2014年11月30日


「救いの初めに」
ヨハネの福音書 1章1〜5節

1.「『神が私達に何をしてくださったのか』への招き」

 アドベントを迎えました。アドベントは、ラテン語の「到来」という意味のことばからきています。文字通り「キリストの到来」「誕生」を喜んで待ち望む期間というのがこのアドベントになります。このアドベントを過ごすときに大事にしたいことは「神が私達にしてくださった素晴らしい出来事を知る」ことです。そしてその神が私達にしてくださったことは、イエス・キリスト、私達に喜びと平安を与えるためのものですから、神が私達にしてくださった素晴らしいことを知って、天からの喜びと平安をもって過ごすのがアドベントの幸いです。今日の聖書の所からも、神が私達に、私達のために、何をしてくださったのか?の幸いを私達に伝えてくれているのです。それは何でしょうか?今日の所は、一人の人を指して語られています。それは「この方」と繰り返しかかれています。それは誰でしょうか?「この方」それは、救い主キリストのことです。神が私達のためにしてくださった最大の事は救い主キリストを送ってくださったということに他なりません。


2.「『初めに』何があった?」

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(1節)

 このように、この方、救い主は、「初めに」あった方とあります。そこには「ことばがあった」ともあります。そしてそのことばは「神とともに」あり、「神であった」ともあります。そしてこの方は「初めに神とともにあった」と続いています。さらに3節では、この方によって全てのものが造られた。「造られたもので、この方によらずできたものは一つもない」と続いています。このみことばは、何を私達に伝えているのでしょうか?

A, 「初めに」

 まずこのところで注目したい大切な言葉は「初めに」ということばです。

 初めに何があったのか? それは「神があった」ということです。宇宙、地球、そして私達の存在の始めに神があったということ。そこから全てが、私達も生まれる。つまり、それは、私達は決して偶然に生まれてきた存在ではない。偶然に生まれたのだから、生きる意味も価値も曖昧で分らないというそのような存在でもないということです。初めに「神があった」。そしてその神によって、全てが生まれ、始まっている。その「初めに」なのです。この「初めに」ということばは、とても素晴らしいことばです。「初め」が、しっかりと分るという事は何と素晴らしいことでしょうか。人間と言う存在の「初め」が分らない、それは今私達の存在の意味、生きる意味、生き甲斐、すべてに関わって来ることでしょう。何事でも初めが分らないということは答えがでません。確かに、逆算して初めを探るということを学問ではしますが、しかし、やはりそれはまさに「初めを」求め探している証拠でしょう。初めは終わりとともに大事なことです。神はそのすべての「初め」をはっきりと私達に伝えてくれているのです。「わたしがはじめにあったのだ」と。「わたしがあなたを造り、産み、いのちを与えたのだ」と。そしてその時の事は聖書の一番最初に詳しく書かれています。その時のことは、本当に素晴らしい感動的な情景が書かれています。その時、神様は人を創造され、「祝福された」と。「非常に良かった」と言われたと。そして、いつも私達とともにいて、私達のために考え行動し働いてくださったと。「私達人間の「初めに」」にあったことです。今日の第一のことです。ぜひ「初めに」という言葉に聞きましょう。私達の全ての初めは何か?偶然ではない。意味のないのでもない。神がおられ、救い主がまず初めにおられた。そしてそれは「私達のために」おられた。これはとても素晴らしいまず第一の「神が私達のためにしてくださったこと」のメッセージなのです。

B, 「ことばがあった」

 そして、第二に注目したい言葉、その方、救い主は「ことばであった」とあります。初めにあった救い主は、このはじめの時から、ことばをもって話しかけて下さっている救い主、神であるということです。3章では「すべてのものはこの方によって造られた」とあります。先程も触れました、聖書の最初の所(創世記1〜2章)ですが、神はその全てのものを創造されたのですが、その「ことばで」造られたということを何より伝えているでしょう。「光よあれ」と言った時に、そのように光は生じました。すべてのものはそのように神が「〜あれ」と言った時に、この世に生まれるのです。人もそうでした。すべてはことばによりました。人を祝福された。それもことばでした。「非常に良かった」、それもことばでした。そしてことばで、人の必要を全て与えます。「一人でいるのは良くない」と言って、最初の人にパートナーを与えました。このように初めから、神は「ことば」の方であり、そのことばに私達の思いをはるかに越えた力があって、私達と、私達のために、関わってくださっていたと伝えています。それは、地上や全てのもの、人ととも何の関わりもない遠い所で動かないでじっとしているようなそのような神ではない。むしろ神、救い主は「ことば」をもって関わり、そして人に語りかけ、人に答えてくださる神なのです。これも「神が私達のためにして下さった」恵みです。神、救い主は、はじめから私達にことばで語りかけておられる。それは今もそうです。この聖書です。しかし人はむしろ人の方で、神を否定し、神に背を向けて、「神のことばなどないんだ」とむしろ退けます。「神のことば」、なんていうと、多くの人が胡散臭く感じるかもしれません。力があるなんて思わないのです。まさにこれは堕落の時と同じ影響の中にある人の性質、傾向をもって私達は生まれ、その性質が今の私達にあることを、私達自身を見る時にわかるのですが、しかしです。それでも、神は、その初めから変わることなく、今も私達に、私達のために、話しかけて、語りかけて下さっている唯一の証しが、この聖書にほかなりません。初めにことばがあった。しかしそのことばは、「今も」あります。ここに。私達に。私達のためにです。素晴らしいことではないでしょうか?


