2014年10月12日


「天からの賜物である信仰によって」
ルカによる福音書8章40〜48節

1.「カペナウムに帰った時」

 湖の向こう岸からイエスと弟子達が帰られるところから始まっています。

「さて、イエスが帰れられると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。」(40節)

 「帰られた」とあります。イエスと弟子達の宣教の拠点の町であるカペナウムに帰って来ました。カペナウムでは、イエスは色々なところで、神の国のみことば、福音を語り、多くの病の人を癒したり、悪霊に取り付かれている人々から悪霊を追い出したりもしていました。たとえば家の中で大勢の人が押し寄せる中、みことばを語っていたところに4人の人が病気の友人を寝床に寝かせたまま連れて来て、屋根をはがしてイエスの前に下ろし、イエスがその人を癒されたということもありましたし、取税人レビのところに来てイエスが声をかけ「わたしについて来なさい」と招いたのもこの町でした。そのようにカペナウムでは、イエスのその神の国のみことば、福音によってすでに多くの人に信仰が与えられていたのでした。このように帰って来た時も、大勢の人が待ちわびて喜んで迎えたのでした。そんな中でここでは二人のイエスを信じる人のことが書かれているのです。その一人は、会堂管理者ヤイロです。彼はイエスの前にひれ伏してお願いするのです。12歳の娘が死にかけているから、自分の家に来て欲しいと。つまり癒し救ってくださいと願うのです。そこでイエスは出かけるのですが、そこにヤイロの話しを挟むように、もう一人のイエスを信じる人が登場するのです。


2.「12年病気の女」

 ヤイロの家に向かう時、そして弟子や群衆がイエスを取り囲んで進んでいる中でそのことが起こるのです。

「ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血はとまった。」43〜44節

 12年間直らない病気を抱えた一人の女性でした。「誰にも直してもらえない」と医者であるルカは記していますが、当時、不治の病であることを伝えています。そしてそれは12年間にとどまらず、これからもずっと続いて行く病気であることも示しているでしょう。この彼女はこのカペナウムでイエスの語る神の国の福音を聞いていました。そして、その福音を聞いて、イエスは神の子、救い主であるという、その信仰が与えられていたのです。その彼女の信仰が44節の行動なのです。マタイの福音書とマルコの福音書の方を見ると彼女の思いも書かれていています。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」、直訳では「きっと救われる」と(マタイ9:21、マルコ5:28)。マルコの福音書では更に彼女の詳しい状況が書かれていてこうあります。

「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」(マルコ5:26)

 このようにとても哀れで、人に裏切られ、貧しい彼女であったことが分るのです。そんな苦しみの中で神の子であるイエスこそ彼女の望みであったことでしょう。「神の子であるイエスなら、救い主であるイエスなら、私を癒すこと、救うことができる」、そのようにイエスには力があると彼女は信じているのです。しかしこの群衆です。弟子達も周りを取り囲んでいます。そしてイエス達はヤイロの家に急いでいたことでもあるでしょう。声をかけることもできないような状況なのです。そこで彼女は、先程もあげましたようにに「イエスのお着物にさわることができれば」とせめてイエスの着物だけにでもと、彼女は思ったのでした。つまり彼女は、それほどまでもイエスを信じきっているのです。のようにして彼女が着物に触った、その時、彼女のその病気、誰も直せなかった、12年間も誰も何もできなかった、その病気が、たちどころに直ったのでした。


3.「信仰がなおした」

A, 「イエスの力」

 この出来事は実に不思議な出来事です。それは、イエスの方では「直す」という意図、意識は見られないからです。45節を見ると「わたしに触ったのは誰ですか」と尋ねています。そして46節では、「誰かがわたしに触ったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」ともあるでしょう。このようにして直るというのは珍しい出来事ではあるのです。もちろんこれも紛れもなく神の子であるイエスの力が直したのです。力が表された後でイエスが「 わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と感じるほど、その衣を通しても力が表される程、イエスの力は実に豊かで強いことが分るのですが、しかしここで、イエスはとても大事な、幸いな福音をここで語っているのです。それは48節のことばですが、その前の47節から見て行きますと、

「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスに触ったわけと、たちどころに癒された次第とを話した。」

 彼女は、病気の上に、財産を使い果たしてしまった貧しい女性です。しかも長く続く不治の病が、とかく「罪のせいだ」とつなげられやすいこの社会でもありました。彼女は肩身の狭い思いをして過ごして来たことでしょう。着物に触ることさえ、いや群衆の中に入って行くことさえ、彼女は大変なことであったとも考えられます。そのような中で、自分のせいで、イエスが進む足をとめて「わたしにさわったのは誰か」と探すのです。もう全ての群衆の目はそのことばに注目するでしょう。そして彼女は、「隠しきれないと知って、震えながら」とあります。恐れてしまったのです。大勢の前で触ったことを、勝手に癒されたことを、責められるとおもったのでしょうか。恐れながら、彼女はひれ伏して、すべてを告白するのでした。しかしそれに対してイエスはいうのです。

