2014年7月6日


「ただおことばをいただかせてください。

〜岩の上に土台をすえて」
ルカによる福音書6章46〜7章10節
1.「はじめに」
 イエスは「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」と神の国のメッセージを語り、その神の国にあるものにイエスに会って「敵を愛しなさい」「裁いてはいけない」と命じました。イエスは良い木と良い実のたとえをし、実が良い木をつくるのではなく、木が良いから実は良いのだと、木であるイエスにしっかりとつながってイエスから受けることによってこそ私達を通して良い実は結ばれていくのだとイエスへの信頼を伝えました。更にイエスは岩の上に土台を据えて家を建てる人のたとえをします。そのことは後の百人隊長の信仰に証しされていることとして見ることも出来るのです。

2.「ことばを行なう人とは」
 イエスは「あなたの敵を愛しなさい」「裁いてはいけない」「赦しなさい」「与えなさい」と命じました。それは出来なくてもそのままでいいということではなくて、イエスはむしろ出来ないからこそ「全てを成し遂げたわたしに求めなさい。わたしから先ず受けなさい。わたしのよって行なえます。わたしにあって行なえると信じなさい」ということで、木の喩えをされたのですがもう一つ喩えを語ります。まず46節。「なぜ、、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、私の言うことを行なわないのですか。」「主よ、主よ」と口で言うのは容易い。しかし主の言うことを「行なう」ことがなければ、その言葉は空しいものだと言います。パウロもルターも同じことを言っていますが、何よりイエスご自身がそういっているのです。「なぜ行なわないのですか」と。ですから「敵を愛すること」も「裁いてはいけない」ということも「赦す」ということも、行なわなければならないイエスのことばであるとはっきりと示されています。それは私達の大事な使命なのです。ではそのように「行なう人」とはどういう人の事でしょうか?

3.「岩の上に」
 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人がそんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台をすえて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたとしても、しっかりと建てられていたから、びくともしませんでした。。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものとなりました。」(47節)
 イエスのことば、命令を行なう人。それは土台が大切であることをイエスは伝えています。しっかりとした土台の上、それは岩の上とありますが、その岩の上に土台を据えて建てられた家は、洪水が来てもびくともしなかったと。今は岩の上に家というのはないか、難しいことかもしれませんが、土台は家にとってまさに最も重要です。特に災害の時はそうでしょう。土台だけでなく、ここにある通りに、そこの土地が脆ければ、家やマンションは頑丈でも、地盤沈下が起きて、マンションが真っ二つになってしまいます。大事なのは土台だとイエスは言います。その土台はイエス・キリストであり、そのことばであるということです。そして「岩」という時には、ペテロの名にも関連していて、この岩の上、信仰告白の上にとイエス様は言われている訳ですから、土台はその信仰ということも示しています。家そのものには川や洪水から、災害から支え、耐える力はないのです。しかし土台によってその家はびくともしなかったとイエスは言います。そしてmそれがみことばを行なう人であると。このしっかりとした土台に家を建てる人、つまりそれは、イエス・キリストを、そのみことばを、土台として、そしてイエス・キリストとそのことばを信じる人であると。けれども、逆に実行しない人は、それはもう「土台なしで地面に家を建てている」と、「土台がない」とも言っています。つまりそれはイエス・キリストとそのことばが土台となっていない。聞かない、信じない、拠り頼まないということです。イエスのことばよりも、他の物事や自分の思いや願いや期待が重要であり、中心であり、拠り所となってしまっている。そして、その中心となっているもの、その拠り所に、直ぐに流されるし、イエスから受けないで、その拠り所から得ようとするがゆえに、イエスのことばを行なおうとしないし、行えるように求めることも起こらないでしょう。その拠り所に従って、その中心とすることを最優先に行動したりしなかったりするのは当然なのです。まさに洪水は、キリストやみとこばではない、むしろみことばやキリストへの信仰よりも楽しく、良いように見えるあらゆる誘惑です。その誘惑は偽りの拠り所は、まさにいつの時代も、現代はなおのこと、洪水のように溢れ流れているのではないでしょうか。しかし土台を間違えたり、確かなキリストと言う土台をすえないなら、それは流されるのです。そしてその土台が、「敵を愛する」ということも「裁いはいけない」ということも、イエスのことばを行なうということを左右するということをイエスは伝えているのです。イエスのことばを行なうために大事なのは土台なのです。ここでイエスは、あなたがたが「敵を愛するために」「裁かない」「誰も罪に定めない」「赦し与える」ために、そのわたしのことばを行なうために、しっかりとわたしという土台の上に家を建てなさい。そうすれば、あなたは何があってもゆるがない。どんな誘惑の洪水にも流されないで、わたしの言うことを行なうことが出来る。そのようにイエスは私達に伝えています。

