2014年12月21日


「神は人となって私たちの間に」
ヨハネの福音書 1章14〜16節

1.「はじめに」

 クリスマスを迎えようとしていることを感謝します。私たちのために天からこられた救い主イエスについて、この1章の初めから三週に渡ってみてきましたが、救い主として来られたイエスは、私たちの人生の闇の中に輝いて、すべての人を照らして、その闇から導き助けて下さるお方、そして平安と喜びを与えて下さる救いの光であると、これを書いた使徒ヨハネはそのように私たちに伝えています。しかしながら、このところが伝えている最高の幸いは、その「救い」というのは、「天から、神が、私たちへ、私たちのための、100%プレゼントとして与えられるものなんだ」ということです。今日の所は、そのことを伝えてくれています。


2.「救いの神は人となって私たちの間に」

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

 この「ことばは」というのは、1節から見て来ると分るのですが、救い主イエス・キリストのことです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」というのは、「救い主、神が人となった」ということです。これがクリスマスの意味です。クリスマスは確かにイエスが生まれたそのことなのですが、それは神である方が人となられた出来事でした。確かにご存知の通り、お母さんマリヤから生まれる訳です。けれども聖書では、お父さんヨセフも、お母さんマリヤも、まだ結婚していない処女であるマリヤが子を宿していると、天使が知らせた時に、ありえない事ですから非常に恐れ戸惑ったということを伝えています。マリヤの婚約者ヨセフは、マリヤを密かに去らせようとまでしました。ヨセフは信じられなかったのです。マリヤの「過ち」だとおもったのです。けれども聖書は伝えています。

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」 マタイの福音書の1章20節

 神の使いは言います。その子は「聖霊によるのだ」と。神がそうした、神が与えたのだと。同じように天使は、母マリヤにも伝えています。

「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」ルカ1章35節

 同じように伝えています。聖霊が、神がそうしたのだと。このように聖書は私たちにクリスマスのメッセージを伝えています。神が人となられたと。神が人となり、神の方から私たちのところへこられたと。キリスト教、聖書が伝えていることで、このことは最も素晴らしい知らせです。そしてそれはキリスト教、聖書が伝ていることを知るために、とても大事なことになります。「神が人に」「神から人へ、世へ、この地へ」ということです。つまり、それは「人が神へ」、「人から神へ、天へ、救いへ」ではないということです。


3.「救いや天国は私達が階段を上り達成するもの?」

 「救い」という時、何を思い、連想するでしょうか。宗教の伝える「救い」とか「教え」とか「目的」とか、人々は何を思うでしょうか?それは、例えば、救いとか悟りとかは、人が、私たちが、頑張って「獲得するもの」ではないでしょうか。あるいは「教え」ということについても、私たちが頑張って「達成するもの」ではないでしょうか。たとえば「これこれの教えを守れば、私たちが達成できれば、救われる、あの世で良い地位に生ける」等など宗教では良く聞きますが、それは何か企業の営業努力や努力目標、ノルマ達成を連想するかのように、階段を上っていくように、そのような「救いの階段を私たちが上っていく」ように宗教や宗教の救いをイメージする人は多いといわれています。そして事実、多くの宗教はそのような教えや組織や仕組みともなっています。多くの人は同じようにキリスト教も捉えていることもあるのではないでしょうか? 私たちの側がまず立派になれなければ救われない。自分がまず正しくならなければ救われない。洗礼は受けられないのだと、人々はいいます。つまり、私たちの側で頑張って救いを獲得する、達成する。その頑張った先、私たちがまず自分の側でがんばり達成した先に救いや洗礼やクリスチャン生活があるのだと。まさに、私たちが階段を上ったところに救いや天国があるのだと。そう思っていなかったでしょうか? けれども、もしそうであるなら、誰一人、わたしも含めて、ここには誰もクリスチャンも、救われている人もいないでしょう。

 聖書はそのような階段を上る救いを伝えている伝えてはいません。まったく逆です。まさに今日の所です。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」とある通りなのです。


4.「救い、それは、神が階段を下りて私達のところへ」

A, 「神は私たちの現実を知った上で私たちの所へ」

 聖書は伝えています。まず神は、私たちが、神の前では決して正しくない、立派でも完全でもないし、自分たちでは決して教えも救いも達成できないことを良く知っています。人は皆、神の前では、神ではなく、不完全な一人一人であることを神は何よりそのことを認めているのです。そのことも聖書を旧約聖書から見て来ると沢山書かれているので、ぜひご覧になっていただきたいのです。しかし大事な点ですが、神はそんな私たちに、「立派になって、正しくなってという、階段を頑張ってのぼってこい、そうでないと救われない」とは決して言わなかったし、そうしなかったのです。まったく逆です。「神が人となって私たちの間に住まわれた」ーまさに、神が、神の方から、この立派ではない、神の前では正しくない、むしろ闇の中に歩むような私たちの所に来て下さったということを伝えているのです。つまり、私たちが階段を頑張って上りきった先に救いや洗礼があるのではなく、神が階段を下りて来て下さり、そのような私たちであることを全て知って、そんな私たちに与えて下さるのが、救いであり、洗礼であるということです。私たちが階段を上りまことの光を見たのではない、まことの光は、階段をおりてこの闇にやってきて、闇の中にある私たちの前に光を輝かせて下さったということにほかなりません。

