2014年6月1日


「神は全てを知って彼らを選んだ」
ルカによる福音書6章12〜19節
1.「はじめに」
イエスは12人を選び「使徒」と呼びました。「弟子の中から」(13節)とあるように使徒と弟子とは違うことが分かりますが、イエスはこの「使徒」に、特別な使命を与え遣わすために選ぶのです。それは復活の先に立つキリストの教会と、そこで与えられるみことばの説教と聖礼典のためにといことを指しているわけですが。しかしなぜこの時なのでしょうか。この時はまだ十字架の時ではありませんでした。もし特別な権威を与えて遣わすなら、あるいはそれが教会と聖礼典のためであるなら、むしろ復活の後に任命しても良かったはずなのです。しかしなぜこの時なのでしょうか。そしてなぜ彼らをイエスは選らんだのでしょうか?このところを見ていく時に、父なる神、御子イエス、助け主聖霊が、彼らのみならず、私達に対していかに恵みに溢れたお方であるのかの幸いが見えて来ることを今日は教えられます。

2.「祈りをもって」
イエスの「祈り」で始まっています。イエスは父なる神に祈ります。この使徒12人を選ぶためです。この祈りはイエスは父なる神に聞き、求め、委ねているということであり、この12人は、父なる神、御子、聖霊の主が選んだ12人であるのです。その父なる神が選んだ12人。「ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテのユダ」(14節)−イエスが祈りを持って、神が選んだ12人の使徒です。この12人を神が選ぶところからエッサイの所にいくサムエルを思い出します。神はサウルを王から退け、新しい王を選ぶためにサムエルをベツレヘムのエッサイの家に遣わします。その時サムエルはエッサイの子供達を人間的な価値基準で、例えば、長男かどうかとか、あるいは体格がいいとか、ハンサムだとか、背が高いだとか、最初は見た目で選びました。しかしそんなサムエルに神はサムエルが見た目で選んだ息子達ではないと斥けて言います。「見た目で選んではいけない。神は心を見られるからだ。」と示すのです。「神の選び」というのは、そのように「ダビデの全て」を見ていました。もちろんそれは私達がすぐつなげるかもしれない、ダビデのゴリアテとの戦いのときの優れた信仰だけではありません。それだけではないでしょう。その後のサウルとの試練、王になってからの弱さと罪、息子達の謀反と、バテシェバとの罪と悔い改め、全てを見て神はダビデを選んだということです。同じように神は、まさに今日のこの箇所でも、そして私達においても、イエスの祈りにより、彼らの全てを知った上でこの選びがあるということは渇して変わらないのです。

3.「全てを知って」
「全てを知って」選ばれたということは大事なポイントです。「弟子達を呼び集め、その中から」(13節)とあるように「既に」イエスに従う弟子達が沢山いました。「その中から」選ばれた12人です。しかも全てを知った上で。これは実に不思議な選択です。

A.「シモン・ペテロ」
シモン。イエスからペテロ、「岩」という名を貰いました。しかし他の弟子達の上にたちたいと自分をリーダー的存在であることを意識していて競争心もあり見栄っ張りでもありました。最後の晩餐の席でも「たとえ他の弟子達が裏切っても私は決して裏切らない」とさえ言うのです。しかし大祭司カヤパの庭ではイエスを三度「知らない」と言いました。イエスはその全てを知っていたのです。

B.「雷の子、ヤコブとヨハネ」
ヤコブとヨハネの兄弟。彼らにイエスは、ボアネルゲ「雷の子」というあだ名をつけました(マルコ3:17)。この二人は激しい気性、性格を持っていたと言われています。ヨハネはある人々が「イエスの名を勝手に使って悪い霊を追い出しているので止めさせた」ということが書かれています(マルコ9章)。あるいはイエスを受け入れなかったサマリヤ人に対して「私達が天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」といってイエスから戒められたというエピソードもあります(ルカ9:53〜)。また一方でこの二人の兄弟はなんとお母さんにお願いして、イエスが以神の国を完成されるときに、イエスの右と左の座に自分たちをおいて欲しいと願ったりもしたのでした(マルコ10章)。そしてそれだけ性格の激しく、そして、そのように「自分を右と左に」とさえいう二人も、イエスが捕えられた時に、逃げていってしまったのです。激しい気性、性格というのは、良く言われるように、むしろ気の弱さや臆病さの裏返し。まさにそのような「雷の子」の二人なのです。

C.「マタイ、トマス、熱心党員シモン、イスカリオテのユダ」
さらにマタイというのは、前回までも見てきました。取税人レビのことであり、彼は罪人として蔑まれ、イエスが町にいても、会いに行くことさえできずに収税所にすわっていることしかできなかった罪人であったでしょう。トマスという弟子は、復活の後でさえも、しかも他の弟子達が復活のイエスに会ったと証言しているにも関わらずに、「見るまで信じない。その身体にさわってみるまで信じない」と豪語した一人です。さらには、革命家、熱心党員シモン、そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダです。そんな彼ら12人全て、イエスが祈りを持って、そして父なる神が選んだ一人一人です。しかもその彼らの、罪深さ、不完全さ、欠点、弱さ、彼らの将来、彼らが逃げることも、三度知らないということも、裏切ることも全てを知った上で選んだ12人なのです。

