2014年7月20日


「マイナスではないマイナスな出来事」
ルカによる福音書8章1〜8節
1.「はじめに」
 「マイナス」ということばは聖書の中にはありません。ここで言う「マイナス」の出来事というのは、私達から見る、いわゆる「災い」、「良くない」「望まざる」出来事。今日の聖書箇所に書かれていることは「災い」のように思えます。けれども実はそれは決してマイナスではないのです。むしろ神であるイエス・キリストにあるなら、それはマイナスではなくプラスとなる。そのことを伝えてくれています。

2.「激しい迫害」
「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒達以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」
 教会に大迫害がおこります。「ステパノを殺すことに賛成していた」とあります。ステパノという教会の執事が、会堂で「イエスは救い主である」ということを伝えていた時に、そのことを信じないユダヤ人の民衆や指導者達は彼を逮捕するのです。ステパノは聖書を冒涜しているのだと。それでもステパノは彼らの前で弁明しイエスは聖書が約束する救い主の成就なんだと伝えますが、彼らは受け入れずにステパノを石打にして殺してしまったのでした。そして「その日」とあるように、このステパノの処刑の日を期にエルサレムでは、ユダヤ人達によるクリスチャンと教会への迫害が一気に強まるのです。その急先鋒、もっとも過激で熱心であったのが、この1節の最初にあるサウロという人物です。サウロは3節にあるように、エルサレムの教会を荒らしただけでなく、家々に入って男も女も引きづり出して牢獄に入れてしまったのでした。その時に使徒達以外の多くクリスチャンがエルサレムから逃れ、地方に散らされてしまうのでした。ステパノの死はもちろん、この教会とクリスチャンへ起こった出来事は、人の目から見るなら、明らかに災いでありマイナスです。教会にはそれまで大勢の人が信じて加えられてきました。エルサレムの教会は大きな集まりになっていました。そこにはさまざまな人種や境遇の人々が一緒にいて、それゆえに食事のことで互いにトラブル等も起こり、その教会の管理運営のために、7人の執事が立てられる程、教会には多くの人々が加えられていたのです。しかしその執事の一人、ステパノが殺されただけでなく、その日から大きな迫害によって教会が荒らされ、牢に入れられ、多くの人は散らされてしまうのです。まさに建物、組織としての教会はなくなってしまったも同じような感じです。人の目、私達の目や価値観では、まさにマイナスです。もしそんな災いに私達があったなら、私達はマイナスでネガティブなことしか思いつかないし口から出て来ないこともあります。そして私達がそこから推測しだす結論では「もう望みはない」となってしまうことも考えられます。あるいは上手く行っていた時のようではない、期待通りではない、自分が思い描いていた通りではないと、そのマイナスの出来事にただ失望するだけかもしれません。災いは教会に限らなくとも、そのようなマイナスの出来事は、どこまでもマイナスであり決してプラスではない。人にとってそれは挫折であり、敗北であり、失敗とみなしてしまいます。

3.「散らされた人々の拠り所」
 けれども聖書はここで何を私達に伝えているでしょうか?
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)
 散らされた人々は「みことばを宣べながら歩いた」とあるのです。彼らはマイナスの出来事に決して失望、絶望しなかったのです。しかもそこで信仰を捨てたり神を呪ったりもしません。むしろ彼らは立ち上がり、神のみことばを宣べ歩いたのでした。このことは私達に伝えてくれています。それは、彼らがこの望みを奪いさるかのような大きな災いの中でも、信仰を捨てず神をも疑わず、それでも立って歩いて行ったその彼らの揺るがない希望と拠り所がしっかりとあるということです。その拠り所のゆえに、彼らにとってこの災いは決してマイナスのままではなかったということです。その彼らを立たせた拠り所がここにあるのです。それは「みことば」でした。あるいは5節には「キリストを宣べ伝えた」とある通りで、みことばとは「キリストのことば」でありキリストの救いの約束のことばです。それが彼らの揺るがない確かなものであったのでした。そしてそれゆえに、彼らにとっては災いもマイナスも、決してマイナスではない、プラスであると確信させ彼らを強くし立たせ歩かせたのでした。そのような確かな拠り所があるということは人生でどんなに幸いでしょうか。どんな災いにあっても、試練があっても、マイナスの出来事があっても、失望に終わらせない、むしろ強め、確信を与え、希望を与える確かな揺るがない拠り所を私達は持っているでしょうか。彼らにはあったのです。それはキリストであり、キリストのみことばでした。

