2014年8月3日


「あなたは何を見に?預言者よりもすぐれた者を」
ルカによる福音書7章24〜35節
1.「あながたは何を見に荒野へ」24〜25節
「ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆にヨハネについて話し出された。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくな暮らしをしている人なら宮殿にいます。」
 あなたがたは「何を見に荒野に行ったのか?」ーバプテスマのヨハネのことを指しているのですが、イエスは「何を求めて」と問います。バプテスマのヨハネは自分の期待するとおりではないことによってイエスに躓きました。「では、あなたがたは何を見、何を期待して?」と問いかけます。ただ荒野に、風に揺れる葦を見に行ったのではありません。でないなら何でしょう。それは良い高級で華やかな立派な服を来ている贅沢な暮らしをしている人であったでしょうか?確かに、そのような事に人は興味があったり求めたりして集まるかもしれません。「セレブの生活」云々、等ということばが今なお、テレビや雑誌に踊っている昨今、人は確かにそのようなものを見たい聞きたい、そうなりたいという思いに流されやすいのかもしれません。そして「神」とか「救い主」とか「よい知らせ」とか「来るまことの王がきた」いうこと等も、そのような華やかさやきらびやかさにつなげ求めやすいということもあるかもしれません。誰も救い主や王がベツレヘムの貧しい家畜小屋に来られたなど思いもしませんでした。東の博士が星を見て世界の王が生まれることを見た時に、確かに始めからベツレヘムの家畜小屋ではなく、最初はヘロデの王宮にいきました。王や救い主は華やかできらびやかな宮殿と人は思うのです。同じように、世の期待や求めは、華やかか、きらびやかさ、ぜいたくさ、そのような繁栄や成功に向いてしまう。「何を見に?」と問われる時、確かにそのようなものを見に、期待し、来ることは人は多いも知れませんし、現代の物質的に豊かな社会で、消費社会の日本においては尚更そうかもしれません。しかし、ヨハネはむしろその逆の姿と生活でした。もちろんヨハネのところにきた多くの人はその貧しい衣服や暮らしを見に来たのでもありません。イエスは続けます。

2.「預言者よりもすぐれたものを」(26〜27節)
「でなかったら、何を見に行ったのですか?預言者ですか。そのとおり。」(26節)
 あなたがたは預言者を見に荒野へ行った。その通りである。多くの人々は預言者であるバプテスマのヨハネを見にきたのです。そして「預言者ヨハネに」期待しました。預言者のことばに聞き、悔い改めのバプテスマを受けました。しかしイエスはこう続けます。
「だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」
 イエスはいうのです。あなたがたは確かに預言者を見に荒野へやってきました。その通りです。しかし「その通りです」と言いながら、「だが」と否定します。あなたがたはそうでも、しかし本当は、それ以上のものを見るためであるというのです。つまりあなたがたがそこで見るように導かれたのは、バプテスマのヨハネではない。それは「ヨハネより優れたもの」をと、イエスは言うのです。このことは伝えているのではないでしょうか。人の期待は預言者までであったのです。イエスもヨハネと並ぶ「預言者」の「一人」として「期待」されていたのかもしれません。しかしまさにそれ以上のこと。つまりあなたがたの思いや期待を、はるかに越えた、神からあなたがたへの啓示と賜物があるのだということをイエスが言おうとしていることがわかるのです。そしてそれを聖書から伝えます。
「その人こそ、『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう』と書かれてあるその人です。」(27節)
 これは旧約聖書の引用ですが、「わたし」とあるのは「父なる神」ですが「あなた」とあるのはその救い主のことをイエスは指しています。救い主の前に、救い主の道を備える預言者ヨハネは確かにきた。しかしこのみことばは、預言者を中心に示す預言ではありません。まさに何より救い主を指し示しています。その方こそヨハネより優れた人。その人こそあなたの前にあるこのわたしだとイエスは、ご自身のことを群衆に示すのです。事実、そうです。ヨハネはどうであったでしょうか。ヨハネ自身がイエスを指し示してきました。彼はイエスを指して「私の後から来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである」と言ったのはこの方のことです。」(ヨハネ1:15)「私はその方のくつひもを解く値打ちもありません」(ヨハネ1:27)「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのでした。イエスはそのヨハネの示す先を見るように教えるのです。ですから、「何のために、何を見に、何を求めて」ーその答えは、私達の思いや期待をはるかに越えた素晴らしいものが私達に与えられている。それはご自身、救い主イエス・キリストである。イエスは伝えているのです。ですから前回のヨハネへの答えと同じです。「わたしを見よ」「わたしが何をしたのか」を見、伝えなさいなのです。