B, 「信仰の力」

「そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」」

 皆さん、イエスが何のためにあえて立ち止まり、なぜ触った人を捜したのか、そのことが分るのではないでしょうか?それは彼女を「なぜ触ったんだ。なぜ勝手に力を使ったんだ。なぜ勝手に癒されたんだ」と彼女を責めるためではないでしょう。何のために、ヤイロの家への道をあえて立ち止まって触った人を捜したのか?それは、彼女を称賛するためです。彼女の何をですか?それは彼女の信仰をです。イエスはいうでしょう。

「あなたの信仰があなたを直したのです」

 と。皆さん、幸いではありませんか。私達がいま、イエスこそ救い主、神である、助け主であると信じる信仰を持っているなら、私達にその信仰が今あるなら、その信仰には力があるのだということをイエスは教えてくれています。イエスに向いている、イエスこそを信頼し、イエスに求めている、その私達の信仰には力があるのです。しかしなぜ力があるのでしょう。それは彼女に力があったから、彼女から出た信仰でもないでしょう。彼女は、イエスと出会い、イエスの福音を聞いて、福音によって信仰が与えられていた、その信仰であったのです。つまりその信仰は神から、天からの賜物であったのです。その信仰の力です。ですから私達の信仰に力があるという時、もちろん「私達に力があるから、私達から出た信仰だから」ではないでしょう。そうではなく、その信仰は、天の神が、イエスとそのことばによって私達にも今まさに与えて下さっている「天の力」だからこそなのです。その信仰が彼女を直したのでした。神が与えた信仰という天の宝にはまさに天の力があったのでした。ですから皆さん、私達が今、信仰を持っているなら、私達に今信仰があるなら、それは決して地上のものではない、地上にあっては得られない、そして、地上のいかなる宝や価値よりも遥かに優れている、天からの宝を、今、与えられ持っているということを確信し、喜び、感謝しようではありませんか。

C, 「信仰、それは天からの賜物」

 エペソへの手紙でパウロははっきりとそのことを教えています。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」 エペソ2章8〜9節

 パウロは、行いによって救われたのでは決してないことを強調しました。そして「行い」ではなく「信仰によって」であると。それが彼の中心テーマでもありました。むしろ「行ない」による救いや神の国はありえないし、そうであるなら、むしろ人は自分を誇り、自分の功績が中心になることをパウロは良く知っているのです。「誰も誇ることがないためです」とパウロは言うのです。まさに誰も行いによって誇ることがないためにこそ、信仰は、天から、救いは天から、新しいいのちの歩み、聖化も神の国も、すべて天からであることをパウロは教えてくれています。さらにこの後の10節では、「良い行い」さえも、天から備えられていることもパウロは書いています。信仰者にある新しい歩みのすべては、どこまでも天からであるというのです。私達の行いによるのでは決してない、私達自分自身から出たものでも決してない、誰もこの信仰の前に、神の前に、イエス・キリストの前に、自分を誇ることはできません。むしろそれを誇るのであるならば、それがどんなに人の目に立派であっても、それは誘惑であり罪に他なりません。そうではなく、救いも、その救いのための信仰も、恵み、賜物だとパウロははっきりと言っているでしょう。信仰というのはこのように与えられているものだからこそ素晴らしいし、平安なのです。もし信仰が重荷となっているなら、それはイエスからの、そしてイエスへの信仰ではないと思います。自分自身から出ているイエス以外へのものへの信仰となってしまっているのではないでしょうか?イエスを信じる信仰が、私達を救ったのです。それは天から賜物なのです。天の宝を私達は持っているのです。ですから、今、「私はイエスを信じます。」「イエスこそ神の子キリスト、救い主です」その告白が心に口に確かにあるという人は、ぜひ喜び、安心、確信してください。「私は確かに神の前に、罪赦されて救われている」と。ぜひ安心して欲しいのです。


4.「安心していきなさい」

 なぜなら、イエスは最後に彼女に言っているでしょう。

「安心していきなさい」

と。イエスが与えて下さった「イエスへの信仰、信頼」は、このように、どこまでも私達を安心して行かせるためのものです。重荷を負わせ行かせるための信仰では決してありません。今日もイエスは、私達に与えた信仰をもってイエスの前に集め、イエスのことばを語ってくださり、そのことばをもって私達を強め、「あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい。わたしがいるから、ともにいるから、たすけるから、わたしが救うから、わたしに信頼し、安心して行きなさい。」と私達に語ってくださっています。私達自らでは、いかなる行いによっても力によってもありえなかった、その信仰が、今私たちにある、今確かに与えられている、その天の宝を私達が握っていること、もっていることをぜひ感謝しましょう。そしてここにあるように、神からのそのイエスへの信仰にこそ、人の思いや力をはるかに越えた本当の力と強さがあり、そして確かに、私達の思いや計画をはるかに越えたイエスのわざと力が表される、素晴らしい明日、未来、希望が満ちていることを、ぜひここに確信し讃美し、イエスにこその信頼をしっかりもっと、ここから遣わされて行きましょう。次週、続けてヤイロの家での奇跡を見て行きます。