4.「ピリポの証し、キリスト」
 そしてここではその多くの散らされてキリストを宣べていった中の一人のことが書かれています。ピリポと言う人物です。使徒の中にもピリポといますが、そのピリポとは別人です。このピリポはサマリヤ地方に散らされました。そしてサマリヤの町に下って行ったとありますが、一般的なユダヤ人はサマリヤ人とは付き合いを持ちません。サマリヤ人を敵対し、見下して、交わりをしないのです。よくあることとして、人と言うのは嫌なことや、期待通りでないことが起こると、誰かに当たったりすることがあり、その対象は、大いにして敵対する人や下のものに向けられて行くことがおおいでしょう。虐待やドメスティックバイオレンスなども、そのようなストレスのはけ口として立場の弱い人が犠牲になるものです。このようなマイナスの出来事が起こり、ユダヤ人が避けて通る地サマリヤにやって来たピリポですが、彼はそこで決してそのようなマイナスな対応をしません。この散らされたピリポは、そのサマリヤという地で、サマリヤの町に入って行き、そしてサマリヤ人にキリストを宣べたのでした。まさにピリポには敵意さえも乗り越えている強さもあります。彼にとってエルサレムの教会が荒らされ、多くの人々が逮捕され、散らされたこと、それ自体は悲しみであり試練であったのですが、しかしこのようにそれはマイナスではないのです。彼には強さと希望がありました。愛があり、確信がありました。そしてその愛と確信の拠り所であるキリストを彼は伝えて行っているでしょう。みことばであるキリストこそ救い主であるという、希望と確信でした。そして、他の散らされて行った人々も同じようにキリストを宣べてそうして行ったということなのです。彼らにとってはこれはマイナスではない、プラスなのです。それはこのキリストのゆえにです。

5.「キリストはピリポを通してはたらく」
 そしてそれによって何が起こっているでしょう。
「群衆はピリポの話しを聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。」6節
 人々はこのことによって、そのキリストのみことばに聞くのです。そればかりではありません。7節「汚れた霊につかれた多くの人達からは、その霊が大声でさけんで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。」ー悪い霊が追い出され、病気の人がいやされたとあるのです。不思議な出来事ですが、聖書の中ではこのような「しるし」つまり「奇跡」やいやしが起こるのは、キリストがそこに働いていることとしての意味があります。つまりこのピリポをとおしても奇跡が行なわれたと伝えているのは、そのように散らされた人々は、先程も言いましたように、キリストを信じて拠り所としていました。そのキリストを信じて伝えていました。しかしただ彼らが信じていたそれだけではないのです。聖書ではみことばは生ける神のことばであって、みことばのあるところにはキリストがともにおられ、キリストが働かれると約束していますが、その約束の通りに、散らされた彼らに、そのみことばをとおして、イエスが確かにともにおられ、そのイエスが彼らをとおして神の力を表したということが、この奇跡や癒しが私達に示していることなのです。そして8節では、

