそ、「心の貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだからです」という約束の真理があります。私たちは、今週もぜひ、この与えられている救いである、イエスに留まり、しっかりとイエスにしがみついて、どこまでも信頼して行こうではありませんか?そして「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」とある通り、この方にこそ、聞き続けて、この与えられている新しいいのち、神の国の、恵みに生かされて行きましょう。