3.「何のためにここ(礼拝)に?イエスに会うために」
 確かに、バプテスマのヨハネはイエスが言っている通り、優れた人でした。預言者でした。いやイエスが「女から生まれた者の中で、ヨハネより優れた人は、一人もいません。」(28節)と言う程の優れた人でした。けれどもあなたがたに神が示しているのはバプテスマのヨハネではありません。バプテスマのヨハネを見るためではありません。彼は優れた立派な人であり預言者だけれども、あなたがたが見るのは彼ではない。彼よりすぐれた者、みことばが指し示して約束する救い主、ヨハネ自身も、「私の後から来る方は、私にまさる方である」「私はその方のくつひもを解く値打ちもありません」「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言って指し示したその方である。それは「わたしである」「あなたがたもわたしを見なさい」ーそれがイエスの群衆へのメッセージであり、現代の私達へのメッセージであり、答えであると、今日、教えられています。そしてこのイエスのことばにこそ、礼拝の意味が教えられています。それは私達は何を見るべきか。何を見るためにくるのか?そのことを私達もたえず問われています。もちろん教会に、華やかさ、きらびやかさ、贅沢さ、ご利益や繁栄を期待するためではないでしょう。それとも、預言者ですか?牧師ですか?それもあるでしょう。「牧師に」会いにくるのだ。その「牧師の」話しを聞きにくるのだと。しかしそうではないこともわかるのではないでしょうか。教会も牧師も説教も、それはバプテスマのヨハネのようにイエスを指し示すものです。もし世界中のどの教会でも、牧師や説教者が自分を指し示して、自分を誇示したり自己顕示したり、自分の思いを説教しているならそれは、いくら話しが面白くても、聞く人の人生や成功や自己啓発の力になったとしても、もはや牧師でも教会でもありません。いくら沢山、人が集まったとしてもです。ヨハネはイエスを指し示しました。教会も牧師も説教も、イエスを指し示す。それが目的です。イエス・キリストのみことばを説き明かすのです。その「指し示す人」ではなく、指し示す人が「示す先にあるもの」こそ、私達が見るべきお方であることをイエスは教えています。「わたしを見なさい。わたしが何をしたのか。何を約束しているのか」を見なさい、伝えなさいと。私達はそのためにここに集められているのです。イエス・キリストに会うため、イエス・キリストご自身が、説教者、牧師を通じて語ってくださるみことばを聞くため、そしてイエスご自身がみことばによって与える真実のイエスのからだと血である聖餐を受けるためです。そのイエスのからだと血によって、私達もたえず死んでよみがえり、罪の赦しと新しいいのちを受けるためです。事実、それこそが教会が始まったときから2000年変わらない大事なことであり、事実、私達はそれこそを受けて来たし、それを受けることによってこそ、イエスの恵みをいただいて来たし、今日もそれこそを受けるのです。そのように今日もイエスのみことばと聖餐で、古い人が死んで新しくされるからこそ、信仰はたえず更新されて行くのです。イエスとそのみことばがするのでなければそれは意味も力もないし、イエスしかそれはできないのです。ですから、もしみことばと聖餐で、古い人が死んで新しくされることがないなら、信仰は支えられるものがありません。自分の力でただ信仰を保っているかのような錯覚があるだけです。しかし本当は、支えきれないのですから、結局、罪の赦しと救いの喜びも確信も疑いに変わっていくのです。そして、イエスよりも他のものを見て流され、その見る先がたとえすぐれた預言者やそのような人であっても、イエスを見ないなら、結局は、躓いて流されて行くことになるでしょう。私達自身は、とても弱い存在です。いや、それ以上に、信仰や救いのためにも、罪に対しても、無力そのものではありませんか。ですから、新しい歩みは、イエスからイエス様のいのちを受けるのでなければ、私達は古いままです。だからこそ私達にとっては、イエスから受けることこそ、新しさのすべてです。だからこそこの方、イエスにこそ会うため、イエスからこそ受けるため。そのためにこそここに来るのではないでしょうか?その大事な点を見失えば、教会、礼拝にくることは苦痛であり、重荷であり、楽しくないのは当然です。イエスは「わたしを見よ」「わたしがしたことを見なさい。伝えなさい」と言っています。「イエスが何を私達のためにしてくださったのか」それこそが私達への答えであり、見るべきところなのです。