4.「百人隊長」
 そのようにイエスとそのみことばを信頼するという土台にしっかりと立って、信じて拠り所としている人が百人隊長です。この隊長の部下が病気で死にかけていました。隊長は、イエスのことを聞きました。そしてイエスにお願いするのです。

A.「そうしていただく資格があります」
 まずは隊長はユダヤ人の長老達に言って、イエスにお願いしてくれるようにお願いします。それは隊長は、異邦人、ローマ人であったからでしょう。長老達はこのことを引き受けます。そしてイエスのところに来て言うのです。4〜5節
 「イエスのもとに来たそのひと達は、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私達の国民を愛し、私達のために会堂を建ててくれた人です」
 と。この隊長は素晴らしい人でした。ユダヤ人、ユダヤ社会のために多大な貢献をしてくれて利益をもたらしてくれたと。だから治してもらう資格があるのだと。このように、人のいう資格がわかるのです。人が思う「資格」は、「沢山何をしたか?」です。それと同じように、逆にユダヤ人達は、社会に貢献しない、貢献どころか、罪人と呼ばれていた取税人などは、イエスと交わる資格がないと、いや、彼らだけではない、そのような人々と交わっているイエスにさえも蔑みをむけました。人がたてる「資格」あるいは「功績としての賞賛」は「自分達のために何をしたか?」なのです。しかしながらイエスの命ずる愛の標準はどうであったでしょうか?そのようなものをはるかに越えるものであったでしょう。6章32節では、「自分を愛するものを愛したからと言って何の良いことがあろうか。罪人でもそのことをしている」といい、むしろ「汝の敵を愛せよ」「汝を憎む者に善行をせよ」云々と命じたのでした。そして、それを信仰によってする、キリストにあってすることでした。もはや長老達のいう資格とは次元の違うものをイエスは見ていました。ここでもそうなのです。長老達はそう言って推薦しますが、イエスがその隊長のところにつく前に体調はさらに友人を遣わしてこう言わせます。

B.「資格はないという隊長」
 「イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして百人隊長の家からあまり遠くないところに来られたとき、百人隊長は友人達を使いに出して言われた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私の方から伺うことさえ失礼と存じました。ただおことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます。と申しますのは、私も権威の下にあるものですが、私の下にも兵士達がいまして、その一人に「行け」と言えば行きますし、別の者に「来い」と言えば来ます。また、しもべに「これをせよ」と言えば、その通りにいたします。」(6〜8節)
 まずローマ人の隊長は、「主よ」と言っているでしょう。「イエスは主である」と信じています。そして、長老達が言っているように、隊長は「自分にはその資格がある」などとは言わないのです。彼も長老達や世が見るような資格を主の前に見ていません。むしろ、彼は「資格がない」といっているでしょう。主の前に罪と汚れを見ていることばです。しかし彼はそこにある主イエスの憐れみと、何よりそのことばにすがっています。まさに岩に上に建てた家です。彼は「ことばだけをください。」といいます。彼は軍隊の例をあげ、軍人はまさに権威あることばに従い、自分たちの部下も自分のことばに従うと、いうのですが、そのように、自分が主のしもべであり、主のことばに従うものであるという告白をするのです。それはことばだけもらえれば、その主のことばの通りに必ずなるという、主と主のことばへの信頼を彼に見ることができます。このようにその主のことばを行なうのは、「主のことばへの信頼」があるからということこそを、この隊長は証ししています。ただ自分で自分を鞭打たせて義務的に、あるいは自分の決心や自由意思で、自分に行なわせるということを、「みことばを行なうということだ」と思っていないでしょうか?それは大きな間違いです。そうではないことを、隊長は示しています。そうではない。みことばを行なうということは、みことばはその通りに私達に起こる、生きている神の生きている力あることばであるからこそ、つまり、そのみことばを信頼するからこそ、行なえることだということです。ですからまさに土台の喩えにつながるでしょう。自分が土台とするところに従って人は行動するし、家を建てるし、その拠り所のままに人は流されていきますし、逆に、土台を、拠り所を、中心、主イエスに置くからこそ、従って行けるし、そして見てきましたように、イエスから受けることによって、それは溢れ出て来るし、それは実るのだという恵みの約束も伴うものなのです。