6.「災いから大きな喜びへ」
「それでその町には大きな喜びが起こった」(8節)
 そう書かれています。このサマリヤの町に大きな喜びが起こったのです。これはマイナスの出来事でしたが、マイナスでしょうか?そうではないでしょう。もちろん最初には、この教会にも、逮捕された人にも、散らされた人々にも悲しみや痛みがありました。当然です。しかしそれは過ぎ去り散らされた人々は確信をもって立ち上がりました。自分を救ってくれたキリストのゆえのです。このような状況であっても、彼らにとっては、キリストは、希望を与え、救いの確信を与え、悲しみを取り去ってくださる共にいてくださる神であり拠り所でした。その神の約束の言葉は彼らにとって希望であり喜びでした。それを伝えて行き、そして彼らのキリスト、彼らの信仰の喜びは、このサマリヤの人々に溢れ出て、彼らにキリストとその大きな喜びは届いたのです。このように、キリストにあるなら、マイナスは決してマイナスではない。キリストにあるなら、すべては喜びとなり、希望となり、プラスに変えられるのです。そしてそのキリストは、今なお続いて私達に同じことをしてくれるのだと私達は今日招かれているのです。これは災いでしたが、しかし神は、人の思いや予測や期待をはるかに越えた素晴らしいことをしてくださったのです。迫害と教会が荒らされることによってエルサレムから負われたこの散らされた彼らから、このサマリヤ人へ、そして彼らとサマリヤ人から、さらにアジア地方、トルコ、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、そして、アメリカ、そして今やこの私達の国に届いているでしょう。災いから始まった素晴らしいことは今私達に届いているのです。

7.「イエスが約束したことばのとおり」
 それはイエスがまさに約束している通りになったことでもあります。「しかし、聖霊があなたがたの上に望まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び、地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)
 このイエスの言った通りにイエス・キリストはすべての敵意を取り去って、私達のところに届いたのです。サマリヤ人の救い等ユダヤ人達は思いも期待もしていませんでした。しかしその敵意や人間の思いを越えてサマリヤ人へ、そして遂には私達に来ている。イエスがです。そして同じように、今私達は誰でもキリストをそのまま拠り所として受けるなら救われるのです。そして同じように、私達もどんな災いや、試練、望まざるマイナスのことが沢山、起こったり抱えていたとしても、その人間の計算や推測や思いをはるかに越えて、私達をとおしても主は良いことをなしてくださるのです。私達においてもマイナスはマイナスではない。キリストにあるなら、すべてはプラスなのです。
「ですから、信仰によって義と認められた私達は、私達の主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私達の立っているこの恵みの信仰によって導き入れられた私達は、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。ローマ5章1〜5節」
 信仰の希望は失望に終わらないと言っています。これを言っているのはパウロと言う人です。今日の1節にあったサウロというのがこのパウロです。彼は迫害の急先鋒でしたがその迫害に行く途中でキリストに会い、キリストによって彼は180度変えられました。今度はキリストを伝えて行くものになったのでした。ここにも人の思いをはるかに越えた神の業を見るのです。マイナスはキリストにあってプラスになり、すべては益となったのです。パウロはこうも言っています。
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。ローマ8章28節」

8.「キリストにあって」
 キリストにあるなら失望は希望に変わります。キリストにあるなら、すべてが益となります。あるいは彼はキリストにあるなら「すべてが新しい」(第二コリント5:17)ともいっています。キリスト教の信仰はこのような信仰です。確かに世にあっては艱難があります。試練があります。苦しみはあります。しかし聖書が伝えることは「キリストにあるなら、失望は希望にかわる。すべては益となる。全てが新しい」その信仰なのです。事実、何よりこの教会の中心にあるこのキリストの十字架は、世にとっては敗北であり、屈辱であり、死でした。これは罪への罰でした、しかしそのキリストの苦しみと死によって、キリストが私達の代わりに死を負って下さったことによって、誰でも新しく生かされることこそ聖書の伝えることです。キリストの死によって、私達は神の前に罪赦され、神との新しい関係が与えられ、天国の道が開かれたのです。まさにマイナスはキリストによってプラスなのです。キリストこそ、私達のマイナスを負ってくださった方、罪を負ってくださって代わりに死んでくださった方、そのキリストこそ、今も私達のすべてを担ってくださり、本当の拠り所となり信頼である方であり、そして約束通り、マイナスをプラスへ、失望から希望へ、すべてを益に、すべてを新しくしてくださるのです。これは私達への神から約束でありメッセージなのですから、ぜひ、誰でもキリストを受けて、キリストが与えて下さる新しい歩みを歩んで行きましょう。