2014年10月19日


「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば」
ルカによる福音書8章49〜56節

1.「ヤイロの家への道」

 娘が病気で死にそうである。父であるヤイロは「イエスなら直すことができる」と、イエスに来てくれるようにお願いしました。そのイエスがヤイロの家に向かっている時に、12年間病気の女性も「イエスの着物にでも触ることができれば癒される」と着物を触って癒されました。その時イエスは誰が触ったのかと、ヤイロの家への歩みを留めて捜し出しました。女は恐ろしくなり「自分が触った。そしたら病気が治った」と伝えるのです。そんな彼女をイエスは喜び、「あなたの信仰があなたを直したのです」と彼女に言ったのでした。ここから、福音によって私達に与えられている賜物である信仰は、天の力がイエスによって表される天の宝であり、それを私たちは与っているのだというのが前半のメッセージでした。しかしそれはヤイロの家に向かう途中での出来事でした。その続きになるのですが、このところは人の目で見るならまさに絶望で始まっているのです。しかしそのイエスが私達に与えて下さっている信仰の目で見るなら、ここにも素晴らしい天の恵みが溢れていることを見ることができるのです。


2.「なぜ?」

「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすことはありません。」」(49節)

 「イエスがまだ話しておられる時に」と続いています。まさに12年間病気だった人が癒されて、その信仰を称賛するためにあえて立ち止まって、彼女にその幸いを伝えているその最中に、一人の娘が、12年間の生涯を閉じたのです。何という皮肉でしょうか?人はこのところからいうのではないでしょうか?「間に合わなかった」「もっと早く行けば」「立ち止まれなければ」「走っていれば」「群衆がいなければ」「この12年間の病気の彼女が触らなければ」そのように「もし?であったなら、?でなかったなら」と。そしていうでしょう。「12年間病気の人は癒したのに、12歳の少女は救えなかったではないか」「12年間病気の彼女には安心を与えたのに、12歳の少女とその家族には、悲しみと絶望をあたえた」と。まさにこの知らせ、そして少女の死は、表面的なことだけで合理的に見るならば、矛盾であり疑いにしかならない出来事なのです。「なぜ?」と。

A, 「私たちは自らでは神を理解できない」

 このように最初のところは私達に示しています。それは、私達自らの計算や推測の限界と、神を理解することへの無力さです。私達の思いや判断では、まったく矛盾であり、気持ちを満足されえない、理解できない結果がここにはあります。「なぜ?」と。このように、私達は私達自身の力では、神も神のみことばも決して理解できない。無力であるということです。ですから、私達の思いや計算や推測で、神を計ること、神がなすことを判断し決めつけることは本来できないことであり、それをするのはむしろ危険でもあるとも言えるのです。この少女の死という事実、そしてそこにある「なぜ?」は、先ず第一にこのような神に対する私達の限界を示しているのです。しかしながらだからこそ、そのことは同時に、まさに私達から出たものではない、神が私達に与えてくださっている信仰によってこそ、矛盾や絶望で終わらないイエス・キリストの恵みが見えて来るということでもあるのです。

B, 「矛盾と絶望」

 会堂管理者の遣いの者はヤイロにいうのです。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすことはありません。」と。皆さん、この言葉には諦め、望みがないことが現れているでしょう。言い方にはイエスへの敬意と丁寧な言い方ではあるのですが、要するに「イエスは来る必要がなくなった」ということです。そして、このことは、死ということの圧倒的な現実、あるいは、生と死の間にある余りにも大きな隔たりを理解している言葉でもあります。まだ病気であれば、イエスは何人も直してきました。多くの人がイエスのもとにやって来たり連れて来られてはイエスは彼らを癒すことができたのです。それは病気であっても「生きている」からです。しかし死人を連れて来た人はこれまでいません。死人のところにあえてイエスを招いた人もいません。この後にある幾つかのケースとしては、あのマルタとマリヤの兄弟ラザロの病気のときがあります。ヨハネ11章ですが、そこではラザロが病気の知らせが先ず入ります。しかし「主よ。あなたが愛しておられる者が病気です」と告げる者があっても、イエスは二日もラザロの家には向かいませんでした。誰もが生きているうちに向かうように求めました。しかしイエスは、ラザロが死んでから向かうのです。この時も、多くの人が「なぜ?」でした。マルタもマリヤも、「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11章21節、32節)と言っていたでしょう。そのように罪の世にある人間にとって、死はまさに絶望なのです。それはもう人のどんな力も及ばないところ。それはこの49節にある、ヤイロの僕の思いだけでは当然なく、ヤイロ自身もそして周りの人々の当然の思いでもあるのです。

