2014年7月27日


「だれでもわたしに躓かないものは幸いです」
ルカによる福音書7章18〜23節
1.「バプテスマのヨハネの弟子達」
「さて、ヨハネの弟子達は、これらのことをすべてヨハネに報告した。」(18節)
 バプテスマのヨハネの弟子達がヨハネにイエスのことを伝えるのです。マタイ11章を見ますと、バプテスマのヨハネはこの時、ヘロデに捕えられ、牢獄にいたことがわかります。ヨハネにも沢山の弟子がいました。彼らはイエスやイエスの弟子達のことをよく意識して見ていたようで、ヨハネの福音書の1章では、イエスの方に沢山の人が集まって行くのをみてヨハネに報告している箇所があります。周りのユダヤ人からは、イエスの弟子達とヨハネの弟子達と比べられるところもあります。ユダヤ人たちは、ヨハネの弟子達はいつも断食しているが、イエスの弟子達は罪人達と食べたり飲んだりしていると、つぶやく場面があるのです。ですから周りのユダヤ人たちにとってはヨハネの弟子達の方が、より敬虔で、評判が良かったのかもしれません。そんなヨハネの弟子達は、この前に起こったやもめの一人息子の出来事を牢獄のヨハネに報告するのでした。

2.「バプテスマのヨハネの質問」
それに対してヨハネですが、
「すると、ヨハネは、弟子の中から二人を呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私達は他の方を待つべきでしょうか」と言わせた。」(19節)
 ヨハネはイエスのもとに二人の弟子達を遣わして言わせるのです。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私達は他の方を待つべきでしょうか」と。特に後半の「私達は他の方を待つべきでしょうか」と言うことばには、ヨハネの質問の意図が表われています?ヨハネに疑いが生じていたのでした。23節で、イエスは「つまずき」とも言っています。バプテスマのヨハネは、救いイエスの前に生まれ、イエスをキリストと指し示す者でした。事実、彼はイエスを指し示して「あの方こそ世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章)と言ったのです。しかしバプテスマのヨハネは救い主、神ではありません。彼は優れた人ではありましたが、しかし彼も一人の人間であり、不完全な罪深い一人であったことには変わりません。ヨハネがここでイエスにこう尋ねるのはどうしてなのでしょうか?ヨハネはイエスが来られたのは「裁きのために来た」と見ていたことを私達は見ることができます。
「斧もすでに木の根本に置かれています。だから良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私はあなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私の後から来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方はあなたがたに聖霊と人のバプテスマをお授けにあんります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、からは消えない火で焼き尽くされます。」マタイ3章10〜12節
 ヨハネは、イエスがそのようにこの曲がった罪の世を裁かれるのだと期待していたのでした。しかしイエスはいっこうにその「裁き」をなさらない。その彼の「期待する」イエスではないことにヨハネは躓き疑うのでした。

3.「私達の期待が王座に座る時」
 私達に何を教えてくれているでしょうか?それは「私達の『期待』」への注意です。もちろん私達が主に期待し、願い、祈ることは素晴らしいことです。しかしながら、祈りや期待は、ゲッセマネのイエスの祈りがそうであったように、「しかし主の御心がなりますように」という、主なる神がなさることへの信頼がないなら、「私の期待」「自分の期待」そのものが、主になり、中心になり、それは主への信頼からますます遠ざけるものとなってしまうものでもあります。人によくある躓きは、「このように祈ったのに、このように願ったのに、そのようにならなかった。だから神は嘘つきではないか?神はなぜ私の願いを叶えてくれないのか?神の御心がわからない。神なんか本当は何もできないんだ。神はいないんだ」と、人は躓くことが多いのではないでしょうか。自分自身もそのように思ってしまう時があることを気づかされます。これは誰でも躓きうる、あるいは葛藤するところではなないでしょうか。そうだとおもいます。誰にでもあることです。ヨハネでさえもそうであったのですから。私達は自分たちで思い描き、願う期待、私達の願望、計画があるものです。しかし、それらは私達の全ての判断の一番の中心を占めやすいものであるのも事実です。まさに心の王座に、一番座りやすいのは、私達の期待、願望、計画と言えます。つまり私達自身ということでもありますが。しかしそれらが心の王座に座る時に、イエスは私達の願いの服従者となってしまいます。そして、その服従者であるイエスが、自分の期待通りにしないとき、王座にすわるもの、つまり自分自身、自分自身の願望や期待が、その思い通りにしてくれない服従者を切り捨てる。それが躓きの姿ではないでしょうか?そのようにして主へのつまづき、疑いは、容易にして私達に起こるものであり、最恐の誘惑ともいえるものかもしれません。

