2014年12月7日


「指し示す先にあるまことの光」
ヨハネの福音書 1章6〜9節

1.「天の礼拝」

 今、天に凱旋した伊藤牧師や聖徒達は天でイエスのもとでつねに礼拝をしています。同じイエスは御言葉と聖餐のあるところ、つまりここにも来てここにいます。いわば御言葉と聖餐のキリストにあって私達は天につながり、あるいは、天がここにくだり、私達は聖徒達と同じ礼拝、聖徒達と一緒に礼拝しているのです。その恵みうちにアドベントのみことばを聞きましょう。 

 クリスマスのストーリーには、このバプテスマのヨハネの事が必ず語られています。彼は、「神から遣わされた」と書かれています。それは救い主キリストが生まれる前に現われ道を整える、つまり「救い主を指し示す預言者」として、旧約聖書の時代から既に約束されていた人でした。その神が約束された通りに神はバプテスマのヨハネを遣わされたということも、アドベント、そしてクリスマスの素晴らしい幸いであるといえるでしょう。


2.「キリストを指し示すものが遣わされた」

「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしするために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」6〜7節

 このバプテスマのヨハネは、「あかしするために来た」「光についてあかしするため」そして、「すべての人が彼によって信じるため」と書かれています。これがバプテスマのヨハネが遣わされた理由でありました。それは「光を証しするため」でした。その通りに、ヨハネは何をしていくでしょう。

20〜27節

 ヨハネは何をしていくでしょう?ヨハネは「キリストを指し示す」のです。さらに29〜34節 

 ヨハネは何をしていくでしょうか?ヨハネは「キリストを指し示す」のです。

 皆さん、神は私達に私達のための救い主を送って下さいました。しかし神は、その救い主がどの方であるのかがわかるように、「この方だ」とはっきりと指し示すものまでも送って下さり、私達が「その方がだれであるのか」を分るようにしてくださったのです。なんという幸いなことでしょうか。もし救い主が来ても、その救い主が分らないのであるなら何と悲しいことでしょうか?事実、イエスは、低い所へとこられ、人が思いもしないようなところへと現れたました。イエスは、ローマ総督やヘロデ王の家ではなく、田舎のナザレの大工の家に生まれます。生まれた所は、宮殿や豪華な家の中で沢山の僕に囲まれたところではありません。家畜小屋の中でした。イエスが抱かれたところ、それは女王や王妃の膝の上ではありません。マリヤの膝の上であり、飼い葉桶の中でした。そして、イエスは、当時は立派で敬虔とされていたパリサイ人や律法学者ではなく、貧しい罪人達のところへ現われ共に食事をされました。そして最後は、玉座ではなく、裁判の被告人の座、そしてゴルゴダの十字架であったではありませんか。もし指し示す人がいなかったのなら、誰がそのようなところに救い主を認めたでしょうか?まさに育ちや生まれとしてはサラブレッドである、祭司の息子であるヨハネこそがキリストだと言う人さえいたことが個々には書かれているでしょう。さらには東の博士は最初はヘロデの宮殿にメシヤを探しにいったことも書かれています。そして羊飼い達は、まさに御使いが指し示したからこそ、家畜小屋の救い主を見つけ礼拝できました。今日のこの御言葉、何という幸いなことでしょう。このように、「救い主はこれである」と、指し示すものを神は送って下さったということです。私達がまことの光がわかるように。この方こそまことの光であり、救い主であるとわかるように。このように光を、キリストを指し示す指を神が与えて下さったからこそ、私達はこのイエスこそまことの光、救い主であると、告白へと導かれている。この恵みと幸いをこのところは私達に伝えています。実に私達への慰めでもあります。まさに伊藤良雄牧師はそのために、私達に「この方こそ光」「この方こそ救い主」として私達に忠実にキリストを指し示してきてくださったのではないでしょうか?そのことのゆえに、私達は今もキリストを見る事ができる幸い。救われた喜びを讃美できる幸いがあります。私達は、その指し示す先生を送って下さったその神の恵みを覚え、天のイエスの身許にある先生に心から感謝を表すとともに、そのようにいつまでも、私達にも、まことの光を、救い主イエスを「この方こそ救い主だ」と示し続けて下さっている主なる神を今日も誉めたたえ讃美していきましょう。


3.「まことの光が『来る』」

 さて、バプテスマのヨハネの証言についてのついてはさらにこう続いていますので見ていきましょう。

「彼は光ではなかった。ただ光について証しするためにきたのである。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 8〜9節

 聖書は証ししています。ヨハネは光ではなかった。救い主ではなかったと。ヨハネは、ただ光について証しするために遣わされ、用いられた、主の恵みであったのでした。そしてこの福音書は、私達にその指し示す先にあるまことの光こそを示すのです。その示す先にこそまことの光があり、その光こそ全てを照らす。やみの中に輝いて世の全ての人々の闇を輝き照らすのだと。その示す先にこそ、まことの救いがあるのだと。それが、この2014年のアドベントにも昔から変わることなく私達に伝えられているクリスマスの招きにほかなりません。

 皆さん、変わらない福音のメッセージは、ヨハネが指し示す先におられる方、御子イエス様は、「すべての人を照らすまことの光」として、天から私達のこの「世に」、「来られた」のです。そのことです。この9節「来る」という言葉は極めて重要な言葉だと言えるでしょう。なぜなら「来る」ということばは、救いは全くの天の恵みであることを私達に伝えているからです。