5.「信仰のおこない」
 イエスはこの信仰を見ます。長老達の推薦する資格ではありません。この譲った信頼です。「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついてきた群衆の方に向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人達が家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」(9節)
 「このような信仰は見たことがない」という賞賛です。それは自分の資格のなさを認めて譲ってみことばに信頼する信仰でした。本当の良い行ないも、奉仕も宣教も、隣人への愛、与えることも、あるいは日々、家族に仕え、そして何よりも大切な敵を愛すること、裁いてはいけないこと、赦すこと、与えることも、ただ土台が別のところにある口先だけの「主よ、主よ」ではなく、何より譲って、つまり自分が資格がない者、罪深い者であることを認め告白し、そしてそのようなものに憐れみを表してくださっているイエス様とそのみことば、そのみことばはその通りに私達のために実現すると信頼することにこそ、泉の源があり、良い木があり、そして真の土台があることを、イエスは伝えているのでないでしょうか?

6.「「ただみことばだけをください」〜大事なことは聞くこと、受けること」
 ですから原点は同じです。イエスは主である、イエスのことばはその通りになる、いや、その通りになった。そしてこれまでも、今日も、明日もいつまでも、私達に、与えてくださる、罪の赦しを、そして全ての必要を。そのように信じること、信頼することです。私達がする最も大事な信仰も、ここにある通りです。隊長が「ただみことばをください」そう言った通りです。私達に必要なものは、イエスからみことばに聞き、イエスからみことば、聖餐を受けることです。マルタとマリヤの出来事もそうでした。ただみことばを聞いていたマリヤを「叱ってくれ、マリヤにも一生懸命動くように言ってくれ」と、マリヤを裁き責めて、イエスのことまでも責めていたマルタに対して、イエスは「どうしても必要なことは一つです。マリヤはその良い方を選んだのだ」といいました。それはみことばに聞くということです。私達もこの隊長が「ただみことばをあたえてください」と言ったのと同じように、イエスが与えてくださるみことばの説教に聞き、そしてイエスが与えてくださるイエスのからだと血、聖餐を受ける。そして恵みのうちに、みことばを信じて帰る、遣わされていく、そのことが何よりの主のことばを行なうことの大事な大事な一歩であることをこの隊長の出来事は私達に伝えているのです。皆さんは、どうしますか。自分たちで井戸をほり、自分たちで水を汲みますか?それともイエスが与える水を受けますか?あるいは、自分たちで一生懸命、実を結ばせて、良い木にするように貢献しますか。それとも、良い木にしっかりと結ばれて、木にあって良い実が結ばれていくことを信じますか?あるいは、どこに土台をすえるでしょうか?イエス・キリストとそのことばですか?それともそれ以外ですか?ぜひ、すべてイエスから受けようではありませんか。イエスが与える水を受け取り、ぜひイエスの水が泉となって私達から湧き出ることを信じましょう。ぜひイエスと言う木にしっかりと結ばれ、イエスが私達を通して良い実を結んでくださることを信じましょう。そしてぜひイエスとそのみことばの上にしっかりと家を建てて、このあらゆる誘惑の洪水の時代にあって、イエスによって支えられ、そしてイエスによって、敵を愛し、裁かず、赦し、与えていけると、信じていこうではありませんか。