2014年9月7日


「入って来る人々にその光が見えるために」
ルカによる福音書8章16〜21節
1.「はじめに」
 この「あかり」の譬えは、種の譬えと別の話しではありません。イエスは9節からの「種についての説き明かし」として、この「あかり」の譬えを続けていることがわかります。この「あかり」の譬えでイエスは私達に何を説き明かしているのでしょうか?

2.「隠されないものとは?」
 の「あかり」の譬えが伝えていることは、それは「隠されていない」、「明らかにされる」、あるいは「表に出る」という事です。ろうそくに火を灯す時、あたりまえのことですが、その灯火、あかりを、隠してしまうということは意味のないことです。決してしないことです。当時、電気のない時代、夜には油の灯火がありました。それは暗闇を照らします。それを寝床の下に置くというのは、まったく灯火の意味がないことになります。そのように「あかり」「灯火」は「隠されない」ものです。明らかになるもの、表に出るものであり、人のため、人に、明らかにされるものです。ではイエスはこの喩えで、何が隠されず、明らかにされるということを伝えているのでしょうか?それは15節にあった、良い実、実り、実を結ぶこと。つまり信仰による良い行いです。ですからその信仰による良い行いは、暗闇を照らす灯火のように、世に明らかにされるものであるということをイエスは意味しています。つまり私達の、正しい良い心、へりくだった悔いた心にイエスの御言葉の種がまかれる時には、必ずその実、良い行いは、隠されていない、明らかになる、表に出て来る、イエスによって私達は良い行いをするようになるということをイエスは意味しています。

