2014年9月14日


「あなたの信仰はどこにあるのですか?」
ルカによる福音書8章22〜25節

1.「イエスと一緒の歩みの恵み」

 イエスと弟子達の旅が続きます。そのイエスとの歩みは「恵みの歩み」でした。なぜなら、イエスの方から歩み寄り、声をかけ、弟子として召してくださいました。そしてその一緒の歩みも、イエスが神の国を教え、示し、戒め諭し、愛し導いて来た歩みでもあったからです。多くの奇跡もありましたが、それも弟子達に、ご自身こそ主であり、信頼すべきであることを教えるためのしるしでありましたし、多くの教えもイエスは「わたしこそ救い主、助け主、権威ある言葉で助け、救い、導くのだ」という恵みを伝える教えでした。イエスとの旅は「恵みの歩み」なのです。

「そのことのある日のこと、イエスは弟子達といっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子達は舟を出した。」(22節)

 まず第一に、イエスと弟子達との歩み、旅は、クリスチャン、私達の、イエスと一緒の歩み、旅とあてはめることができます。そしてその歩みは、このように、ここでもわかります。イエスのその権威ある言葉で「さあ、向こう岸へわかろう」と語り、導き出してくださるその恵みが先ず第一に確認できます。ですから私達の歩みもこのように、イエス様が「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言って、誘い、伴い、導き出してくださっている恵みの旅、歩みであることを第一のこととしてまず喜び感謝したいのです。しかしです。


2.「イエスと一緒の歩みは試練の歩み」

「舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろしてきたので、弟子達は水をかぶって危険になった。」(23節)

 まず「イエスがぐっすり眠ってしまわれた」とあります。イエスはこのように疲れも眠気も覚えられるように、まことに人となられ、私達と同じ肉体を持たれていることがわかるのですが。そんな舟を渡しているときに突風が湖に吹き下ろしてきて、舟が水をかぶってしまうのです。そしてその強い風と嵐は続き、舟も揺れるでしょうし、波も高いため増々、舟は水をかぶったことでしょう。舟は徐々に沈みそうな状況になって来たのでした。このことは私達に何を教えているでしょう?

A, 「突風と大波が襲う」

 まず、このようにクリスチャンの歩みというのは、決して、いつでも平穏無事で、何も問題も、トラブルも、失敗も、挫折もない、起こらないということではない、ということです。むしろ逆です。突然、突風のごとき大きな問題が吹き付けたり、それが嵐になったり、大波のような自分も周りも揺れ動くようなトラブルになったりもするのです。そのまま大波の水がかぶるような突然の大問題が襲って来て、圧迫し続け、それで舟が沈みそうになるように私達も沈みそうになることも人は当然あるでしょう。クリスチャンというのは、聖人になったのでも神になったのでもありません。クリスチャンも人です。ですから尚も罪人です。相手がクリスチャンであってもなくても、皆、罪人です。誰でも罪人の家庭であり、罪人の社会、政府、組織であり、罪人の教会であるでしょう。それは紛れもない現実です。そして罪の世の中のそのような罪人の集まりですから、まさにそこには試練はつきものです。突風、大波、嵐、台風、舟が沈みそうになる、必ずおこります。クリスチャンになれば、そのようなものが全くなくなり、常に平和で、常に繁栄し、いつでも成功するということではないのです。

B, 「罪人のままでおともした」

 実に、弟子達も「罪人のままで」イエスについて行っています。このイエスにお供する旅で、しかも十字架の直前まで、弟子達同士は見栄の張り合いをし、誰が一番偉いかを論じていました。ヨハネとヤコブの兄弟は、他の弟子達を出し抜いて、しかもお母さんをつかって、イエスが王になった時に、自分たちをイエスの王座の右と左に置いてくれと言いました。彼らは「熱心」ではありました。イエスの十字架を告げられたときも、一緒に死のうではないかと意気込み、誰かが裏切ることを告げられたときも、「他の弟子達が裏切ってもわたしは決して裏切らない」とまさに熱心であったのです。しかし「人からでる熱心さ」に過ぎません。彼らはむしろ、そこに躓き、御言葉やイエスの御心や恵みを悟るのに遅く、自分の罪深さを認めるに遅く、何度も失敗しながらついて行った旅であったのではありませんか?その最後は、まさにイエスを見捨て逃げることであり、三度知らないと呪って誓うことであり、そして恐れて戸を閉ざしてこもっていることでした。しかしまさにそのような罪深い弟子達こそを、イエスは真に心から赦し、愛し、受け入れ、そしてことばと聖餐を持って、戒め、育て、導いてきたのがイエスによって召された弟子達、クリスチャンの歩みであったではありませんか?