C, 「死は罪の結果」

 そしてこの死という現実、そこにある絶望は、聖書がはっきりと伝えているように、罪の報酬としての死であるということも避けて通れません。ですから娘の死は、罪の結果が必ずこのように全ての人間には来るという現実をも私達に伝えているでしょう。私達に死があるということは、つまり神の前に罪人であるということです。堕落の事実が、私達に確実に及んでいるという現実です。死を迎えなかったといわれている人は、エノクやエリヤなど確かにいるのですが、しかしアブラハムもモーセもダビデも死を迎えました。イエスを生んだマリヤも死にました。人は死ぬのです。死は私達の現実です。そして死ぬということは、聖書の通り、私達がどこまでも罪人であり、罪のうちにあり、罪を犯してしまう者。そして死に私たちが何もできないように、罪に対しても私達は無力であり、自分の力では、罪から決して自由にはなれない自分自身であるということを証ししているのが、私達の死という現実、私達も同じように死ぬのだということを、この死が伝えていることも忘れてはいけません。


3.「恐れないで、ただ信じなさい」

 しかしここにある幸いです。私達の側ではイエスの行動にも、この少女の死に対しても「なぜ?」であり、矛盾と絶望としか映らないこの事実に対して、天から来られたイエスは違うでしょう。まったく逆のことを語り出すでしょう?イエスがこの死をつげる遣いの者の言葉、そして周りで絶望に落胆する彼らに何を与えようとしているかを私達は分ると思います。

「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」50節

 と。イエスは周りの人々と同じように、絶望の言葉を述べるでしょうか?あるいは、周りのいう合理的な結論「もっと早く来ればよかった」ということをご自身も言ったでしょう。違います。イエスのことばは、この死や絶望という現実に対しても「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります」であることを見るでしょう。人の目からみるなら「12年間病気の人が直されたのに、12歳の娘は死んだではないか」という矛盾と疑いしか出て来ない。しかしこの言葉は、イエスにあっては、12年間病気の女性への言葉と変わらないし矛盾しないで一貫していることを教えています。「恐れないで」、それは「平安」です。「安心して行きなさい」と同じです。そして「信じなさい」と、やはり信仰の「希望」を示します。そして「直る」と。神が12年間病気の人を直したように、人の力ではない、「神の、天の約束と力があるではありませんか。」と。まさに神の目にあっては、周りの彼ら、そして私達が見ていることと全く違うことが分るでしょう。どこまでもそうです。52節では、みな泣き悲しんでいます。当然です。死は絶望なのですから。しかしイエスはここで尚もいいます。「泣かなくても良い。死んだのではない。眠っているのです」と。どういうことでしょうか?まさに遺族の感情を逆撫でし、馬鹿にしたような言葉にさえ聞こえるかもしれません。医学的にもその少女の肉体は眠っているのではなく、確かに死んでいたのでしょう。誰が見ても明らかな事実であったことでしょう。ですから人々はイエスのその言葉に呆れ、嘲笑うのです。

「しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子供よ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるようにいわれた。」54〜55節

 このように、死の現実を打ち破り、死んだ者の霊を戻して新たに生かし、絶望を希望と喜びに変えたのは誰であり何であるでしょうか?はっきりしています。その答えは、イエス様であり、イエス様の権威ある天のみことばではありませんか。