3.「恵みの方向」
 このようにイエスは、実を結ぶということの大切さを強調しています。私達が良い行いをするということは神の御心であり、いやむしろ必ず実を結ぶために種、御言葉が天から蒔かれると見て来たのですから、みことばも救いも、信仰も、全ての救いの恵みは、まさにこのため、私達を通して実を結ばれて行くために、私達が世にあって、隣人に、信仰の良い行いをしていくために私達は救われた、全ての恵みを与えられているということなのです。
A, 「救い(義認)の矢印」<別紙にて図解>
 ゆえにとても大事なポイントですが、私達は何度も何度も、「恵みの矢印の向き」が大事だと繰返し見て来ています(別紙にて図解)。それは先ず、救いも信仰も、みことば、助けも、礼拝も、聖餐も、すべての恵みは、「天から地へ」「神から私達へ」、つまり「上から下へ」の矢印の向きです。
B, 「恵みを受けた者の矢印はどちらへ?」
 けれどもそこからが重要ですが、ではそこから矢印はどちらへですか?「下から上へ?」確かにそうです。それは私達は救いの恵みを喜んで、讃美をささげます。信仰を告白します。喜びと感謝を表しますのです。応答です。それでは私達の行ないは?生き方は?良い行いは?どうでしょう?それは「神に対して」良い行いをするのですか?それは一理ありますが、「神に対してする良い行い」というのは、文字通りのことですか?ここであかりは「隠されず」「明らかにされ」そして「『入って来る人に』その光がみえるため」とあるでしょう。つまり、種の実が実り熟するということ、私達に灯されたあかり、つまり、良い行いのその矢印は、そのように「隣人へ」ではありませんか?つまり良い行いの矢印は「上へ」ではないということです。まさに横へ、隣へ、水平方向だということです。むしろどうでしょうか?イエスは、天国は、私達が神に、上に、良い行いをするから成り立つものなのでしょうか?そうではないでしょう。私達によって何かをされなくても天の国は天の国、イエスは神です。神は私達の上への良い行いがなくても神であり、全能の神です。むしろ神と私達の関係ではどこまでも「上から下へ」しかないということです。礼拝や讃美もそれは「下から上へ」ではなく、本来は礼拝も讃美も信仰告白もない者である私達に、神が恵みのゆえに私達の口に「上から下へ」天から私達へ、イエスから私達へと与えられたものでしょう。そのように神と私達の関係は「上から下へ」だということです。では、そのように「上から下へ」恵みを受けた者、種を受けた者の、その実りは、誰のためでしょう。それはむしろ「隣人のため」だということです。明かりは「入って来る人が見えるため」とイエスもそのことを望んでいるということです。そのように私達が恵みによって救われたのは、神を愛するのはもちろんですが、イエスが私達を愛してくださったように、赦してくださったように、隣人を愛していくため、赦して行くためです。隣人に仕えて行くため、与えて行くためなのです。イエスも「この小さいものにしたことはわたしにしたことだ」とも言いました。貧しい者や困った人に、与え、水を飲ませる時、それは「わたしにしたことだ」とも言いました。むしろ隣人にすることこそ、神にすることであるということまでイエスは言っています。そしてイエスはマタイ22章では、律法の中で一番大切なものは何かという質問に対してこう答えます。
「そこでイエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22章37〜40節
 「あなたの隣人を愛せよ」それは「神を愛せよ」と同じように大切である。この二つの戒めにかかっている。」そう言いました。ーこのように、私達の受けた救いの恵み、神が私達に与えてくださっている多くの恵みを、必要としているのは神ではありません。神は私たちが救われる前から神であり、私達が何かをするから神が神になるのでも神の国が成り立つのでもありません。神も神の国も私達の存在の前から永遠なるもので、私達が何もしなくても神は神、神の国は神の国です。むしろ神がイエスを、御言葉を、救いを、罪の赦しを、聖霊を与えて下さった。それが福音ですが、その福音を受けた私達から、その恵みを必要としているのは神であるわけがないでしょう。恵みは神から来たのですから。その受けた恵みを必要としているのは、隣人ではありませんか?私達は受けます。私達はまず受けるものです。そして受けたから、与えるのです。与えることができる恵みも受けている。与えるためにこそ受けているし救われています。「誰へ」ですか?「神へ」ではありません。「隣人へ」です。そして良い地に蒔かれた種、正しい良い心、へりくだった悔いた心に蒔かれたみことばは、それは必ず実り、その実りは、隠されていない。暗闇を照らす灯火のように、闇で明らかにされ、周りの人へとその恵みが必ず及んで行く、あるいは、イエスが「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがなく、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14)と伝えたように、イエスの与える恵みは、自分から周りに、広がって行く、溢れ出て来るようになる。そのことがこのところからのイエスから私達へのメッセージです。

