2014年10月5日


「悪霊が唯一恐れおののくお方」
ルカによる福音書8章26〜39節

1.「陸にあがったとき」

 舟は、湖の向こう岸へ着きました。その地は「ゲラサ人」の地方、ガリラヤ湖の東側湖畔にある所ですが、その岸に上がるなりイエスはある人と出会うのです。

「イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物を着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」27節

 この27節だけでなく今日の所全体が、何かオカルト小説やオカルト映画の世界のような話しで信じがたい人もおられることでしょう。「悪霊につかれている人が長い間、裸で墓場に住み着いている」というのですから。しかも鎖でつながれているのにそれを断ち切ってしまうともいうのです(29節)。普通はお目にかかることのない出来事です。


2.「悪霊」

 しかしながらここからまず教えられることは、聖書にあるように悪霊というのは確かに存在しているということです。30節では悪霊の名は「レギオン」とあります。「レギオン」と言うことばは、当時のローマ帝国軍の一団を表す言葉です。それは小隊でも中隊でもなく、およそ六千人の部隊とも言われていますが、それほど大きな一団を表しています。ですから「悪霊が大ぜい彼にはいっていた」とあるように一人の悪霊ではなく、それほど多くの悪霊が彼に入っていたことを伝えています。その「悪霊」は、当然ですが、人に良いことをするのではありません。ここある通り、悪霊は人に害を与えます。われを失わせ、着物を着させません。そして墓場に住まわせています。墓場は、悪霊が死ということにまさに縛られ、人を生ける死人にしているように、人を死に誘うものであることを示しているかのようです。そして悪霊は、普通ではない力を持っています。彼は何度も鎖に繋がれていたのですが、その鎖さえも断ち切ってしまうのでした(29節)。悪霊には力があるのです。そしてそれは人よりも強いことがわかるのです。その力が人を廃人にし、傷つけたり苦しめたりするのです。それが悪霊という存在であり、それは悪魔同様、確かに存在し、私達の救いや平安を脅かすものであることを私達に教えています。


3.「悪霊が恐れおののくお方」

 しかしです。聖書がここから私達に指し示し教えることがあります。

「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」(28節)

 悪霊は確かに強いのです。人よりも強く、むしろ人は何もできないこともここから良くわかります。人が鎖でつないでもそれを打ち破るのですから。しかしです。このレギオン、悪霊の一団が恐れおののく存在がここではっきりと私達に指し示されているでしょう。イエス・キリストです。まず彼、あるいは「彼ら」は、このようにイエスのことを良く知っているのです。しかもただその存在や名前だけでなく、彼が「いと高き神の子」であり、悪霊を苦しめ深い深淵に突き落として滅ぼすこともできることを彼らは良く知っているのです。そしてまさしく彼らは恐れおののいているでしょう。イエスの前でひれ伏すほどなのですから。この事実が私達に示されていることです。このように悪魔も悪霊も本当に存在する私達を罪や死に誘い救わせないようにする最大の脅威であり敵です。本当に私達を苦しめます。何より信仰を捨てさせ救いを得させないように、永遠の死を追わせるように絶えず働いてきます。それに私達は決してかないません。力が強いです。私達は自らの力、理性、意志や人柄によっても、あるいは誰か他の人の助けによっても、その悪の力に対して私達はどうすることもできません。しかし、その悪魔でも悪霊でも、唯一恐れをなし、おののくお方、太刀打ちできないそのお方、彼らを滅ぼすことができるそのお方がただ一人おられることを私達に示しています。それは「いと高き神の子、イエス・キリスト」、私達の神、救い主、イエスであるということです。


4.「義人にして同時に罪人」

 私達のクリスチャンの歩みというのは、誘惑や試練があって当然の歩みといえます。私達はクリスチャンだから、いつでも問題なく、証し人なんだから、完全で聖人のようで、だから家庭がいつも平和で、夫婦喧嘩もしない、会社でも完璧な上司で、人も恨まない、妬まない、喧嘩しない、傷つけない。いつも愚痴も嘆きもない、という分けではないでしょう。少なくとも私自身はそうであり、毎日、罪深い心を覚えます。クリスチャンになるというのは罪がなくなる、罪を全く犯さなくなるということではありません。尚も罪人であるものが、イエスのゆえ、イエスの十字架のゆえに、ただで義しいと「認めてくださっている」ということが、恵み、救いの意味することです。けれどもそれは「私が義」「私の義」ではなく、どこまでも「キリストが義」「キリストの義」であり、それゆえにということなのですから、私達自身は尚も罪人であることは変わらないのです。いつでも罪の誘惑にさらされているものです。だからこそ、私達のクリスチャンになっての人生は、尚も日々、激しい戦いであるというのはそういうことでしょう。だからこそ、罪深いからこそ、日々、悔い改めてイエスにこそすがって行く人生であるということにもつながるでしょう。私達はまさしく「義人にして同時に罪人」なのです。


5.「私達はどのようにして勝利するのか?」

 そのような戦いの歩みにおいて、その悪魔、悪霊こそが絶えず、私達を激しく攻撃し、働きかけ、誘惑し、悪へ、死へと導いてもいるということです。しかしながら、そのような私達はどうしたらいいいのだろうか?その答えこそ、今日の所にあるではありませんか。その答え、その助け、その勝利、それはイエス・キリストであるということです。イエス・キリストの他には何もないといっても良いでしょう。彼らはまさにここにある通り、イエスに太刀打ちできないのです。だからこそ、彼らは私達の「イエスへの信仰」こそを何より狙って来て捨てさせようとすることもわかるのです。私達が戦いや誘惑の中でイエスへ信頼し求め、イエスによって安心することが、何より私達にとっての強さであり、彼らが太刀打ちできないものであることを良く知っているからです。その私達からイエス・キリストとみことばへの信仰をとってしまい、イエスとみことばへの疑いの状態へと戻してしまえば、彼らは私達をもう自分のものとして征服できることを良く知っているのです。ですから、悪魔は、アダムとエバを攻撃する時に、まさに「神のことばは嘘である」と言う偽りによって見事に疑わせたでしょう。だからこそです。私達がその悪魔や悪霊、罪、誘惑への勝利のために一番、そして唯一、失っては行けない最も大切なものが何かがわかるでしょう。イエス・キリストとそのみ言葉であるということです。これ以外の私達の勝利はありません。このイエス・キリストとみことばによってのみ、私達には勝利があるのです。


