2015年2月8日


「神はこの小さい者のために」
ルカの福音書 9章46〜48節

1.「弟子達の議論」(46節)
「さて、弟子達の間に、自分たちの中で、誰が一番偉いかという議論が持ち上がった。」
 弟子達が、誰が一番偉いかと議論を始める場面は、度々出てきます。イエスが捕えられる直前にもそのような議論がありあす。この「誰が一番偉いか」という議論はある意味、彼らが何を待ち望んでいたのかがよく現れている一つと言われています。それは彼らが見ていたキリストの王国は「地上の王国」だとみているということです。人々がメシヤという時に何を期待し何を見ていたのかということも度々出てきますが、この時に未だ共通していることは、多くの人は、いや誰も、救い主の十字架の死と復活に永遠の救いがあるなどとは思いもしなかったということです。多くの人は、メシヤは、ローマからイスラエルを解放し、かつての繁栄した黄金のエルサレムとその神殿という、地上の王国を成し遂げて、そこに平和と繁栄が続くんだと期待していたわけです。それは弟子達もそうでした。弟子達もイエス様が捕えられ人の手に渡されるなどと分らなかったし、聞こうともしませんでした。なぜなら彼らのそのような華やかな期待と、イエスの言う「逮捕や死」はまったくつながらないからです。弟子達も、むしろ地上の王国がイエスによっていよいよ再建されると楽しみにしていたのでした。その地上の王国を見ているからこそですが、自分たちはいままでイエスと一番近い所にいて、仕えて来た弟子。だから、その地上の王国が始まる時には、その王様の側近として地位が約束されるだろう。そして地上の王国では、確かにその側近や地位に、順番があるわけです。そのような期待のなかで、当然「誰が一番偉いのか」という議論にもなります。彼らが期待していたメシヤ、救い、神の国というのが、どうであったのかが良く分る記述であり議論なのです。確かに、地上では、政治などを見ていても、地位や立場などは重要なこととされます。選挙の候補者紹介などを見ても「〜大臣、〜政務官歴任」などなど沢山書かれています。それだけ自分のアピールになるのでしょうし、投票する方もそのようなことを参考にするのです。そして、総理大臣の組閣などでは、地位を巡っての派閥の駆け引きや、ポストの割合とかバランスなど、必ず毎回騒がれます。権力や政治の世界では、地位や立場は何より重要であることがわかるのです。弟子達も、イエスが、今こそ立ちあがり革命をおこしてローマから解放し、新しいエルサレムが華やかに建てられるとき、弟子として従って来た自分にはどのような特別な立場や特権があるだろう?地位にあるだろう?弟子の中で誰が一番上位に来るだろうか? あるいは、この弟子やあの弟子と比べて、自分は上だろうか下だろうか?そのようなことが気になったことでしょう。しかしです。

2.「子供を手に取り」(47〜48節)
「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子供を手に取り、自分のそばに立たせ、」(47節)
 弟子達はおそらくイエスの前で堂々と聞こえ見えるように話していたのではなかったのでしょう。むしろ、仮に彼らの期待通りにイエスが地上の王国の王様になるのであれば、地位や一番偉いものは王が決めることですから、そんな王の前で堂々と地位の話しを話すことはないでしょう。社長の前で、わざわざ社員同士が自分や誰かの昇進やポストのことを堂々と話すということはしないのと同じです。ですからこの議論は、弟子達だけでの事として論じていたと考えられるのです。イエスは聞いてなかった。あるいは弟子達は聞こえないように論じていなかったとも考えられます。しかしイエスは神の御子、まことの救い主です。旧約聖書で「神は心を見られる、心を探られる」と書かれている通りに、イエスは弟子達の心の中の考えを見られ知るのです。そして、そばにいたひとりの子供の手を取り、自分のそばに立たせて言うのです。
「彼らに言われた。「誰でも、このような子供を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたの中で一番小さい者が一番偉いのです。」(48節)
 イエスはそばにいる子供の手を取りました。「子供」は何を伝えているでしょう。子供というのは、弟子達が議論していた地上の王国で一番偉い人とは対称にある存在です。地上の王国で偉い人と認められるのは優れた人が建てられます。様々な候補と比べて、立派であらゆる面で非の打ち所がない、功績があり、良くできる人が地上の王国では、一番偉い人となるかもしれません。けれども子供というのは多くを知りません。多くをできません。力も知恵も知識も強くはありません。地上の王国では、実に小さな存在です。しかしその子供を、イエスの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者だと、イエスは教えます。この「イエスの名のゆえに」というのは、「イエスのゆえに」、あるいは「イエスの教えの通りに」ということです。地上の国にあっては、弟子達のような「誰が一番偉いか」という心配や野心の場合、それは何か自分のために「大きいもの」を得ようとしているでしょう。そしてそのために、例えば、ヨハネとヤコブの兄弟が母を使って自分たちだけイエスの右と左に置いて欲しいとお願いしたように「大きい者」に取り入ったりこともあるでしょうし、あるいは、逮捕される前に、弟子達がこぞって「他の誰かが裏切っても自分は裏切らない」と言ったように、自分を他より「優れた者、出来る人、大きく見せたり」等などもあるかもしれません。まさに「大きいもの」を得よう、なろう、なりたい、という欲求です。しかしながら、そうではなく、イエスにあって、まことの神の国にあっては、その価値観はまったく逆です。この小さな子供を、あるいはこの小さな子供に象徴されるような、世の小さなもの、政治的、経済的、社会的には、何も出来ない、立派なこともできない、世や社会にあっては、機能的でもなければ生産性もない、価値がないとされるような、そのような小さな存在、その小さなものを、イエスにあって受け入れる人こそが、イエスを受け入れることになり、イエスを遣わした天の父なる神を受け入れることになるのだと、イエスは教えるのです。誰が一番偉いかと論じ、偉くなることが、イエスに、天の父なる神に受け入れられることではないというのです。

