2014年8月17日


「イエスが彼のところへ」
ヨハネによる福音書5章1〜9節
1.「ベテスダの池」
 このベテスダの池はエルサレム神殿の羊の門の近くにあった池です。その池を取り囲む廊下に、大勢の病気の人や、盲人や、足が不自由な人、衰えた人が伏せっていたのでした。それは下の脚注4節に、「主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水を動かされた後で最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」という理由があったからでした。そこにイエスがやってきて、その中の一人に目を留めるのです。その人は38年間病気の人で、さらには彼も池に入りたくてここにいるのですが、7節を見ると分るように池の中に入れてくれる人もいません。行こうとすると先を越されてしまいます。彼は38年間という長い間、病気で苦しんできただけでなく、本当に惨めで、望みも失っている彼であることが分ります。そんな彼にイエスは目を留めました。そして声をかけ病気を癒し立たせたのでした。
 このところには、私達の救い主としてこられたイエスの姿、そしてそのイエスが与えて下さる救いの幸いが私達に伝えられています。

2.『「私達から神へ」ではなく「神から私達へ」』
 まず第一の私達のメッセージは、神である救い主イエスは、神の方から、イエスの方から、このベテスダ、この病気の人の所、そして私達のところに来られるという幸いです。
A, 『「If(もし)」の信仰』
 普通、宗教や、その宗教の教える救いや悟りというのは、方向が逆ではないでしょうか。つまり私たちの方から神へ近づくように努力し、がんばって神に少しでも自分の努力で近づくことによって救われるのだと教えます。そうであると救いは私達にかかっていると言うことです。そのために修行、苦行しなさい。善行をしなさい。そのために努力しなさい。ささげなさい。そして「?しなさい、そうすればこうなります。救われます。ご利益があります」と教えるのではないでしょうか。それは「IF(イフ)」の信仰です。これはキリスト教の中でさえもそうなってしまうことが多い教えです。「いっぱい良いことをすれば神の怒りをなだめることができる。救われる。」そのような教えも出てきました。あるいは「いっぱいささげものをすれば、いっぱい奉仕をすれば、敬虔なんだ。聖くなれるんだ。そして神に喜ばれて、成功するんだ。繁栄するんだ。」そのような教えは教会でもいつでも出て来て流行ります。けれどもキリスト教の救い、聖書の伝えるイエス・キリストによる救いは、まったくその逆です。
 まさにイエスの方からエルサレムにやってきます。イエスの方からこの羊の門を通りベテスダの池の回廊を通っていきます。もちろん祭りの日ですから、イエスはエルサレムのこの神殿で礼拝するためにきてそこを通ったのです。しかしこの病気の人の方から努力してイエスのところへというお話ではありません。そうではなくイエスがそこを通り、イエスの方から彼に目を留めて、イエスの方から話しかけます。彼の方からイエスへではないでしょう。彼はここに伏していただけでした。そして彼から求めているわけでもありません。むしろそのことばは後ろ向きで「あきらめ」が表われているのです。「彼の方から」イエスへ、救いへ、神へではないことがわかるはずです。そしてそのような彼にイエスが、イエスの方から「起きて、歩きなさい」とことばをもって癒し立たせたことがわかるのです。
B, 『「神から私達へ」を知る:thereforeの信仰』
 聖書が私達に伝えるのは、この「方向」です。それは「私達から神へ」「私達が神のために」の方向ではなく、全くその逆。「天から、神から、私達へ」「神が私達のために」なのです。聖書は最初から終わりまでそのことを私達に教えています。聖書の始めは世界の始め、天地創造が書かれています。しかしそれは人間が世界を造り神を造り、神のために何かをして来たということは書いていません。神が天地を創造され、この私達人間も生み、神がいのちを与えてくださった。そして神が祝福してくださったと書いています。そして神がまず最初に一方的に人間を愛し、守り、与え、導いていることが聖書の最初に書かれていることであり、そのように神から受ける存在が人間の本来の姿であり、神との関係でした。最初の人間はただ神から受けて神に信頼する存在として書かれています。しかしやがて、人間の方から神のことばを否定し、背いていきました。「人間の方から」、神を拒み否定する。人間はまさに今がそうであるように、神はいない、神は必要ないとするようになり、むしろ自分たちが神のように、自分中心に人は生きるようになって行きました。しかしそれでも、この「方向」は変わりません。神はそれでも、そのような否定し背を向けて行く人間に、止むことなく、神の方から語り続けるのです。旧約聖書というのはその記録です。それは神の方からの裁きの言葉というよりも、人々に「神に背を向けている」という事実を知らせて、「あなたがは背を向けているから、私に立ち返り信頼しなさい」という導くことばであり、むしろ愛の言葉であります。そして何より、そこで、神は、神の方から、救い主を送る約束をしてくださり、その通りに、神が、天から私達に救い主イエスを送ってくださったということを聖書は伝えています。クリスマスの話しは誰でも知っています。イエスの誕生だと。しかしその誕生の時、人間の側では、救い主がきたのに、誰も知りませんでした。両親のヨセフとマリヤさえ戸惑いました。だれも神が私達に救い主を送ってくださったということが分りません。人間は何もしなかったのです。できなかったのです。しかしクリスマスは、まさに神の方から約束を与え、その約束の通りに神は救い主をベツレヘムの家畜小屋へ、天から私達人類へ、「神から私達へ」の出来事であることを、何より表しているのがクリスマスの素晴らしさです。その通りに、イエスは、このベテスダの池でも、イエスからこの38年間病気の彼に癒しを与えたのです。そしてそのことはまさに同じように、変わることのない神、イエスは、今も、今日も私達に、イエスから私達へ、ここに招き語りかけ、そして「私達ががんばって神へ」近づいて私達が救いを得るのではない、「イエスから私達一人一人に」救いを、新しいいのちを、与えて下さるということこそ神から私達へのメッセージです。ですからこの教会でも礼拝でも「私達がイエスのために」ではなく、「イエスから私達のために」すべての救いの恵みが与えられる、その時、場所であり、そして、私達はそのことをただ受けるのがこの教会であり礼拝なのです。それは「私達が?すれば、こうなる」の「If(イフ)」の信仰ではなく。「イエスがすべてしてくださる。だから」の「therefore」の信仰といえるのです。「天から、神から、イエスから、私達へ」ぜひこの恵みの方向の幸いを第一に覚えたいのです。