4.「私たちの尺度では決してはかり知れない」
しかしこのところにこそ、神の選び、神が私達を選んだことも、それは私達の思いや尺度では決してはかり知れないという素晴らしい恵みがあるのです。その既にいた沢山の弟子の中には、お金持ちの人もいたでしょう。雷の子ではない、穏やかで冷静で謙遜な立派な人もいたでしょう。人の目から見るなら「この人の方がふさわしい」という立派な人が他にもいたはずなのです。そして人の間から見るなら、「なぜ取税人のレビなんか」「なぜあんな気の荒い漁師連中なんか」「あのヤコブとヨハネの兄弟なんか」「あの見栄っ張りのシモンなんか」「なぜあんな過激な熱心党員なんか」と思うような選びでもあったことでしょう。しかし神の選びは、人の選びや思いをはるかに越えているのです。しかしそれでも神はイエスにこの12人であると答えたのです。それがこの12人であるということなのです。そして福音書が明確に伝えるように、イエスはこの12人をそのまま受け入れ、そのまま愛し、彼らと喜んでともに歩まれました。時に戒められました。時に叱りました。そして絶えず、忍耐強く、みことばをまっすぐ伝えて教えました。それでも分からなかった弟子達、逃げた、裏切った弟子達です。しかしそれでも、そのことを知っていても彼らに余す所なく愛をあらわしたと(ヨハネ13章)にも書かれているのです。イスカリオテのユダさえもです。

5.「なぜこの時?なぜ彼らなのか?」
最初の問いかけにありました。なぜこの時彼らを選んだのか?なぜ彼らなのか?それは彼らをすべて知った上であっても、いや彼らがそのような人の目にはその力がなく、それに値しないものであるからこそ、その彼らに主の恵みと力がはっきりと現われ、彼らをその神のご計画のうちに導き、訓練し、そして神が用いるためです。いやそれ以上に何より自分達がそのような神の前に罪人で無力であることを悟らせ、神にこそ、そしてやがて迎える十字架と復活の救いがあり、光があり、そこに全てを拠り頼むことを悟らせるためにこそ、このような罪深い彼らこそを、この時選び召してくださったのだと私ははっきりと教えられるのです。そして分かります。それは神がそのような罪深い一人一人をいかに愛しておられ、そのような罪深い者にこそ素晴らしい新しい救いを与え、新しく用いてくださるということの私達への証しがこのみ言葉が私達に語りかけていることだということです。福音書は実に、イエスがいかにそのような罪深く不完全な彼らだからこそ彼らを愛されたかの記録ではありませんか。とりわけこのペテロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登ります(マタイ17:1)。そこでイエスは、モーセとエリヤに会うのですが、そこにはこのシモン、そして雷の子たちだけを連れて行きました。そのような場面は幾つもあり、イエスは欠点の多い、罪深い彼らをこよなく愛されていました(マタイ26:37、マルコ5:37)。三人だけではありません。トマスはただ一人、復活のイエス様が現われた時にいませんでした。そこで先程も触れましたように、ほかの弟子達が「自分たちは会った」と証ししても全く信じませんでした。しかしそんな疑いのトマスのために、イエスは「シャローム」「平安があるように」と言って、そしてトマスの手を取り、自分の復活の身体に触らせました。トマスを責めるのではない、まさに愛の手であり、愛のことばであったのです。