6.「イエス・キリストとそのことばこそ」

 皆さん、今日も神は、変わることなく私達に、イエス・キリストとこの十字架と言う、救いの原点を私達に示しています。私達は神の前にどこまでも罪深い者です。しかし、そのような私達に罪の赦しを一方的に与えて下さり、神の前に正しいものとしてくださったのはいったい誰でしょうか? 罪の中に滅んで行くしかない、まさに肉も霊も死の墓場に終わって行くしかなかったような人類、神の国と全く断絶されていたようなこの私達が、まさに一方的な罪の赦しによって、天国、神の国へのパスポートを与えてくれたのは誰でしょうか? イエス・キリスト、そしてこの十字架こそではありませんか。イエスの十字架があるから、イエスが私達の罪の全て、そして私たちが負うべきその罪の報酬である死を、滅びを、墓場を、イエス様がこの十字架で、すべて背負って死んでくださったからこそ、私達はその重荷を下ろされたのではありませんか。だからこそ、私達は今、神の前に喜びと感謝を持って、救いの確信をもって集まることができるでしょう。この神の前に罪あるものが、神の前にイエスの十字架のゆえに、罪のない者とされ、天からまったく新しい人生が、与えられていることは素晴らしいことです。そして力強いことだということです。このキリストのゆえに、このイエスの十字架のゆえに、私達には必ず勝利があるからです。悪魔も悪霊も、このイエスには恐れをなし、負けるからです。人が太刀打ちできないこの悪の力であっても、悪はイエスに太刀打ちできない。そのイエスが私達とともにあり、完全に助け勝利を与えて下さるからです。それをイエスは私達にも同じように「権威あることばによって」日々なしてくださる。だからこそ、御言葉は何より大事であり、私達が御言葉に聞くこと、御言葉に求めることを、御言葉に信頼することこそを、私達は失ってはいけないのです。それはどんな時でも。たとえ自分が罪の苦しみの中にあるときでも。いや、そのような時だからこそ、イエスの御言葉は私たちのうちに働き、イエス様の十字架の勝利を持って、悪霊や悪魔を追い出して、確実に私達に勝利を与えて下さいます。


7.「事実、権威あることばによって」

 事実、イエスはここで、権威ある言葉で、レギオンを斥け、この人を救いました。

「それはイエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命ぜられたからである。」

 と先ずあります。ことばを持って「この人から出て行け」と言いました。そしてレギロンはイエスに「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように」と「言葉を」恐れています。そして32節以下、イエスが豚の群れに「行け」と命じたからこそ、悪霊達は豚の群れに入りました。そのようにしてイエスはその権威あるみことばでレギオンを斥け,この人を救ったのでした。

「人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、座っていた。人々は恐ろしくなった。」35節

 この彼は、イエス様によって救われたのでした。


8.「イエスのわざに背を向ける人々のために」

 さて、この後を見て分るようにこの出来事はすべての人に伝えられましたが、すべての人がそれを受け入れるとは限らないことがわかります。むしろその地の人々は、それまでの自分の生活と利益を守るために、イエスの人知をはるかに越えた救いの恵みを拒んで、出て行ってくれというのです。それが多くの人の、イエスのみことば、福音への反応であることをまさに象徴している反応です。しかしこのところの最後には、イエスの建てている計画で結ばれていることを見ることができるのです。

「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分のためにどんな大きなことをしてくださったかを。町中に言い広めた。」38〜39節

 その人は、お供したいと願いました。しかしイエスはお供させませんでした。それはこの人に計画を持っていたからです。この人がかつてどんなにひどい状態で、そこからどれだけ癒され、救われ、助けられ、変えられたかのまさに証しは、彼自身です。それは、「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったのか」の証しそのものでしょう。そのことを家族に伝えなさいとむしろイエスはこの人に新しい召しを与え遣わしたということなのです。実は、その召しは、このとき一緒にお供している弟子達もやがてそのように「神がわたしにどんなに大きなことをしてくださったのか」を伝えるために遣わされて行くことではまったく同じでしょう。ですから、この人もお供しないから弟子でないのではなく、この人も弟子も何も変わらない、彼もこの時から紛れもなく弟子であるのです。むしろ、彼はお供するのではなく、やがて弟子達がして行くことを、彼は一足先に、この地でして行く、遣わされて行くということだけのことなのです。そしてそう言う意味でこそ、私達もこの弟子達ともまた、この悪霊から救われた人とも同じです。私達も同じようにイエスの弟子であり、そして同じように遣わされています。それは、私達も、「神が私達にどんな大きなことをしてくださったのか」を聞くために、喜ぶために、感謝するために、讃美するために、そしてそれによって愛していくために、与えて行くために、そして証しして行くためにです。ぜひ「神が私達のためにどれだけ大きなことをしてくださったのか」、神は私たちのためにイエスを与えて下さった。そのイエスが私達の全てであり、勝利である。そのことを今日も新たに覚えさせられながら、今、イエスが与えて下さる聖餐にあずかり、ここから新しい週の新しいいのちを歩み始めて行きましょう。