2014年12月28日


「イエスはそれを祝福して裂き」
ルカの福音書 9章10〜17節

1.「日も暮れ始めて」(12節)

 遣わされた使徒達が帰って来た所から始まります。まず、使徒達は帰ってきてイエスにその各地で、福音を伝えたこと、病気の人が癒されたことを報告しました。イエスはそこで弟子達とともにベツサイダという町へ密かに退かれます。弟子達との休息の時をとるためであったでしょう。しかし密かに退いたはずでしたが、イエスの知らせは瞬く間に伝わって、多くの人々がイエスのもとにやって来たのでした。それでもイエスは、そのやって来た人々を喜んで、温かく迎えて、彼らに神の国のことを話し、癒しの必要な人達を癒したのでした。このところは、人となられ来られたイエスも日々、疲れを覚え休む事が必要であることを伝えているのと同時に、神であるイエスは、まどろむ事も休む事もなく、私たちのために働いて下さるという、まことの神の姿も伝えられているところです。

 そのように集まって来た人々に、旧約聖書のみことばから、神の国の福音をイエスは語り続け、夕暮れになりました。

「そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させて下さい。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることが出来るようにさせて下さい。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。」(12節)

 時はもう日は暮れました。人里離れたところです。しかし群衆が「男だけで5千人」もいます。弟子達は常識的な判断をしたのかもしれません。群衆を解散させて、近くの村々に宿をとらせそこで食事をとらせるようにと。イエスがそのようにいって解散させれば、その通りに五千人以上の人々は解散したことでしょう。しかしながら状況的には、周りの村々でそれほどの人々の宿や食事があったともいえません。ですから実際は多くの人は何も食べないまま、家に帰ることになった可能性も少なくありません。そのことを察してでしょうか、イエスはこう弟子達に言います。


2.「あなたがたで何か食べる物をあげなさい」(13節)

「しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで何か食べる物をあげなさい」(13)

 と。この言葉は、弟子達にとっては突拍子もないことのように聞こえたことでしょう。なぜなら目の前には五千人以上の人々。しかし、その五千人を食べさせる食料もお金も、彼らがもっているはずがないのです。彼らがそこにもっているのは、たった5つのパン2匹の魚であったのでした。彼らは答えます。13節の続きですが、

「彼らは言った。「私たちには5つのパンと2匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか?」(13)

 彼らの意見は最もです。たったそれしかない、お金もない。それだけで何もできないではないか。人の目では明らかな、目の前の、足りなさ、不足、マイナスの状況からの言葉であったと言えるでしょう。


3.「イエスはそれらを祝福して裂き」(14〜17節)

 しかしです。イエスはどうでしょうか?

「それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子達に言われた。「人々を、50人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」

弟子達はそのようにして、全部を座らせた。

するとイエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子達に与えられた。

人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、12かごあった。」(14〜17節)

 弟子達にとっては、僅かなもの、なにもできないもの、明らか不足、マイナスであること。確かに人の目からみるなら、それはマイナスであり、大問題であり、不平を言うには十分すぎる現実的理由であったでしょう。けれどもここで大事なことをイエスは私たちに教えています。それはイエスにあっては、それは決してわずかではない。むしろ五千人に対しては明らかに不足しマイナスであるその5つパンと2匹の魚さえも、それは十分であり神の恵みであると、イエスははっきりと見ているということです。イエスは、その僅かな物を「祝福した」とあるのです。その僅かな物であっても、それは祝福なのです。神が与えてくださった恵みであったのでした。

A, 「不十分な弟子達を祝福して来たイエス」

 確かにイエスにあっては全てのことがそうであったでしょう。何よりも、弟子達一人一人が小さな小さな一人一人です。彼らは十分な力と知恵があったでしょうか? 彼らはパリサイ人や律法学者達のように、育ちも家柄もよく、財産ももっているうえに、聖書を全て知っていて、守っていて、尊敬されているような、「十分に持っている」ような人々であったでしょうか? 救い主の弟子にかなうような立派で成熟して出来た立派な人々であったでしょうか? むしろ福音書は、そうではない、不完全で罪深い、不足の多い弟子達の姿を最後まで伝えているでしょう。しかしこの9章の初めで見てきました。イエスはまさにそのような人の目にあっては不十分な弟子達を呼び集めるでしょう。そんな彼らをまさに祝福したことでしょう。そして祈ったことでしょう。そしてそのような彼らに、ご自身の名、その名によって悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とを与えて、神の国の福音を伝えるために遣わしているではありませんか。まさにそのような不十分な彼らは、イエスがそんな彼らを神に感謝し、祝福し、神が与え、神が働いて下さったからこそ、各地で、悪霊を追い出すことが出来、病気の人を癒すことが出来、神の国の福音を伝えることが出来たのではなかったでしょうか?彼らには出来ない一つ一つです。しかし、その不十分な彼らをイエスが祝福し力を与え遣わされたからこそ、彼らを通して主の御業がなされてきた出来事であったではありませんか。

 まさに、そのことと何ら変わらないのです。彼らは、5つのパンと2匹の魚です。私たちも5つのパンとの2匹の魚です。あるいは、私たちも弟子達が本当に不足ばかり、欠点ばかり、そして不十分さを覚えるようなもの、5つのパンと2匹の魚しかもっていないように、人の目、私たちの目から見るなら、そのように不足しか見えないものかもしれません。けれども、それは、イエスにあっては、神の前、神の目にあっては、すべては恵みであるということです。神の前にあっては、すべては恵みであり、人の目にあっては、5つのパンであり、2匹の魚、不十分であっても、それは神の目にあっては恵みであり、祝福であるということです。