4.「イエスは死ではなくいのちをあたえるために」

 ですからこれは私達への福音の証しにほかなりません。それは私達がたとえどんな絶望にあっても、闇にあっても、しかしこのイエスこそ私達の救いであり、イエスの権威あることばこそ、私達の思いや願いや計算や決めつけをはるかに越えた私達のための素晴らしい天の御心を現わしてくださる力であるのだということです。実にはっきりしています。私達は死を前に、罪の前に、まさに無力であることがです。ただ絶望するしかない、泣き悲しむしかありません。いやそれどころか、救い主や神のことばを前にしてさえ、矛盾を覚え、嘲笑するようなものでもあります。まさに死の前の彼らの姿は、死の前、罪の前にあってどうすることもできない、神を見上げることもできない私達の現実を伝えているのです。しかしその彼らにも、そして私達にも、イエスこそがその現実を打ち砕いて、素晴らしいものを与えて下さることを伝えているのです。死ではなくいのちを、絶望ではなく希望を、嘲笑ではなく喜びを、矛盾や疑いではなく信仰を、イエスはこのヤイロにも娘にも与えたでしょう。私達にもイエス様は同じなのです。私達は自分の現実の前に何ができるでしょうか?嵐の日々、大波の試練、揺れ動く心、迷う心、先行きが見えない心、罪の苦しみ、死の苦しみ、絶望、まさに私達は「死の陰の谷を」日々、歩むような私達です。私達の世の中もそして一人一人の人生も、罪から来る報酬は死であるという現実を追っており、それこそが世の中や人生の、本当に大きな闇であり、重い重い重荷であり、難題です。しかしイエスは今日もこのところから私達に語りかけ、その権威あることばを持ってイエスが私達に与えて下さるのです。「死ではなくいのちを」です。十字架と復活のイエスこそ私達の信仰の中心ではありませんか。それはまさに「死からいのちへ」でしょう。死んだ者がよみがえった。そのように罪にあって神の前では死んでいるような私達が、イエスの十字架によって罪に死に、そしてイエスがよみがえったように、私達もよみがえり新しく生きることが、私達が受けた救いではありませんか。娘を死からよみがえらせたように、イエスがそれを私達にも与えてくれました。「死からいのちへ」です。イエスだけが与えることができたものです。そしてイエスはいつも与えてくれます。そのイエスが今も私達とともにあり、たとえ私達がどんなところにあったとしても、たとえ死の陰の谷を歩いていたとしても、今日もこの約束を私達に語ってくださっているのです。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば直るから」と。私達のイエスは今も明日も今週も常にこのように語りかけ与えて下さるのです。死ではなくいのちを、絶望ではなく希望、嘲笑ではなく喜び、疑いではなく信仰をです。


5.「イエスは私たちの思いをはるかに越えて」

 そして、そこには私達の思いや計画をはるかに越えた素晴らしい御心を神様は必ず備えています。目先のことを私達の目でみるなら、矛盾と疑いにぶつかります。理解できないことばかりです。しかし、今日示されている福音、イエスのことば、イエスの約束、イエスが与えて下さる、このいのち、希望、喜び、信仰は、天から私達へ与えられる天の恵みであり、「神が」必ず働いて助けてくださる。導いてくださる。与えて下さるという事に他なりません。私達の思いや計画、勝手な決めつけはその前にはあまりにも小さく不完全で空しいです。しかし、それほど大きくはかり知れないものを神は与えて下さるのだということこそ、このヤイロと周りの人々の驚きは証明しているのです。ぜひ、私たちもこのキリストを、信仰をしっかりと握って歩もうではありませんか。私達の思いや計画、願望、決めつけではなく、このイエスが与えて下さる、はるかに大きな恵みを受け続け、日々信じ信頼し、主の祈りを祈りつつ今週も歩んで行きましょう。