 どうでしょうか?私達は自分たちでがんばって天に行くことができるのでしょうか?決してできないものでしょう。自分の力で頑張って救いを得ようとしても、それもできないものでしょう。クリスチャンになってでさえも、自分の努力で敬虔であろう、聖くあろうとしても、もし私達が「神の前に」正直であればあるほど、自分がどこまでも不完全で罪深く敬虔でもなければ聖くもないことにただ気づかされるのです。パウロがいうように、神の前に正しい人は一人もいないのであり、私達はどこまでも神の前に罪人なのです。むしろ先程もいいました。神が私達のためにして下さるのでなければ、神が、救い主を指し示す人を遣わすのでなければ、神がみことばを与えるのでなければ、私達は神さえも、世に来られたキリスト、まことの光さえも気づくことさえないものなのです。そして今日の聖書は言います。この時代の極めて優れて敬虔な預言者であったヨハネでさえも光ではなかった。彼自身には救いの力も何もなかったことも伝えているでしょう。彼の指し示すその指に力が光があったのではありませんでした。人は自らでは救いを見いだす事はできません。いくら優れた敬虔な人であっても、預言者ヨハネであってもです。しかし、今日の箇所は私達に恵みを伝えているでしょう。6節では「神から」という恵みを現す言葉にはじまっています。そして、9節では私達が「行く」ではなく、「まことの光が世に「来る」」と私達に伝えられているのです。


4.「指し示す先を見よ。それが指し示すものの喜び」

 「私達が天に、私達が神に、私達が救いを」、ではなく、『神が』、私達に、私達のために、まことの光を与えて下さった。『神が』、『神の方から』、この救い主を天からこの地へ、私達へ、与えて下さった、送って下さった。「救い主が」、来てくださったのです。その「まことの光」、真の救い主が、この時も、今日も変わることなく、私達に指し示されているのです。まことの光、救い主が来られた。このイエス・キリストこそ、まことの光、私達の、私達のための真の救い、救い主であると。私達は、この主のアドベントの日、ぜひしっかりと、神が遣わして下さった指し示すものが指し示す、その指の先、まことの光、まことの救い主、イエス・キリストをはっきりと、しっかりと見ようではありませんか?その指し示す先におられる御子イエス様こそ、いつでもどんなときでも、時が良くても悪くても、私達の、私達のためのまことの救い主、慰め主、助け主、平安を豊かに与えて下さる方である、そう信じようではありませんか。実に、それこそ指し示すヨハネ自身の喜びでもあったことまでもこの福音書は伝えています。

3章29〜30節

 光を証しし指し示すヨハネの喜びは、私達の救い主御子イエス様が盛んになる事。そしてすべての人を照らすまことの光をすべての人が見て、その福音の喜びと平安に生きることです。それがクリスチャンが、やみの中で光に従って歩む歩みなのです。


5.「キリストのおられるところにある真の礼拝、天の礼拝」

 その光が、まことの救い主が今日も、天からこの私達の所に来て下さっています。このみことばのある所にイエスがおられ、そしてこの聖餐のあるところに、イエスがここにおられます。イエスは遠いところにいる救い主ではありません。イエスはどこにおられるか?みことばに、聖餐に、イエスは来て下さり、言葉をかたり、イエスのからだと血を、今日も与えて下さいます。私達はまさに指し示す救い主を、今日、豊かに頂く事ができる、そして罪の赦しと永遠のいのちを、このように見える形で与えられ、この受ける事にただ救われている確信があるということは素晴らしいことです。それは地上にあって天がここにある天の体験であるといえるでしょう。天にもおられ、どこにでもいる事ができるイエスが、ここにも来て下さりおられるのですから、私達はキリストのゆえにこそ、天ともつながっているのです。そして天ではイエスの元にあってずっと礼拝が行なわれています。聖徒達は天で礼拝しています。ですからキリストがここにあって天がここにつながっているのであるなら、私達が礼拝するということは、一人のキリストにあって、天におられる聖徒たちとも一緒に礼拝しているのです。なんという素晴らしい出来事でしょうか。それは今日の私達にとってはこの上ない慰めと希望もなるのではないでしょうか?


6.「まことの光に歩む約束とゴール」

 ですから、今日のみことばの伝える第三番目の恵みです。このまことの光は、天のまことの光、キリストなのですから、今の希望であり未来への希望でもあります。闇の中に輝くこの光は私達を導く光です。それはどこへと導くでしょう。この光は、闇に打ち勝つ光であり、この光にあって歩むなら、光は闇の中にあっても、私達を確実に神の国へとつなげて、その最終ゴールへと確実に導いてくれます。今もここにおられるイエスのゆえに私達は天の恵みに既にあって天につながっているのですが、更に素晴らしいのはその完全なゴールです。そこでは私達は全く新しいいのちと身体を頂いて復活し、そして伊藤先生はもちろん、先に天に帰った愛する兄弟姉妹とともにまみえる事ができることを聖書は約束しているでしょう。その希望に私達は歩むものではないでしょうか?そして私達のゴールもそこにあるといえるでしょう。ですから今日も御言葉を通して、私達に「一人のお方」を指し示されています。イエス・キリスト、まことの光です。この方こそ、救い主であると。ぜひこの指し示す先にある、まことの光イエスから目を離さず、見続け、そしてみことばと聖餐を通して主イエスのいのちを受け続け、讃美と喜びをもってアドベントを過ごしていきましょう。