B, 「ヨブの悲惨も全ては神の御手の中で」

 旧約のヨブは命の他はすべてを奪われて、「なぜ神の前に正しいものが苦しみに会わなければいけないのか」と問いつづけました。周りの友人は、慰めようとしてきますが、慰めるどころか、まさに目の前のヨブの困難や悲惨さ足りなさだけで全てを判断して、あなたのあれが問題だ、これが問題だと、因果応報的に騒ぎ立て、ヨブを責め立てるだけでし? 自分はむしろ死んでしまいたいのに、この苦しみの中の囲いで死ぬことも赦されず生きているのはなぜなのか、正しい信仰者にあるこの悲惨な苦しみの理由は何なのかと、神に問いつづけました。

 ヨブにとっては、すべてが災いでした。苦難でした。神から見捨てられた思いでした。人の目からみても、ヨブの状況は悲惨な状態です。しかし、果たして神はどうでしょうか?神はヨブを正しい人だと言っています。そしてサタンが、ヨブは打算で神に従っているのではないかと神に問いかけるのに対して、それでも神はヨブを信頼して、サタンがその通りにすることを許可しているでしょう。そしてその神がただ苦しみに閉じ込めているかのような囲いのことを、ヨブは何度も神に嘆いて言いますが、しかし神はサタンに「ヨブの命だけはとっては行けない」と言っていたのです。つまりそのヨブにとっては苦しみに閉じ込めている囲いのように見えても、神にあっては、その囲いはやはり神がヨブの命をまもっている恵みの囲いであるのです。そして最後は、主がヨブに告げるように、主がすべてを創造し、主がすべてを与え、とられ、主がすべてを成し遂げて下さるということを認めさせられ、どこまでも創造の主に生かされている自分を彼は認め、悔い改めます。そしてその悲惨と思われたヨブに、ヨブの思いを越えた回復と新しい祝福を与えるのも、周りの目先のことで騒ぎ立てる友人達ではない、創造主であり、贖い主であり、助け主である神であったのです。

C, 「5つのパンと2匹の魚でさえも祝福」

 同じように、私たちの目の前にあるものが、たとえ、5つのパンと2匹の魚であったとしても、それ以上に不足を覚える現実があったとしても、しかし主の民にあっては、それらがすべてではありません。もし、そのような私たちの目に見えること思うことで全てであるというなら、それはまさにヨブの周りで目先の悲惨さや災いを見て、因果応報的に、ああだこうだと騒ぎ立てている友人達と同じに過ぎません。しかしそれでは主の恵みと思いを越えた約束と御業は見えないし信じられないのです。主の目の前にあっては、ヨブはどこまでも、苦しみと悲惨の中にあってでさえも、彼に恵みがあり祝福があったのです。イエスにあっても、たとえ人の目にはたった5つパンと2匹の魚であっても神の恵みであり、紛れもない祝福でした。

D, 「十字架の死は、私たちの救いと祝福のために」

 まさにそれはイエスご自身の生涯と目的にさえも一致しているでしょう。イエスにあっては、まさにあの大祭司カヤパの庭の苦しみも、ピラトの前の苦しみも、肉体的な苦痛、そして、あのゴルゴダの丘の苦難と死さえも、イエスにあってはもちろん苦しみと叫びであり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」の言葉に現わされている壮絶な苦しみでした。しかし、それは神の前にあっては、「この子はわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」であり、神の栄光は「この御子によって成し遂げられる」とある通りであり、十字架と復活は、全人類のための神の勝利であり、祝福であったでしょう。まさしく人の目には敗北であるこの十字架こそ、神の私たちのための恵みであり祝福であったではありませんか。


4.「神のものである恵みの民は時が良くても悪くても既に祝福にある」

 私たちは、自分たちの目にあっては僅かであっても、不足があっても、あるいは、どんな災いやマイナスと思えるような状況であっても、しかしそれは、神の前にあっては、すべてが恵みであり、祝福です。大事なのは、どんなことでも、時が良くても悪くても、神はともにある。私たちの全ては神の御手の中にある。そして、神はそのような私たちを、時が良くても悪くても、たとえ5つパンと2匹の魚でも、不足、苦しみ、困難を覚えるような状況でも、どこまでも祝福して下さっている。困難と思えるような状況でも、それもどこまでも神の前にあって、神の恵みであり祝福である。そのような神と神の恵み、神の真実さへの、私たちの信仰、信頼であるといえるでしょう。

 そして、神の恵み、神のこの祝福は、確かにこの5千人を満たしました。私たちが自分たちはどんなことに直面しても、苦難、悲しみ、痛み、不足を覚えたとしても、持っているものが僅かであっても、しかし主がそれを祝福して下さるなら、それは私たちの思いをはるかに越えた神の御業が現れる、神がすべてを満たして下さる。神が全てのことに働いて益として下さる。そのことがここに現わされているのです。まさに使徒達の時代の教会もそうでした。まさにパウロは、「神を愛する人々、神の御心にそって召された人々のためには、神が全てのことに働いて益として下さる」と言って、ヨブの友人のように目先のことをああだこうだと因果応報的に論じることではなく、すべてを与えとられる主への信頼をパウロは勧めているのです。


5.「主の祝福の御手にあることを信頼する歩み」

 ぜひ、私たちは、時が良くても悪くても、主へ、主の御言葉へ、主の恵み、主の真実さ、主がいつでもどんな時でも私たちを既に祝福して下さっていることを、信じて、信頼していこうはありませんか。そして、本当に罪深く不十分な私たちを愛して十字架にまで従い、私たちを罪から救い出してくださり、新しいいのちを与えてくださった、このイエスのいのちの福音によって、たえず罪赦された平安をいただき、喜びと感謝を頂き、福音によって尚も生かされていこうではありませんか。福音によってこそ、平安と喜びに満たされて、神を愛し、隣り人を愛していこうではありませんか。