2014年11月16日


「救い主の誕生(クリスマス)の最初の備え(約束)」
創世記3章15節

1.「はじめに」

 街では、ハロウィンが終わるとすぐにクリスマスの装いとなってきています。皆さんももうクリスマスでしょうか?何か備えを始めているでしょうか?楽しみでしょうか?教会もクリスマスの備えに入ろうとしています。けれどもこの救い主の誕生であるクリスマスの最も古く最初の備えは遥か昔、人類の始め、しかも人類が神に背いて堕落したその時に既にあったことを聖書は記しています。今日の所は、クリスマスの最初の約束なのです。


2.「人類の歩みが180度変わる誘惑〜3章から」

 15節は神の言葉ですが誰に語っているでしょう。神はヘビ、つまり試みる者、悪魔に語っている言葉です。悪魔に対して「おまえの頭が砕かれる」と語っているのですが、どうして神は悪魔に話しているのでしょうか?それは3章全体が教えてくれているのですがここは悪魔が最初の人であるアダムとエバを誘惑する場面です。この「誘惑する」という言葉はどんな意味でしょうか。「そそのかす」「逸れさせる」という言葉とも近いかもしれませんが、辞書を見てみると「心を迷わせて、誘い込むこと、よくないことにおびき出すこと」とあります。人は悪魔から心を迷わされて、良くないことに誘われたということなのですが、人はどこから「どんな良くない事へ」誘い込まれたのでしょうか?このことは聖書を知るためにはキリストを知るのと同じくらいに私達にとって最も重要なところです。なぜならここで人の歩みが180度、つまり正反対、真逆に変わってしまうからです。「私達人間の方向や生き方が180度変わった」それは重大なことです。その悪魔の誘惑はどんな誘惑であったのでしょう。悪魔は私達から何を奪って行ったのでしょうか?

A.「本当の人間〜祝福の存在」

 試みる者、誘惑する者は言います。「神は、本当に言われたのですか」と(1節)。人を「良くない事」へと誘った言葉の第一は、「神と神のことばへの疑い」を起こさせるのです。これが何よりの目的でした。これが何よりも良くない事であり、良い事から良くない事へ180度変わったことなのです。ですから聖書はその前には「良い事」「良い状態であった」ということも当然伝えていることを見る事ができます。その前の所、1〜2章では何が私達に伝えられているでしょうか?人はどんな良い状態であったでしょうか?ーそこには全てのものが神によってそのことばによって創造されいのちを与えられたということがあるのです。当然人もそうであり、人も神のことばによって生まれて、命を与えられたとあり、人はその中でも神のかたちに似せて造られたともあります。1章26〜28節の始めまで読んでみましょう。そこには神の人へ、私達への心が分ります。神は人を「祝福された」とあります。神はその人を本当に良いものとして創造し、愛し、そしてどこまでも「祝福した」ことが分るのではないでしょうか。私達は本来は祝福の存在なのです。そして31節では「神はお造りになったすべてのものを見られた。それは非常に良かった」ともあります。「非常に良いもの」として祝福された存在が人、私達であったのです。そして、2章では神は全てのものを人に与えて、その造られた全てのものを正しく治めるようにと言って与えていていたことも書かれていますが、1〜2章を通して一貫しているのは「神の言葉」です。神の言葉がすべてを創造し、神の言葉がいのちを与え、神の言葉が祝福し「良かった」といいました。神はそのように人とともにいて配慮します。そして人に必要なすべてのものを、その言葉で与えたり働いたり教えたりしているのです。例えば2章16〜18節をご覧ください。神はいつでも人のために良いもの、良くないものを判断してくださり、幸福と祝福のために言葉で教え続けます。人のために働く神であり、そのための神の言葉がわかります。そして「人が一人でいるのはよくない」と言って、助け手、パートナーを与えてくれています。神はいつでも人のために働いて、人のために御言葉を語り、人に良いものを与えて下さっていたことがわかるのです。これが良いこと、良い状態であったのです。これが「本来の」神と人でした。神と人との正しい関係でした。そして「本来の」創造されたままの純粋な人の姿であり、人は神と一緒にいて、神の言葉をいつも必要とするものとして存在し始めたのです。そして神と神の言葉があったからこそ幸福で祝福の歩みがあったことを聖書は伝えているのです。これが「良い状態」であったのです。