C, 「教会の時代であっても」

 それは使徒の時代、教会の時代さえも同じでした。教会は平穏どころか迫害の連続でした。散らされました。そして教会でも弟子達同士の考えの違いによる論争も書かれており、不和や迷いもあり挫折も失敗もあったのが始めの教会の歩みであり、それは今も変わらない教会の歩みの現実です。まさに使徒達やクリスチャン達、教会も「溺れそうです、死にそうです」と叫ぶ時もあったのです。いやそれがクリスチャンの歩みであり教会でもあるのです。しかしまさに彼らを導き彼らを通して実を結び、彼らの思いや計画をはるかに越えて、使徒達、クリスチャンたち、教会を導き事を行なってきたのは主イエスご自身、その御言葉と聖霊の業であったことこそ使徒の働きが伝えていることなのです。

D, 「悪魔が種をついばみ、人の心が邪魔をする」

 私達の新しい歩みは、嵐の連続、大波の連続です。危機もあります。それは種まきのたとえで見てきました。悪魔が私達の心を狙って襲って来ると。種である御言葉を、私達の心から摘んで持って行ってしまうと。それはそのことによって、私達はイエスを見なくなり、イエスの声である御言葉を聞かなくなり、イエスを信じなくさせて、救われなくさせるために、悪魔は私達を攻撃して来るのだと。クリスチャンとして歩む時、サタンの攻撃はつきものなのです。むしろ神が愛する者程、悪魔はその愛する子をなんとか救わせまいと、激しく攻撃してくるでしょう。まさに大波、大嵐、突風、台風です。そして、そこでは、私達の罪の心が、道、岩、荊のような心として、御言葉を妨げしまうとも見てきました。このように、尚も罪深い私達であればこそ、信仰生活は尚も試練であり戦いであるのです。


3.「イエスが与える希望、勝利、励まし」

 しかしイエスはこれを幸いな恵みとしていいます。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 ヨハネ16:33

 イエスと共に歩む旅には患難が必ずある。イエスと共にあればこそ苦しみは大きいものです。しかしどうでしょうか?イエスの私達への約束は。その患難、苦しみにあってもイエスは「「わたしにあって平安を持つため」わたしはあなたに話す」と言っています。そしてそのような患難、苦しみがあっても、イエスは「わたしにあればこそ「常に本当の勝利が既にあるのだ」」と私達を励ましています。皆さん、この「イエスにあって」ということこそ、イエスとの一緒の旅、歩み、新しいいのちの歩みは、希望の光、私達の真の拠り所となるものであるとイエスは私達に伝えているのです。パウロは苦難の中でこう証ししています。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、苦難を甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」 第二コリント12章9〜10節

 イエスとの歩みは、苦難です、弱さです、迫害、侮辱、苦痛です。けれどもそのイエスのゆえに恵みは十分、イエスのゆえにこそ弱さにイエスの力が現れる。だからこそイエスのゆえに弱さを誇ろう。イエスとの歩みは、イエスのゆえにこそ、イエスにつながっているからこそ、イエスに聞き、イエスとそのことばに支えられるからこそ、勝利であり強さであるということを私達に示しているのではないでしょうか?