4.「正しい良い心ーへりくだった、悔いた心で」
 けれども、こう聞く時に、私達は必ず自分の現実に直面するでしょう。そうではない自分です。誰でもそうであるはずです。罪深い自分がやはりここにいるのです。むしろせっかくの「あかり」を隠してしまう、無いようにしてしまう自分自身、私自身を気づかされます。私達の不完全さ、罪深さという現実です。そうまさに種の喩えであった、道、岩、荊のような心が私にある。そのような心の状態には誰でも直面する。そしてそのことに気づき、自分がいやになる。神に前に立てない。アダムとエバのように、神の声を聞いた時に、隠れてしまう疾しい自分という、その罪ある自分の姿です。皆さんはどうでしょうか?ルターはクリスチャンとは「義人にして同時に罪人である」と言いましたが、本当にクリスチャンの姿を的確に表した名言だと思います。
A, 「『正しい良い心で』の恵み」
 そのような時に、やはり先週の福音でした。「正しい良い心」のその本当の意味を知っていることこそ、私達の光となるでしょう。それは「自分の罪深さを見、知り、認め、悔い改める心、へりくだった、悔いた心」のことでした。そのような本当に神の前での自分の罪深い現実を認めてこその、神の前にへりくだった悔いた心で、聞く時にこそ、みことばがイエス様によって実を結んで行くのだという、「律法」ではない、「恵みの、福音の」メッセージであったでしょう。
B, 「あかりはイエスの恵みの福音」
 皆さん、そうではないでしょうか?ここでイエスが「あかり」の喩えをあえて用いたことには重要な意味があります。種まきの譬えを思い出してください。イエスはいいました。人は「見ていても見えず、聞いていても悟らない」と。そのように人の現実を解っています。そして弟子達さえもわからず、イエスが彼らに説き明かして、はじめて目が開かれたでしょう。このように私達はむしろ解らないもの。闇の中にあるものであり、自らでは灯火をもたない、灯せない者ではありませんか?その私達のところに天から来られたイエスでしょう?。聖書ははっきりと伝えています。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。?すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていいた。」(ヨハネ1:4〜5,9)
 まことの光は天から来られたイエス。そのイエスと言う光がすべての人を照らし出すまことの光です。灯火です。そのイエスと言う灯火をイエスが私達に灯してくださるということが福音であり救いの恵みです。灯火が私達にともるのは、イエスが私達の所に来たからです。イエスが触れたから、救ってくださったから、働いてくださるからです。明かり、灯火はイエスからの恵みを意味しているのです。むしろ自分ではいのちの光を灯せない私達が自分たちで必死に灯そうとしてもいつまでも灯らないし、私達が自分でしている限り、イエスが私達に光を灯す余地がなくなります。それは、まさに「見ていても見えず、聞いていても悟らない」道、岩、荊という心です。けれども、自分でいのちの光を灯すことを放棄する時、つまり、へりくだった、悔いた心に、イエスとイエスのことばを受ける時、イエスがそのまことの光を私達にも灯してくださり、その灯火は、世に輝き、入って来る人はその明かりを見て救われるのです。やはりここでも「正しい良い心」つまり「へりくだった、悔いた心」にイエスを受け入れることの大切さをイエスは私達に伝えてくれています。

5.「聞き方に注意しなさい」
 イエスは「聞き方に注意しなさい」(18)とも言っているでしょう。「自分で」明かりをともすかのような「聞き方」を指していません。まさに正しい良い心、へりくだった悔いた心です。その心にこそイエスの明かりは灯るし、そしてまさにそのようなへりくだった悔いた心にイエスが来てくださり働いてくださるからこそ、それは18節でいう「持っているもの」、つまり「イエスを持っている者」として、イエスが増々与えて下さる。逆に、イエスをもっていないもの、へりくだった悔いた心ではない、高ぶった、自分は正しい、自分はできるという心は、イエスをもっていない。もつことができない。その人は、まさに持っているようでもっていない。見ていてもみえない。聞いていても悟らないままであり、そして持っていると思っているものさえも取り上げられ、失ってしまうというのです。大事なことは「聞き方」です。良い正しい心で聞くとはどういうことなのか。明かりは誰が灯すのか?その「聞き方」でしょう。

6.「おわりに」
 私達はどこまでも罪深い者です。そこで私達が自分自身で「罪深くない、正しい、正しくなれる」と、自分で明かりを灯せる、ということを神は求めていません。イエスはそのために来たのでもありません。私達の罪を全て受け入れて死ぬため、その身代わりによって私達を赦され、私達が生かされ、イエスが私達を通して隣人に泉をわき出させるため、恵みの明かりを私達を通して輝かせるためです。そのために私達は何もできません。いやできなくていい。むしろ聖書が示すままの罪深い自分自身を素直に認め、そのままのへりくだった悔いた心に、そのままイエスを受けること、持つこと、イエスにすべてを任せることなのです。そのような私達こそをイエスは喜んでくださいます。まさに21節で、尚も罪深い弱い不完全な弟子達の罪深さをご存知の上で、会いに来た母マリヤや兄弟を差し置いても、この弟子達こそ、「わたしのことばを行なうものであり、わたしの母であり兄弟である」と言ったように、そのようにへりくだった、悔いた心に導かれ、イエスを持ち、信仰をもつ私達こそをイエスは「わたしの母」「わたしの兄弟」と呼んで下さるのです。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:4〜5