3.イエスの「よくなりたか」の御心
 第二の私達へのメッセージは、6節のイエスの彼へのことばです。「よくなりたいか」。イエスは「よくなりたいか」と優しく語りかけてくださるお方であるということが今日の第二の幸いです。
A, 「良くならせるために」
 天から私達の所へ来られたイエスは、私達の苦しみや痛みや悲しみに同情できない方ではありません。イエスは私達が本当に、弱り果て、時に折れそうになり転びそうになり、挫折し倒れそうになるということを、本当に良く知っていてくださっています。まさに彼のように望みを失いそうになる程に、苦しみと悲しみのなかに絶望する経験に陥るときがあったとしても、神は私たちに、そのような私達だからこそ目を留めてくださいます。知ってくださるのです。天から来られたイエスは決して私達を裁くためにきたのではありません。あるいは「完璧で立派な私たちの姿を見るため、試験をするため」に来たのでもありません。「よくなりたいのか」とイエスは言っているでしょう。私達が良くないことを知っているのです。そしてむしろ「よくなる」ことこそを何より願い、良くしてくださるのが救い主イエスなのです。事実、イエスはいつでもこの「よくなりたか」の思いで、弱り果てた人、苦しみと悲しみの人のところへとイエスの方からやって来て手を差し伸べるのです。罪人とよばれ嫌われていた取税人レビの出来事はとても有名です。彼は一人座っていましたが、イエスの方から彼の所へ来て語りかけ友となりました。そしてレビが、イエスを招いて食事をしていると周りの人は、あんな罪人と食事をするのかとイエスを蔑みました。しかしイエスはいうのです。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」ルカ5:31〜32
 と。まさに「よくなりたいか」の心ではありませんか。イエスのその思いは、罪人にさえも及びます。いや罪人こそをです。実に、人間のもっとも深い、闇であり、苦しみであり悲しみは、この罪です。それは、神を否定し神から離れ、自分のことしか考えられない、自分こそを神であるかのようにふるまう、すべての人にある性質です。私自身もそのような罪ある一人です。しかしイエスはまさにその人間の最も深い問題であり、闇の根源であるところにまでも来て、語られ、触れて、「よくなりたか」と語りかけているお方であるということです。そして私達がどんなに罪深くとも、いや尚も神に背くようなものであっても、それでもイエスは、私達の所にこられ、裁くのではない、与えて下さる方、癒してくださる方、赦してくださる方、救ってくださる方。それがイエスです。「よくなりたか」の言葉にはその意味があるのです。
B, 「罪人への疑問」
 しかし、罪の赦しというとを伝える説き、確かにある人は罪人を指し疑問を感じていうのです。罪人の罪がそのままでいいわけがない。罪は裁かれなければならないと。まさにその通りなのです。罪は裁かれなければなりません。そうでないなら正義はどこにあるでしょうか。神は決して罪をそのままで良いとはしていません。むしろ神はその罪を裁いたのです。それは、この十字架でです。しかしそれは、その人、罪人を裁いたのではありません。神はその人を裁かずに、このイエスにすべての罪を負わせて裁いたと聖書は伝えているのです。そしてこのイエスが代わりに裁かれたので、その人は裁かれませんと聖書はいうのです。それがこの十字架の意味することです。そして聖書は実はここの十字架こそが私達すべての人のために神がなさったことであると伝えているのです。これが私達と何の関わりがあるだろうかと、疑問に思うのではないでしょうか?私達は罪とは関係ない、誰にも悪いことをしていない、確かにそうかも知れません。しかし人の前ではそうであっても、神の前では皆さんどうでしょうか?まず、本当に人に対して潔白であるだろうか?何より、自分の心を問うなら、汚い心は確かに自分に見ざるを得ません。それは確かに人は分らないことです。しかしその汚さは、何より神を前にしてです。私達は神に背いて、否定し、自分たちを神としてきた、神のように、自分勝手に思い判断し行動して来ました。そうであるなら、自分は、神の前には、まさに堂々と立っていることができない自分であることを自分を見る時に気づかされます。神の前にあるなら、正しい人は一人もいません。罪のないという人は一人もいません。そして、すべての人が裁きを受けなければならない罪人であるのです。しかしその裁きこそ、イエスが負ってくださったと聖書は伝えるのです。イエスはそこまでもしてくださった。いやそれこそがイエスの来た目的、救いの目的にほかなりません。この絶望するこの彼の所、そして、罪深いものところに来られたイエスの姿は、まさに私達がどんな一人一人であっても、その私達の所に来られ、裁くのではない、私達にも優しく語りかけ、触れて、交わり、そして救ってくださる、そのような私達の救い主イエスであることを私達に伝えているのです。今日もイエスは私達の罪や汚れさも全て知った上で、「良くなりたいか」と優しく語りかけそして全てを負ってくださいます。そして確かにイエスは必ず私達に良くしてくださるのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。」ローマ8:28