4.「イエスから受けるのでなければ」
 本当に私達だけではむしろ、悲しいことに、それをして行く力がありません。むしろ私達自身では逸れて行くようなものであることをここでは更に教えられています。イエスは30節では、バプテスマのヨハネの教える神の御心を拒む宗教指導者たちのことを指しながら、「この時代の人は、何に例えたら良いでしょう」といいこう言うのです。
「市場に座って、互いに呼びかけながら、こう言っている子供達に似ています。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。」というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊に疲れている』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲もうとすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。」(30節)
 子供達とは、神から遣わされたバプテスマのヨハネでありイエスご自身でしょう。まさにヨハネは悔い改めを伝え、イエスの道を備えました。イエスを指し示しました。そしてそのイエスは神の国の福音を伝えました。しかし人々はそれを受け入れることができませんでした。彼らはヨハネ、イエスどちらを見ても、イエスは何をしたのか、何を伝えているか。何を約束しているかを見ないで、表面的な揚げ足ばかりをみて、理屈をいって拒み、受け入れませんでした。彼らは旧約聖書の律法や預言書の専門家であり、精通していた人々でした。しかしそれでも彼らこそ率先して、ヨハネの指し示す先も、イエスご自身のことばも拒むのでした。そして彼らはヨハネも処刑し、イエスをも十字架にかけるのです。イエスはこれを「この時代の人々」として言っています。この「時代」ということばは、この世の人々を指しています。つまり現代の私達、すべての社会、全ての人々をさしています。つまり私達全ての人間の性質を示しているでしょう。ですからこれは私達は自らでは、ただ表面的なことしか見ることができず、しかもその僅かしか見ていない。私達達は自らでは決してイエスのことを見れない。隠れたる真理も神も見ることができない。むしろ神をこばみ神のことばを拒もうとする、罪深い私達、私達自らでは悔い改めることもできない、そのような私達人間のことを伝えています。

5.「イエスから受けることの幸い」
 しかしそうであるからこそ、私達は、今、救いの御業は、「御子イエス・キリストの恵みによって」であるということ、今、信じ救われていることが如何に恵みであるのかということに至るでしょう。まさに拒むものであり、迫害するものであったパウロは、自分がなぜ「イエスが何をしてくださったかを見、伝えるものになったのか」、その答えを言っています。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身からでたことではなく、神の賜物です。行ないよるのではありません。誰も誇ることのないためです。」(エペソ2章8〜9節)
「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはた私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)
 拒むしかできないような私達に、神は、約束の通り預言者を与えました。約束の通り救い主イエスを与えて下さいました。その預言者は約束の通り、イエスの道を供え、イエスを指し示しました。そしてそのイエスは、救いの福音を伝え、恵みのゆえに、十字架の死と復活によってそれを実現してくださった。そしていつの時代も変わることなく恵みのゆえにみことばと聖餐を通して現代の私達にも、信仰と、その罪の赦しと復活のいのちを、与えて下さっています。それが今日もイエスが私達に語っている「わたしはあなたが何をしたのか」の答えであり、今日も与えて下さる「イエスがしてくださった」恵みに他なりません。私達はそれによって今日も明日も永久に生きるのです。私達は、そのイエスを見、イエスに聞き、そして、その「イエスから受ける」ことに幸いがあります。まさにイエスが「取税人たちさえ」というその「取税人たち」は罪人と呼ばれ蔑まれ、事実罪深い一人一人でした。しかし彼らは、レビの例にわかるように、ただ「受け」て従ったものです。しかしまさにそのようにそのようなただ受けた「取税人」こそイエスの与える神の国に与ったものであり、イエスはその神の国で一番小さな者でも彼(バプテスマのヨハネ)よりすぐれているとさえ言っているのです。実に幸いではありませんか。私達クリスチャンは神からはただイエスを信じて見、聞き、受けるだけです。しかしその時にこそ、そのイエスが与えるみことばと聖餐を通して、イエスのいのちと恵みが確かに私達に生きるのであり、イエスは、私達の思いや計画をはるかに越えたことを、社会で、家族で、教会で、私達を通して隣人に、して行ってくださるのです。そしてそれこそ神が私達になさる本当の益です。だからこそ私達はまず、イエスが何をして下ったのか。何を与えて下さるのかを、ぜひ見、喜び感謝をもって「イエスがしてくださる」この聖餐を受けましょう。そして、主よ。用いてください。天で御心が行なわれるように、地にあっても、私達を通して、御心を行なってください。そのように祈り求め信頼して、今週も歩んで行きましょう。