2014年11月2日


「恵みのうちに遣わされる幸い」
ルカによる福音書9章1〜6節

1.「遣わす」

 イエスが12人の使徒達を集めて「遣わす」という場面。この使徒達にやがて教会が始まって行きます。正確に言えば、12人の使徒達の信仰告白の上に教会が始まっていきます。マタイ16章で弟子を代表してペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。それに対してイエスが「このことを明らかにしたのは人間ではなく天にいますわたしの父である。?わたしはこの上に上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝てません。」と言ったことからも信仰告白の上に教会は建てられていることがわかるのです。その教会の先駆けとして、この「遣わす」があるのですが、その「遣わされる」ということは「神の恵みによる派遣である」という幸いを私達に伝えているのです。


2.「力と権威をお授けになり」

 「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を治すための、力と権威をお授けになった。」1節

 1章から見てきて繰返し述べて来た、福音書で一貫していてその中心となることがありました。イエスの「権威あるみことば」です。イエスは権威あることばで、熱や嵐や波を叱りつけて病気の人を沢山を直しして来たり嵐を沈めたりもしました。そしてその権威あることばで悪霊を追い出しました。8章のところで湖の向こう岸で、レギオンという悪霊の軍団の出来事。そのレギオンは自分達を「底知れぬ所へ」と追い払うことができる、イエスの「権威あることば」を何より恐れました。そしてイエスのその権威あることばによってレギオンは豚の群れに追いやられていきました。そしてヤイロの娘の死の出来事。娘は死にました。しかしイエスの「起きなさい」という権威あることばは、その死んだ娘をよみがえらせました。このように天の御子イエスには神の権威あることばがあった。そしてその権威ある言葉とその御業は、イエスはまことに神の子キリスト、救い主であることをまさに証しして来ているのです。そしてこの12人が遣わされる時です。彼らは2節と6節にある通り、神の国、福音を宣べ伝え、病気を治すために遣わされます。しかし大事なことはそのイエスからイエスの力と権威を「与えられて」、遣わされて行ったということに他なりません。このように聖書、イエスが「遣わす」というときは、いつでもこのイエスの力と権威、つまり神の力と権威が「与えられている」という恵みこそ、聖書で一貫して教えられている私達への福音であるということです。そして具体的には、その権威と力というのは、使徒の働きを見るとよく分るように、私達、教会に与えられている「イエスの御名」であり、つまりイエスのみことばの権威と聖霊の力なのだと分るのです。


3.「教会の派遣からわかること」

 使徒の働きの1章8節の派遣の言葉。「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」イエスはそういいました。ペンテコステの日の朝、そのイエスの言った通りに聖霊が与えられて、彼らは福音を伝えるために遣わされて行ったのでした。使徒の働き3章、「美しの門」での出来事。ペテロとヨハネは、足の不自由な人に、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(3:6)といいます。「イエス・キリストの名によって」「歩きなさい」でした。そのことばによってその人が歩きました。そして4章では二人はその「イエスの名」を語ったことで逮捕され議会に連れて行かれますが、その議会でも彼らはこういいます。

「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私達が救われるべき名は人に与えられていないからです。」(4:12)

 と。このように「遣わされ」た彼らの何よりの拠り所であり力であったのは「イエスの名」でした。そしてその名はイエスご自身の救いの力と権威があるのだということを使徒達は信じ証ししていることが分るのです。イエスの名が与えられ遣わされているということは素晴らしいことです。私達もまさにこのイエスの名、つまりイエスの権威と力を受けているということですがその意味することは一体何でしょう。イエスの名によって私達はどんな存在なのでしょうか?私達はいつも「イエスの名のよってお祈りします」とお祈りをします。そしてイエスの名によって礼拝し、イエスの名によって洗礼を授けられました。そしてイエスの名によって今日のように聖餐を行いイエスの名によるイエスのからだと血をうけるでしょう。その「イエスの名」です。それは何なのでしょう?私達にとってどんな素晴らしいものなのでしょうか?