4.「神のことばこそ」
 第三のメッセージは、8?9節で「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人は直ぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」とあるよに、イエスは確かに良くしてくださる、助けてくださる、救ってくださるのです。そしてここで大事なことはイエスは「ことばをもって」それをなさるということです。このように救い主はそのことばに力があり、私達にも永遠に変わらないことばを語りかけ、ことばをもって働かれる、良くしてくださる、救ってくださるのです。この38年間病気の彼にも、ことばをもって癒し、立たせ、歩かせました。聖書は一貫して私達に伝えています。神はことばをもって全てのことをされ私達に働かれると。その天地創造も神は「ことば」によって創造し、神のことばがその通りになったことこそ記し伝えていますし、神がことばをもって人の思いをはるかに越えたことを行なってきたことこそ聖書が私達に語っていることです。私のことばには力はありません。しかし聖書の言葉には本当に力があるし、私達を生かし、働き、本当に良くするのです。ですから今日もこの聖書の御言葉の語られる所、ここにイエスは確かにおられて、イエスが今日も、この時も私達に天の御言葉を語ってくださっている、今はそのような素晴らしい時なのです。私は「神は何を私達のためにしてくださったのか」をただ取り次いでいる道具に過ぎない者です。神が今日も、明日も明後日も、私達に言葉を語ってくださり、私達はいつでも聞くことができる。そしてそのことばこそ、私達に赦しを与え、働き、生かし、変える、ことばこそ、神の愛を伝え、分らせ、私達に、どんな時でも平安を与えることができる、どんな苦しみや悲しみにあっても、神のことばによって救われ、再び立たせていただき、新しく歩ませてくださる。その神のことばの素晴らしさを私達に伝えてくれているのです。

5.「結び」
 イエスは、私達一人一人のために来られた私達の救い主であり、今日も私達に多くの恵みと祝福を与えてくださっています。私達は誰でも、ただそのまま受けるなら救われています。ぜひイエスを受け、イエスが私達のためにしてくださった、そしてこれからも与えて下さるすべてを受けようではありませんか。そのイエスのゆえに、神からの新しい歩みが私たちのうちに始まって行くのです。