3.「この方にいのち、このいのちは人の光」

 そして核心部分です。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」4〜5節

 この方にいのち、それは人の光。しかし5節は光と闇です。この言葉は何を私達に伝えているでしょうか。

A, 「死と闇が伝えるもの」

 「いのち」の反対はなんでしょうか?ーそれは「死」です。光の反対は何でしょうか?ーそれは「闇」です。その光は「人の光」とあり、そしてそれに対し「闇」があります。しかしその光は「闇の中に」輝いていて、光は闇と戦っています。そして最後は、闇は光に打ち勝たなかったとあるのです。何を伝えているでしょうか?

 何度も言うように、救い主は「私達のために」来られたのですから、この「死」も「闇」も人の事、私達のことを伝えています。つまり死も闇も私達の死であり闇である、私達は死の中、闇の中にあるということです。初めに神とともにあって、神のことばとともにあった私達を見てきました。しかし今や私達は死の中、闇の中にある。それは、まさに堕落の出来事です。人間は誘惑により神と神のことばに背を向けていったということです。そのように神と神のことばを失った先に、死と闇の中にある私達なんだということを、聖書は示してくれています。キリスト教以前、古代ギリシャの哲学者達が「真理とは何か」を追求しながらこんなことを言っています。それは人とは、洞窟の入り口に太陽を背に向けて立って、その洞窟の壁に映る自分の影を見ているようなものだと。だから真理はわからず、自分の影しか見えないんだと。聖書の伝える「人の闇」というのも、まさに月の裏側は光が届かず闇であるように、光に背を向けている状態では闇です。人は初めにあった神から生まれ、神から全てを与えられ受けて、神の顔を見て、神のことばを喜んで聞いて、その神のことばによって平安であったったのに、その神と神のことばに背を向けてしまいました。そしてその初めにあって人のための助けであり、生き方であった「神のことば」がない。大事なものを失い、大事なものに背を向けた、そこには戸惑いと迷いしかないでしょう。そこでは、まさに自分が中心、自分が正義、自分が基準にもなります。しかしその自分という存在が曖昧でなんだか分らない。初めも分らず、先も分りません。それはまさしく闇ではありませんか。そして神はそのようになったときに、必ず死ぬといいました。その通りに、闇の中に生きる私達の必ず行く行き先はどこでしょう。死ではありませんか。これが「死と闇」です。聖書は私達に私達の今の状態をこのように伝えているのです。

B, 「『初めに』は救いのはじめ」

 けれども、「初めに」ということばは、ここにも生きて貫かれています。まさに「初めに」は私達の「救いの初め」でもあるということです。「救いの初め」にあるのはまさに「この方」であることをこの所は伝えているのではないでしょうか。救いの初めにあるのは、決して私達ではない。「神であった」「ことばであった」ということです。私達は闇の中に、いのちの無いものとして死んでいく存在でした。そして私達は自らでは決してその闇にも死にも打ち勝てません。けれどもこうあるのです。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 この方を神は私達に送って下さった。与えて下さった。どこにでしょうか。「闇の中に」です。ここでは「私達が光の中に」とは書いていません。人の光、この方、いのちである方が、私達の「闇の中に」来られ、「輝いている」とあるではありませんか?これが「神が私達のためにしてくださった」素晴らしい事実。救いの現れ。そして今も輝いている天から私達への恵みの光として、今日も私達に語られているのです。

 「初めに」ということばは、私達の救いの「初めに」でもあります。私達の救いの初めに何があったのか?それは神がありました。言葉がありました。そしてこの方が来られました。その方は、その方から背を向けていた私達の闇の中に来られて、闇の中に輝いて、その光を輝かせて下さっている。そしてその光は闇に打ち勝った光。私達は闇の中にあってもただこの光を見た、信じた、それだけで闇から救われたものではありませんか。


4.「アドベント、クリスマスは喜び、平安、感謝」

 「初めに」何があったでしょうか?私達の救いの初めに何があるでしょう?ぜひ思い出してください。そこにあったのは、自分の力ですか、業ですか?人の業ですか力ですか?私達には何もありませんでした。初めに「私が」ではありませんでした。私たちにあったのは闇と死。闇の中でもがくことしかできない。死に対してまったく無力である罪にある私達です。しかしそのような私達へのアドベントの神からのメッセージ、救いのメッセージ、「神が私達に何をしてくださったのか」のメッセージ、それは、初めに神があった。私達の救いのはじめに神があった、みことばがあった、この方、いのち、人の光、救い主、キリストが「私達のために」あった。私達の闇の中に輝いていた。そのキリストが闇に打ち勝って下さった。これが私達の救いです。誰でもこの光を見、信じるだけで救われます。そして誰でもこの主イエスの恵みにあるからこそ、イエスがそのことばで、福音で喜びと平安を私達に満たして下さり、溢れ出させて下さいます。主イエスこそ、私達の救いの全てです。感謝しましょう。「主が私たちのためにして下さったこと」ーその喜びと感謝と平安をもって、ぜひこのアドベントを過ごし、クリスマスを迎えましょう。