B,「「良い状態」から「良くない事」へ」

 しかしこの「良い状態から」「良くない事」へと誘惑されたのです。そしてそれは何より最も大事なものを奪って行く事から始まって行きます。神のみ言葉です。「本当に神は言ったのですか?」と誘惑するものは言っています。「神と神の言葉は真実ではない」と疑いを起こさせます。それに対して、女は死ぬと行けないからと神は食べては行けないと言ったと答えますが、それに続いて4節です。「そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません」と。神は死ぬといったのに、蛇は死なないといいます。神の言葉は偽りであると断言しています。そして更に神への疑いとセットになって生じる最大の欲望への誘いを誘惑する者はついてきます。5節へこう続いています。

「あなたがたはそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 と。第一に「目が開ける」といいました。つまり「目は閉ざされている」「神が良いものを隠しているんだ」と、これまでの神への信頼から不信と敵意へと誘っています。そしてそれは第二に「神のようになれる」という言葉で最高潮になります。それは私達は「神のようになれる」んだ。その実を神は偽って私達に隠していたんだと。そして第三の誘惑はさらには「善悪を知るようになれる」と結びます。善悪を知るようになれる実を神は自分達に隠しているんだ、言葉を偽っているんだと。この「善悪を知るようになる」ということはある意味「神のようになれる」と同じになります。それまで「食べてはならない」「一人でいるのは良くない」と善悪の判断は神が愛をもって人のためにしていたことでした。神が判断者、裁判官でした。しかしまさにその判断者、裁判官である神を退けて、神の判断を退けて、自分が善悪を知り、判断、裁判できるようになるということを伝えているわけですから。「神のようになれる」こととまさに同じなのです。悪魔の誘惑はこれでした。神と神のことばを、その神と神のことばへの信頼を奪い、奪う事によって「良くない事へと誘う」のです。そしてその「良くないこと」へと人はまさに陥ります。

C, 「神の声は「安心」ではなく「恐れ」へ」

3章6節。これによって180度、人は変わるのです。8節を見ていただくと彼らは主の声を聞きます。しかし彼らはそれまでは平安と喜び、安心の声であった神の言葉が恐れとなっています。その声を受け入れる事ができず隠れるのです。そしてそれまでは愛と祝福の顔であった神の顔を見る事ができないのです。隠れるのでした。

D,「自分が裁判官へ」

 さらにはまさに自分自身が裁判官になっています。神がとって食べては行けないと言ったその実を食べたのかと男に問うたときに、アダムはいいます。3章12節。アダムはまさに自分が裁判官になって女エバに責任転嫁するとともに、「あなたが私のそばに置いたこの女が」と神様さえも裁いて責任転嫁までしてしまっています。そして女エバも13節で「蛇が惑わしたのです」と蛇に責任転嫁をして自分が裁判官になっているでしょう。神が本当に正しく判断する裁判官ではなくて、自分こそが裁判官のように「誰が悪い、彼が悪い、誰のせいだ、彼のせいだ」というのは、今でも様々な関係でよくありますね。事の本当の善し悪しは神が判断し、神のみことばに従ってなされて行くものなのに、神に委ねる事、神に求める事そっちのけで「誰が悪い、彼が悪い」と良く聞くのです。自分が裁判官になってしまう、それはまさにこの最初のときから変わることのない罪の性質だとわかります。まさにこれは神を神としなくなり、神のことばを必要としなくなり自分が神のようになった、最初から180度真逆の状態、つまり良くないことへとまさに誘われた姿を現しています。そしてこれこそが聖書が「罪」ということの本当の意味に他なりません。その結果として14節からの神様から、最初は蛇、悪魔へ、16節からは女へ、17節からは男へと、罪の結果として人間はどうなるのかを神は伝えるのです。それは「苦しみ」「死」ぬ者となったと伝えています。見てきましたように、神と一緒にいて神の言葉があったときは、祝福、良い事、そして平安、喜び、いのちが、人間の姿であったでしょう。けれども、神と神のことばを失い、自分が神のようになり、自分が裁判官になってしまった人間には「苦しみ」と「死」であると、まさに180度正反対です。けれども、今、私達は良い状態と悪い状態のどちらにあると見るなら、まさにこの苦しみと死が今現在の私達人間の現実であると認めざるをえません。神はないとして苦しみ、死んで行く私達です。それはここから来ていることを聖書は私達に示しているのです。