6.「イスカリオテのユダのためさえも」
イエスはこの使徒を選ぶ前、山に登って祈った時、弟子達の全てを知りました。一人一人の全て、心も、未来も。全ての人は逃げて、ペテロは三度知らないと言い、イスカリオテのユダは裏切り、トマスは疑う。全てを知っています。しかしそれでもその一人一人を選んだ。そしてその一人一人に余す所なく愛を現わし十字架に従います。それはイスカリオテのユダのためにさえです。イエスはこの選びのときも、ユダにサタンが入ったときもみな知っていました。何度もそのことを口にしていました。しかしそれでもイエスはその愛を弟子達に残す所なく示され、弟子達の足を洗い、イスカリオテのユダの足さえも洗われるのです。ユダさえも愛していました。裏切りは神の前では呪いでありましたが、そのサタンに負け裏切るユダをイエスは悲しみました。イエスは全てを知っていたのです。それでも愛していたのです。ユダは裏切ったから滅んだのでしょうか?弟子皆も裏切って逃げました。ペテロは三度否定しました。皆、裏切ったのです。皆、神の前に罪人でした。そして弟子の姿、いやユダの姿さえも全人類を指しています。私達も裏切り逃げ出す一人一人です。「私のほかに他の神々があってはならない」という第一戒こそ私達、いや私自身守れない者であり、いつの間にか自分が神のようになってしまっている。神のようになれるというアダムとエバの最初の誘惑に陥って、神を二の次にして自分中心に生きてしまっている私自身がいる。裏切りはすべての人の姿の象徴です。しかしユダはなぜ滅んだのか?裏切ったからではありません。12人のうち彼だけが信仰を捨てたから、イエスに、そしてイエスの十字架に目を反らし、神に帰らず、神の前に罪深さ、無力さを明け渡して神によって解決してもらうのではなく自己完結してしまいました。自ら首をくくりました。罪人である彼は自らで罪にけじめをつけた、つまり自ら義を立てたのです。神の義によって天国に行くのではない、自ら義を立てる道は滅びであるという事実です。自ら義を立てることによって命の道はないということです。そうではない、キリストこそ、その十字架にこそ神の義があり、唯一の天の前に有効な義であり、私達は自分の義ではなく、この方の義によって神の前に義と認められます。しかし、そのキリストの義、キリストの罪の赦しに立ち返るのではない、悔い改めるのではない、自分の義によって自分で解決した結果ユダは滅んだのです。イエスのこの選びの愛、そして十字架の愛は、まさにその裏切りさえも覆うものです。悔い改め主に立ち返るならダビデのように赦していただけます。ペテロのように赦していただけます。それが福音です。全ての如何なる罪を持十字架は聖めます。イエスの選び、十字架にはその愛がすべて明らかになっています。その愛の完全な証しが十字架です。すべての罪も背きも知った上で、12人を選んだように、すべての人のすべての罪のためにイエスは十字架にかかられるのです。妬みにかられて十字架につけたユダヤ人達、ホサナと叫んでエルサレム入場を大歓迎したのに、扇動され「十字架につけろ、その血が降り掛かってもかまわない」とさえ叫ぶ彼ら。むち打ち唾をかけて罵って侮辱したローマ兵、自分の地位と名誉のために扇動に負けてイエスに罪がないのを分かっているのに有罪にしてしまったピラト。そして裏切るユダのために、イエスは全ての人の全ての罪を知った上で十字架にかかられた。私達一人一人の全ての罪を知った上で、その私達の罪のためにイエスは十字架にかかって死なれた。聖書が私達に今日も伝える大事な事実は、それほどまでに神は私達を愛し、私達を選んでくださっている。そんな私達もイエスは今日も「友よ」と呼んで婚礼の宴に招いてくださっている。その私達への愛です。

7.「イエス・キリストから受けることによって」
この日もイエスはここにおられ、みことばを持って、愛を持って、私達にイエスのからだと地を与えてくださいます。今日もイエスはこの所で、十字架によって成し遂げた、罪の赦し、聖め、新しい命を愛する私達に、どんな私達であってもそのまま受ける私達に、その恵みを与えてくださいます。受けましょう。そして受けるからこそ私達は神も隣人も愛します。ヤコブとヨハネは雷の子である自分の弱さは何より自分自身が良く分かっています。雷の面と、気の弱さ臆病さも。自分の罪深さに苦しみながらも表向きは強がっていました。しかし彼らはそんな自分をすべて知って雷の子と名付け、彼らをどこまでも愛してくださっているそのイエスの愛をも誰よりもわかってもいました。ヨハネはその福音書で、自分自身のことを「主が愛された弟子」と呼びます。愛されるに値しないこの私を、雷であり臆病である私を主は愛してくださった。いやそれでも見捨てて逃げた自分のために十字架にかかって死に、よみがえり、もう一度現われてくださった。赦してくださった。自分が本当に雷の子であり罪深い一人であると自覚すればする程その神の愛、イエスの愛が如何に大きく測り知れないものであるのかが彼には分かっていたのです。だからこそヨハネは自分自身を「主が愛された弟子」と自信をもって呼び、そしてヤコブは最初の殉教者として神への愛の証しのために用いられ、ヨハネは雷のことばではなく、年老いても何より愛の説教者として生涯を閉じます。私達は神の前にも。人の前にも足りなさを覚え、弱さを覚え、罪深さを覚えます。そのことに苦しんだり、悲しんだり、恥じたりもする日々です。自分のそのような所を見て「こんな者が救われるのだろうか。救われているだろうか」と疑いも起こります。しかし聖書の伝える真理はその逆です。そんな罪深い者を、イエスは知った上で余すところなく愛をあらわしてくださった福音を伝えます。そのような私達のためにこそ十字架は世の光として輝いています。闇の中からこの光を見よと私達を絶えることなく招いています。だからこそ心の貧しい者は幸いなのです。そのような自分であることを知り認めるからこそ、神はそのような私達を本当に愛してくださって死んでくださって与えてくださっていることが分かります。闇に輝く救いの光を喜ぶことができます。神の前に罪深い自分、無力な自分であることを認めて全てを主イエスに負っていただきましょう。このイエスのからだと血を受けて、罪の赦しの確信と新しいいのちをいただいてイエスとの道を歩んでいきましょう。