4.「イエスの答え」
 それに対してイエスはヨハネにこう答えています。
「そして、答えて言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音を宣べ伝えられている。だれでもわたしに躓かないものは幸いです。」22〜23節
 イエスは「わたしにつまずかない者は」と言います。そして「自分がしたこと」を指し示しているでしょう。イエスは「わたしを見よ。わたしのしたことを見よ」と示すのです。
 私達の心の王座に、自分の期待が願望が座り、イエス様をその自分の期待に応える服従者としてしまうというのは、それは結局は、「自分」が王であるということと同じです。「自分は」?したい。「自分は」?だけのことをして来たのだから、こうなるのは当然。こうならなければおかしい。救い主ならこうしてくれなければおかしい。それらは、すべて「私は、私の」と結局は「自分が」王様であり、イエスは僕です。けれどもイエスの答えは、ただ「わたしを見なさい」ではないでしょうか?ただ「わたしがなにをしたか。そのことを見なさい。伝えなさい。」ととてもシンプルでしょう。そして、イエスがここで「自分がしてきたこと」として示すものは、見てきましたように、すべて「権威あることば」によるものとして、イエスがなさってきたことでした。まさに「権威あることばによって」、目の見えない者が見、足のなえた人が歩けるようになり、ツァラアトの者がきよめられました。そして「権威あることばによって」耳が聞こえない人が聞こえるようになり、「権威あることばによって」死んだ人が生き返りました。そしていつも変わらないこととして「権威あることばによって」、貧しい者立ちに福音が伝えられているのです。そのことを見なさい。伝えなさい。それがイエスの答えでした。

5.「「私の期待する何か」ではなく「イエスが何をなさったのか」」
 イエスの私達への答えはシンプルです。それはどこまでも「イエスが何をなさったか」です。このように救いの知らせ、福音のメッセージは、「私達が期待する何か」ではなく、いつでも「イエスが、神が何をなさったか」です。そのことを見、聞き、伝えなさいなのです。そして、大事な核心ですが、そのイエスがなさった事の最大のことは何でしょうか?それは十字架ではありませんか?私達の罪のためにこの十字架で死んでくださることによって、私達に罪の赦しと新しいいのちを与えて下さった。そのことこそ「イエスが何をなさったのか」の中心でへしょう。しかしその十字架はまさに世にとっては愚かな事とされます。人々は救い主が十字架刑に処せられることになろうなどとは、誰も思っても期待してもいませんでした。多くの人はこの十字架にこそ躓きました。まさに人の思いや期待が王座にあるなら、十字架は躓き以外の何ものでもなかったでしょう。けれども、人が誰も思いも期待もしなかったその十字架こそが、まさに神の救いの計画であり御心であったではありませんか。パウロもいうのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。」第一コリント1章18節
 私達が見るべき、聞くべきは、「私達が何を期待するか、何を聞きたいか」ではない。「神が、キリストが、私達のために何をなさったか」です。十字架のことばなのです。それこそが救いの神の力であると聖書は言っているのです。

6.「聖書のみことばこそ「神は何を私達になさったのか」を伝える」
 その「イエスが何をなさったのか」を、私達に今日も伝え示しているのは、この聖書のみことばの他にはありません。そして過去のことだけではありません。イエスが今も、永久までもしてくださることも伝えてくれています。つまりイエスが、今日も、明日も、いつまでも、私達にしてくださり、神の御心を私達に実現し、私達を通して、隣人や家族や社会や教会に、実を結ぶのも、この神の生ける言葉である、聖書のみことばなのです。ですから「イエスが何を私達のためになさったか」そして「何をなさるか」を見、伝えて行くということは、聖書のみことばに聞くことにこそあると言うことに他なりません。そのように「イエスが何をしてくださったのか」を見るものは、決してイエスに躓かないし、躓かない者は幸いなのです。イエスは見るべきところを私達に示しているのです。そのように主を、主がなさったことを、十字架を、しっかりと見て、主イエスを神として王とするからこそ、そして、その主が全てをなさるという信頼があるからこそ、まさに、その主に期待し、願い、祈る、本当の喜びと平安と幸いがあるといえるでしょう。期待すること祈ることは素晴らしいことです。それは、主が全てをしてくださったし、これからもしてくださるという確かさがあるからこそ、期待にも祈りにも平安と希望を見いだせますし、その期待も祈りも決して失望しないし、躓きにならないのです。それはイエスが主の祈りで、「御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように」と祈るように教えているに、祈るのです。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするのは主である。」箴言16章9節
「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人はまっさかさまに倒れはしない。主がその手をささえておられるからだ。」詩篇37篇23?24節

7.「おわりに」
 イエスは私達の、主なる神、救い主です。そしてその主ご自身を、ご自身をしたことを見、伝えるようにいいました。ぜひ、私達の救い主であるイエスから目を離さず、みことばから「主イエスが何を私達にしてくださったのか」「何をしてくださると約束してくださっているのか」をぜひ聞き、見、そして主に信頼して、歩みを確かにしていただこうではありませんか。その信頼をもって、主が私達にしてくださったことを、伝えて行きましょう。