B, 「『神が私たちへ』のメッセージ」

 まさに1節から見て来た事はそのことであったのではないでしょうか。「初めに」と始まっていました。その「初めに」という言葉は、初めにあったのは私たちがあったのではない、「初めに」神がでした。つまり救いの始めに私たちがではなく、神がいたということであったでしょう。3節でも、この方によって全てのものが造られ生まれたことが書かれていました。私たちがこの方を造ったとは書いていません。そして5節ではまさに、「光が闇の中へ」とありました。そして9節でも、まことの光が世に「来る」とあったのです。世が、私たちが、「光へ」ではありませんでした。そして先週の13節でははっきりと書いていました。私たちのわざや意欲ではなく、「神によって生まれる」と。ー救いは神から来る。そうはっきりと宣言されていました。私たちのための救いは、どこまでも「神から私たちへ」「神から私たちのために」だということなのです。「ことばは、神は、人となって私たちの間に住まわれた」そのことです。

C, 「初めだけではなく、これからも、おわりまで「神から私たちへ」の幸い」

 皆さん、ここに伝えられているのです。聖書はいいます。救いは私たちが達成するものではありません。救いは天から私たちに与えられている天からのプレゼントなのです。そのまま受けとるだけでいいものなのです。そしてそれはクリスチャンとして生きるときも変わりません。「救いは初めだけ、その初めだけ天からで、あとは私たちのわざと達成によるのだ」と思っていないでしょうか。そうではありません。この「ことばは、神は、人となって私たちの間に住まわれた」ということ、「神が私たちのところへ、私たちのために」ということ、神が階段を降りて来て与えて下さるということは、それはクリスチャン生活が始まり天に帰るときまで変わらないということです。

※「信仰」「信じる」とは「信頼」

 「信仰」「信じる」ということに何を思うでしょうか? クリスチャンはよく「信仰生活」という言葉を使います。その「信仰」というのは何でしょうか?信仰というのは、「信頼」だということです。「信仰」とか「信じる」というと、日本語ですと何か私たちの行いのように思うのですが、英語ですと、もちろんBelieveもありますが、主にTrsutですね。旧約聖書を見ると、ダビデは特に「主に信頼せよ」と歌っている詩篇は多いです。ですからマルティン・ルターは、信仰というのは、信頼なんだと、言っています。信頼とはどういうことでしょうか。それは、まさに幼子と親です。幼子が親の愛情にただすがり、頼り、依存し安心する事にほかなりません。そのような子供の信頼は、決して達成するものではないでしょう。親の助けが必要な弱い幼子が、ただ受け取りただすがるものではありませんか。それが信仰、そして信仰生活だということです。むしろ信頼生活といったほうがいいかもしれません。ですから12節でもヨハネは、救いは「神の子とされる」ことだとも言っています。信頼です。それはクリスチャンになっても神へのずっと信頼です。私たちのところへ来て下さった神へ、子供が安心して父親、母親に抱かれるように、神に抱かれる、すがりつく、そのように信頼することなのです。救いも救いの歩みも、階段を上るのではない、そのように、いつでも階段を下りて私たちの所へきてくださっている方からただ受ける、ただすがる、それだけなのです。そこに天からの階段を下りてきた神が働いて下さり、導いて下さり、私たちの思いを越えた、神の与える新しい歩みが始まるのです。それは重荷でも義務でも、達成目標もありません。責め合い、裁き合いも本来はないはずのものです。安心して受ければそれでいい。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」というメッセージが私たちに伝えている事なのです。


5.「ヨハネ自身の、神の恵みと栄光への喜びと讃美」

 ですから、ヨハネは、そのことを力強く讃美しています。

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」14節

 ヨハネの讃美です。救いはどこまでも神の栄光、神の恵みだという讃美です。救いが私たちの栄光、人の栄光だとは言いません。父のみもと、天から来られたひとり子御子イエスの栄光だと彼は讃美するのです。やはり天から私たちへです。「神の業、神の栄光が私たちを救って下さったのを私たちは見た、この方の恵みとまことこそが私たちの救いには満ち満ちている。」そのような讃美なのです。そして16節でも繰り返します。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みをうけたのである。」16節

 と。やはり、この方から、この方の豊かさから、恵みの受けにさらに恵みを「受けた」と。どこまでも神の恵みの上に恵みによって救いはあるのだというメッセージです。もし、「私たちが救いを、私たちが天へ、神へと達成する救い」であるなら、聖書から、この「恵み」ということばは一切必要なくなります。「神の栄光」ということばも必要ありません。しかしこの福音書ははっきりと私たちにこのことばを示しているでしょう。

「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」と。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みをうけたのである。」と。


6.「福音」

 私たちが階段を上る救いや、救いの生活は、疲れ果てます。先が見えず不安です。救いは私たち自分自身の力にかかってしまいます。そして自分で階段を上りきることもできないでしょう。しかし聖書は私たちにそのような宗教や救いとは逆の、本当の恵みの教えを伝えています。神が私たちの所へです。神が階段を下りて私たちの所へ来て下さった、来て下さっているのです。神が私たちの所に来て、素晴らしい救いのプレゼントを与えて下さっているのです。私たちは、そのまま受ければ良いのです。あるいは、お父さん、お母さんが、生まればかりの私たちに、歩み寄り、抱いて下さるその腕や旨にそのまま抱かれるように、子はそれを拒まず、そのまま安心して抱かれるように、それをそのままうければいい。救い、洗礼、クリスチャンの歩みはそのようなものなのです。そのことを聖書はこのクリスマスにも伝えて私たちをまねいています。

 ぜひそのままうけましょう。ぜひそのまま、神の子として安心して神に抱かれようではありませんか。