4.「イエスの名:イエスご自身が働いておられる」

 イエスの名、それはイエスの権威と力、つまりイエスご自身がそこに働いてくださっているということです。イエスご自身が、その権威あることばで、病人を癒し、悪霊を追い出し神の国の福音を伝え信仰を与えたように、イエスの名がある所には必ずイエスご自身がその権威あるみことばと聖霊の力ををもって、私達にも確かに介入し「イエスが」助け働くということなのです。ペンテコステの日の朝、弟子達が約束の通りに聖霊を受けたとき、聖霊によって彼らは屋上に上がり様々な国の言葉で語ります。それは彼らの力ではなしえないことです。しかしその不思議はまさにイエスご自身がそこに働いていたということでした。その後も使徒達はイエスの名によって福音を伝えていきますし、多くの業を行なって行きます。しかしその時彼らは自分達が行なったといわず、自分を誇らず、自分の功績ともしません。いや、できなかったのです。なぜなら彼らがイエスの名によって生き生かされ用いられるその歩みは、まさに「イエスが」働いていたからです。イエスの御業であることを信じていたからです。ですから彼らは言いました。「自分達を崇めては行けない。私はあなたがたと同じ人間です」と。そして「イエスこそ神、崇められる方」「イエスが働いてくださっている」と彼らは伝えたのです。皆さん、これがイエスの名です。このイエスの名、そしてそこにある権威と力、みことばと聖霊こそを神は私達に与えてくださっています。そしてそれが意味する幸いは、そのイエスの名が、みことばが語られるその時、「イエスご自身が」確かにいつでも働いてくださっているということなのです。私達はイエスの名によって洗礼を受けました。それはイエスご自身がその時に、みことばと水で、牧師を通して、イエスご自身が与えて下さったのです。つまりイエスご自身が洗礼によって、私達に直接、救いを、聖霊を与えてくださった。そのイエスとの体験、交わりこそ、私達が受けた洗礼の素晴らしいさ凄さです。そして今日行なわれるイエスの名による聖餐式も同じです。みことばのある所にイエスはおられる訳ですから、この時もそして聖餐にもイエスがここにおられ、イエスがみことばを語り、イエスが執行者を通して、イエスがイエスのからだと血を確かに与え、私達はイエスから受けることができるその時でありそれが聖餐の素晴らしさであるのです。このように、イエスの名、イエスの権威と力、イエスのみことばと聖霊が私達に与えられている、そのイエスの名で祈り礼拝し、受けることができ、そこから遣わされて行くということは、イエスが今も今日も明日もずっと、絶える事なくずっと働いてくださっているということなのです。ぜひここからその幸いのうちに私達は日々遣わされていることを信じ讃美しましょう。そしてその神の100%の恵みに囲まれつつまれて遣わされている私達なのですから、その恵み、つまりそれは、私達がしたこと、誰がしたこと云々ではなく「神が私達に何をしてくださったのか」「神が私達にまさにしてくださった」イエス・キリストの救いの恵み、十字架の恵みをいつも見上げいつも覚えいつも受け続けて、そしてそこに満ち溢れて来るのは重荷ではない平安と喜びなのですから、ぜひそのイエスからの平安と喜びを覚えて私達もなおも遣わされて行きたい、神を愛し隣り人を愛し証し人とならせてくださいとぜひイエスの名で祈って行きたいのです。


5.「日々の糧も」

 3節以下のことはまさにその恵みのゆえであることからつながっているイエスのことばに他なりません。このところは私達は何か律法的に捉えやすい所かもしれません。しかしこの3節以下の言葉は、当然1〜2節の言葉があっての言葉です。それはまさに神のまったき恵みのうちにあっての派遣であるということです。そこから3節以下を理解する時に目が開かれます。それはイエスが「遣わす」というとき、それはみことばと権威はもちろん、日々の歩みのすべてまで、つまり日々の身体や働きに必要なすべてのものまでも神の恵みのうちにあり神は配慮してくださっているということをイエスは意味しているのです。イエスは主の祈りを教えてくれましたが、そのイエスの祈りがまさに証ししています。「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈りなさいとイエスは私達に教えているのです。まさに日々の糧も、神は必要な物は必ず満たし与えて下さるのだから明日の心配は無用であるともイエスは教えています。これは律法ではありません。「神がしてくださる」という福音の教えとしてイエスは語っているのです。イエスはここでも本当に変わることなく恵みうちにこそあなたがたは遣わされているのであり、日ごとの糧のこともすべて神の恵みのうちに約束されているのだと教えているのです。「あなたがたは何も心配する必要はありません、恐れる必要がありません。神が与え遣わすのだから。神が常に助け、与えるのだから。」と。これはまさに福音でしょう。このことを私達が信じることができることは何と幸いでしょう。この罪の世にあって、生きること、歩むことは、確かに問題が次から次へと起こり私達は背負います。不安ばかり心配ばかりの人生です。失望し迷い苦しみの多い人生です。しかし教会、クリスチャン個々人にとっても、私達自身や人を見るなら不完全で、無力で、躓きが起こりますが、しかしこの私達の救い主イエスが溢れるばかりの十分な恵みで私達を取り囲み与えて下さっているという、この約束、この信仰に歩むなら、私達はどんなに弱くとも力がなくとも倒れそうでも、イエスのゆえに弱くなく希望があり平安があるのではないでしょうか?詩篇5:11〜12でダビデはこう証ししています。

「こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、永久までも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」

 正しい者、それは神を信頼する者です。その神に信頼するものには、喜びがあり、神の愛と恵みで囲まれている。ダビデの証しです。詩篇37:23〜24でもこうあります。

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れても真っ逆さまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

 私達の主イエス、イエスの名、イエスの権威あるみことば、聖霊の力、イエスの働きにすべてをお任せし、委ね、信頼すれば、平安があるのです。その平安は、「世が与えることはできない」とイエスはいいました。そのイエスが与えて下さる本当に確かな天からの揺るがない平安をもって歩めることはなんと強く何と素晴らしいことでしょうか。イエスはですからこのところで使徒達を遣わす時も現代の私達を遣わす時もこう言っています。「わたしを信じなさい。わたしがあなたとともにいる。わたしがみことばと聖霊であなたに働く、わたしの恵みがあなたにある。わたしのからだと血をあたなに与える。受けなさい。そして安心して行きなさい。」と。


6.「時が良くても悪くとも権威と力あるみことばを」

 その歩みは何でも上手く行くということではありません(5節)。受け入れない人々は多い。事実それはこの後の十字架にも使徒達の教会の歩みでもそうです。このように「遣わされる」教会や私達の歩みは、決して私達が期待するような人間的な成功や繁栄がいつでもあるようなところへと私達は遣わされているのではないことがここに分るのです。「世にあっては患難があります」ともイエスはいいました。使徒達も恵みうちに遣わされて行くのですが、世はその福音、罪の赦しというのは愚かに見えて、本当に宝は泥だらけの価値のないもののように見えることが多いのです。むしろ拒む人の方が多い。現代は何でも欲しいものが手に入り、自分の理想が実現されることが成功や幸福、ステータスとなり、見たいものが見たい時に見れて欲しい情報が欲しい時に手に入り、ますます自己実現が求めやすく達されやすくかつ提供されている、この「消費主義偏重社会」にあっては、人間に神の前での罪を語り、悔い改め、キリストを受け入れて神に立ち借りなさいという福音を掲げても、多くの人はばからしく見えて来てもある意味当然です。むしろ「神になれる」かのような人の満足を満たすような見るに麗しい実をぶら下げたり、天にも届くというような「人の」崇高で美しい理想の看板を掲げたバベルの塔のような高いものを建て上げる方が人は賛同して集まってきます。しかしそれでも「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です」第一コリント1章18節。これが人の本当に光です。使徒の教会の時代も多くの人は馬鹿にしました。ギリシャ哲学が大流行していた時代。そしてローマの華やかな繁栄の時代で、ローマ皇帝を崇める方が、経済的に豊かになり安全も保障され幸せになれる道でした。そして十字架のことばはそのような中では愚かで迫害の対象でした。しかしそのような世にあっては愚かであっても、使徒達は、まさにイエスの権威と力という恵みによって遣わされているということこそが強さとなり、そのイエスにすべてを任せることができたからこそ、死と隣り合わせの教会であっても、散らされても、迫害されても、彼らには誰を責めたり誰を裁いたりするのではない、いつでも喜び、平安、平和、希望があって彼らは本当の光でありいのちである福音をまっすぐ伝えて行ったのでした。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々は健全な教えに耳を貸そうとせず、自分の都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次々に教師を自分達のために寄せ集め、真理からそむけ、空想話に逸れて行くような時代になるからです。」第二テモテ4章2〜4節

 このますます患難な時代の中で、ぜひ私たちは、キリストこそを見上げ、キリストこそを信じましょう。それが勝利であり力です。そしてぜひイエスが与えて下さる溢れるばかりの恵み、イエスの名、イエスの権威あるみことばと聖霊とその力が与えられていること、そのように今もイエスが聖餐を与えて下さることをぜひ喜び感謝し賛美し受けましょう。そしてそのように全てのことは、「イエスがしてくださった」そして「これからもイエスがしてくださる」と、イエスにすべて信頼し、委ねて、ぜひ安心してここから今週も遣わされて行きましょう。