3.「救いの備えと約束」

A,「私達のために神の壮大な計画」

 しかしそのような中にあって、神はこのことばを悪魔に、そしてこれを読む私達に伝えています。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとに噛み付く。」3章15節

 神は、悪魔と女の子孫の間に敵意を置くといいました。そして悪魔はその女の子孫のかかとに噛み付く、けれどもその女の子孫のそのかかとが、悪魔の頭を踏み砕くのだと。これはまさしく女の子孫として生まれる救い主が、悪魔に傷つけられながらも、悪魔を打ち負かすという神様の計画と約束に他なりません。つまりイエス・キリストです。皆さん、これが世界最古、世界最初のクリスマスの備えです。これは私達をその罪と罪の結果である死から私達を必ず救うために、救い主をあなたがたに必ず送ると言う神の約束だったのです。この時すでに神は愛するひとり子イエスが世に生まれ、私達のために十字架にかかって死ぬ事を、神がもうこの時に、私達のために計画しておられたことの証しにほかならないのです。実に壮大で、私達の思いをはるかに越えた神の私達への心と愛が書かれています。私達が生まれる前から神は私たちへの愛を表しているのです。そしてその神の愛はまさに実現しました。

B,「その神の言葉はその通りに私達の間に実現した」

 その通りに神は、私達を罪から救い救い主としてこの世に御子イエスを送ってくださったのです。この神のことばのとおりに、イエスは悪魔に噛まれます。イエスは、悪魔の誘惑に始まった、私達が神となろうとし、自分達が裁判官になって自分中心に生きたり、裁いたり、責任転嫁したり、神に背いてきたその私達のすべての罪を、このイエスがその身に負われ死ぬのです。この十字架です。けれどもそのイエスはその身に私達のすべての罪、その悪魔の毒をすべて負って十字架で死んでよみがえる事によって、罪の赦し、罪からの勝利と救いを得た聖書は伝えています。まさにその悪魔の頭を砕きました。そして大事なことですが、それは私達のためであり、このイエスの十字架による罪の赦しと悪魔への勝利こそを私達にそのまま与えて下さるということです。私達はその神がしてくださった事、与えて下さるものを、そのまま受けるだけでいいというのが今も変わらない、聖書のメッセージ、福音です。その与えて下さるものを私達がそのまま受ける事によって、私達には何の力もありませんがただこのイエスの十字架のゆえに、神はこの罪深い私達をそのまま受け入れ赦してくださり、神の方から、私達を罪のないもとして見てくださり、創造の時の最初の純粋な人間のときのように私達と一緒に、そしてその言葉をもって歩んでくださる、言葉をもって働いてくださり、与えて下さり導いてくださる。これが聖書が伝える私達の救いです。私達はこのイエスの力によって、私達は誰でも純粋な人間に、本当の神と関係に戻る事ができる。そして最初の人のように、神の御言葉による祝福と平安と喜びの歩みを歩んで行く事ができるのです。聖書はそのことを私達に伝えているのです。


4.「結び」

 最も古く、最も始めのクリスマスの備え、私達が生まれる遥か前からの、神の私達のための救いの備えです。神の救い、神が私達のためにしてくださったことはこれほどまで素晴らしい。そのことをぜひ感謝し、アドベントそしてクリスマスを迎えましょう。