4.「イエスとそのことばが助け救った」

 実に、この嵐で彼らを救い助けたのは、イエスとイエスのことばです。

「そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私達は溺れて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とを叱りつけられた、すると風も波も治まり、なぎになった。」(24節)

A, 「権威あることば」

 何度もルカの福音書で見て来ています。「権威ある主の言葉」ではありませんか。そのイエスの言葉は、自然現象である風と荒波に対して叱りつけたのです。マルコの福音書の方を見ると「静まれ、なぎになれ」と具体的に言われた事も書かれています。その時、風や波、海さえもイエスの言葉の通りに従ったのです。私達人間の思いや知識や常識や計算をはるかに越えているのですがイエスの権威ある言葉はそれをなしました。イエスはこの権威ある言葉をもって弟子達を助けました。このようにイエスの御言葉は、私達を助けるため、救うためにこそ語られているし、そしてその御言葉は事実それをできるし、それは私達の思いをはるかに越えて全てのことに働いて益とすることができる素晴らしい私達への恵みなのです。

B, 「天地創造の神のことば」

 そして、イエスの言葉が、自然現象にさえ働くということを見る時には天地創造を私達に指し示しています。創世記1?2章で、神は、自然の大気、風、海、光、宇宙空間、等等にまで「?よあれ」と語り掛けたでしょう。そして創造し、その言葉の通りの営みをさせたのです。神の言葉に従ったのです。24節は素晴らしい恵みの言葉による創造の業を私達に思い出させようと語られています。そしてその言葉によって無から全ての素晴らしいものを創造された神が、今、共に歩み、共に舟に乗り、そしてその同じ言葉を語り、助けてくださったし、今も助けてくださるのだという恵みこそこの出来事の証しなのです。

C, 「その神のことばがともにある」

 皆さん、私達の新しいいのち、イエスとの旅、歩みの幸いと素晴らしさはここにあることを讃美しましょう。天地創造の神がイエスのゆえに私達と共にある。その時の愛と祝福の言葉が私達に与えられている、絶えず語られている、そしてその言葉を持って助け全てのことに働いて益としてくださる。そのイエスが今日も私達に語り、私達と尚も共に歩むことによって私達を世に遣わしてくださる、共に歩む新しい歩みは今この時から始まるし更新されて行く。そのことに優る恵みと幸いと祝福が他にあるでしょうか。そしてそこにこそ私達の真の平安、慰め、希望の実が必ずあるのだということです。私達自身から律法的に自分の熱心で、「本当は天から受けて持つことができるもの」を自分で何とか振り絞って出そうとしてもそれは私達にはありません。得られません。いかなる人も与えることができません。私たちにある新しいいのちの恵み、歩み、全てはキリストのゆえ、御言葉のゆえだということこそ聖書が今日も私達に指し示していることを見ようではありませんか。だからこそイエスも言います。

「イエスは彼らに、「あなたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子達は驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(25節)


5.「あなたの信仰はどこに?」

 「あなたの信仰はどこにあるのか?」と。クリスチャンの新しいいのちの歩みにとって大事なことは「イエスへ」こその信仰と信頼です。「イエスの」御言葉に聞くことです。皆さん、私達の新しいいのちの歩みは、試練の連続、苦しみ、失敗、挫折の連続かもしれません。私自身その通りです。罪深い自分です。けれども天地創造の神、自然と宇宙を創造し、私達を造りいのちを与えた神、人の思いをはるかに越えてエジプトの縄目から救い出し、火の柱、雲の柱を立て、海を二つに割、天からマナを降らせ岩から水を流した、その神がともにおられる。約束の通りに救い主を与え、そのひとり子である救い主を死に渡す程に私達を愛してくださっている神がともにおられる。その救い主であるイエスがともにあり、助け主なる聖霊が私達とともにあるのです。その主が永遠に変わらず今日も私たちに、罪の赦しと祝福を与え続け、慰め、励まし助けるために、天の御国の完成へと導くために、私達とともにあり語ってくださっている。その「父、子、聖霊なる神こそ私達の神であり、その神様を信じなさい、信頼しなさい。求めなさい、祈りなさい」と、まさにイエスはここで私達に励ましているのではないでしょうか。「あなたの信仰はどこにあるのか?」と。


6.「おわりに」

 ぜひ、ともにおられ、共に歩んでくださる主を、ハレルヤとほめ讃えようではありませんか。そして共にいてくださる主こそを信じ、信頼し、祈り求めながら、主にある旅路の恵みと幸いを胸に今週も歩みを続けて行きましょう。