3.「イエスはそのために」
 ここで「わたしの名のゆえに」とあることは意味深いです。なぜなら、まさにそのように小さな者を受け入れたということは、イエス様そのもののを表していることがわかるからです。イエスは、まさにそのように、子供はもちろん、社会にあっては虐げられた小さな人々を受け入れたでしょう。悪霊に取り付かれている子供には、誰も触れようともしません。悪霊が取り付くことや災いは、罪の結果だとされていた時代です。誰も助ける人はいません。前回のこの子にはお父さんがいましたが、他の例では、8章26節以下に書かれています、ガリラヤ湖の向こう側、ゲラサ人の地方にいた、悪霊レギオンに取り付かれていた人は、世に見捨てられ墓場に住んでいました。まさに社会の最も小さな卑しい見捨てられた存在です。そして弟子達の中にもマタイとよばれる取税人レビはそうであったでしょう。社会から罪人と呼ばれ嫌われていた一人です。しかしそんなレビ、取税所に座っていたレビのところに、イエスの方からやってきて、声をかけ、そして一緒に食事をしたことも書かれています。そのように小さな者を受け入れ召して下さったからこそ、マタイは弟子として歩んでいます。イエスが何のためにこられ、どのようなものに神の国があるのかも、イエスははっきりと語っていました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31〜32)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちの者だからです。」(マタイ5:3)
 ですから、イエスは決して、ここで新しいことを弟子達に言っているのではないといえます。そして、そのことから、この時はやはり、まだ弟子達でさえも、イエスの伝える福音や神の国を、理解できなかったということもわかりますし、理解は、復活の後にイエスによって目が開かれて明らかになるということにもつながります。
 そのように小さな者を受け入れてきたイエス、いや、小さな自分たちを受け入れてくれたイエスのゆえにということが、「わたしの名のゆえに」という言葉には込められています。偉くなること、大きくなることが重要なのではない、「そのように、あなたがたもこの小さな子供を、小さなものを、それが罪人であっても、世が差別し忌み嫌い避けるようなものであっても、わたしがそのようにしたように、あなたがたも小さな者を受け入れなさい。そのためにわたしはきたのであり、してきたではありませんか。同じように、あなたを受け入れたではありませんか。そこに神の国があるのです。」と。イエスの弟子達の心への答えであったのでした。

4.「小さな私たちのためにイエスは」
 そしてこの48節の教えは、何よりイエスご自身をあらわしているでしょう。まさに、彼らは「一番偉くなりたい」「大きくなりたい」と論じながら、イエスの前でそのようなことを論じていることの愚かささえも分らない、自分が小さな者であることさえもわからない、罪深い、「小さなもの」であるでしょう。それは私自身にもあてはまることです。「小さな者」、それは、私たちはみな神の前にあっては「小さな一人一人」です。神の御心、みことば、命令の前に、私たちは何も出来ない、無力なものではありませんか。悔い改めても、罪の行いや心から私たちは決して自由ではなく、罪やサタンの誘惑に逸れてしまうものです。救われてなおも、義人にして同時に罪人の私たちです。神の前、または神の国の前には、それに値しないような小さな小さな罪人です。
 しかしまさにイエスは、そのような小さな私たちのためにこそ、世に来られ、私たちをも受け入れてくださり、その小さな罪深い私たちのために、十字架の死へと出発し、捕えられ、罵られ、裁かれ、鞭打つ者の、その行い、罵り、裁きも鞭も受け入れたでしょう。そのようにして十字架につけた彼らは世ではまさに「偉い人達」であったかもしれませんが、彼らもまた神の前にあっては小さなものであったでしょう。しかしイエスは、彼らのためにも苦しみを受け入れ、十字架を背負うではありませんか。そして、十字架の上でも「彼らを赦して下さい。何をしているのか分らないのです」といいました。そのように「小さな者」を受け入れるその究極の目的が、この十字架にこそ現わされるでしょう。そしてその十字架こそをイエス様は成し遂げられるのです。それはこの「小さな者」のために。私たちのためにです。
 このように、この十字架において、神が私たちを完全に受け入れてくださり、そして、天の救いを与え、神との正しい関係、罪赦された者という、本当の素晴らしい地位と、そして死からよみがえった復活の新しいいのちを、この小さな私たちに、与えて下さっている恵みを、ぜひこのところからも覚えて、感謝し喜び、讃美しようではありませんか。

5.「十字架にある神の救いのゆえに」
 私たちが自分は本当に小さな者であると自覚し、この小さな自分が、恵みによって救われたと信じ、感謝する時にこそ、神は神の国にふさわしい者としてくださるのです。それこそ「全ての中で一番小さい者が一番偉いのです」と伝える意味ではありませんか。神である方が卑しいものとなってくださったことによって、私たち小さなものが神の国に与ったのですから。神は私たちのために、小さな私たちのために、一人子を与えて下さり、その一人子を世に与え、十字架にまで従わせる程に、私たちを受け入れ愛して下さっています。それこそクリスチャンの喜びであり、感謝であり、新しく生きる力、愛する力です。そして、この喜びと感謝があるからこそ、讃美があるからこそ、私たちも、世の小さな者、それがどんな罪人であっても、虐げられたものであっても、自分に敵対するものであっても、神は私たちに力を与え、受け入れ愛することができるように用いて下さるのです。私たちは、今日も、神が私たちにこのことばを与え、まさにこのことをしてくださったそのイエスによる救いの喜びと感謝を覚えて、ここから遣わされて行こうではありませんか。