2016年2月14日


「神の前で自分を低くするもの」
ルカによる福音書 14章7〜11節

1.「上座を選んで座る人を見て」
 パリサイ派のリーダーの家での食事の席の場面が続き、イエスがパリサイ人たちに教える場面が続きます。ゆえに何か厳しい言葉が続いていきますが、そこでもイエスは「神の国とはこのようなものである」と伝えようとしていることが中心にあるのです。ここでは、パリサイ人のある姿を見てイエスは話し始めます。それは日常の状況からの例えを用いて語っていきます。
「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは彼らに、たとえを話された。」7節
 食事の席が続いています。そこはパリサイ派のリーダーの家ですから、多くのパリサイ人や律法学者が招かれています。「上座を選んで」座るような人々ですから、地位が高い人々でもあります。そのような意味でも前回の「水腫を患っていた人」がそこに座っていたのも不自然であるということがわかりますし、イエスが癒された後にすぐにその彼をその場から帰されたのもわかると思うのです。
 そのような食事の席です。ユダヤ人社会は厳格な階級社会ですから食事の席についてのマナーは厳しいものがありました。階級の高い人が上座に座ります。しかしここで招かれていた人々は、その上座を「選んで」座っているとありますから、彼らは本当に自他共に認める、社会でも、パリサイ派の中でも地位の高い人で、自分は当然その上座に座るものだと思って座っているのです。そのような情景を見てイエスはある例えを話すのです。

2.「婚礼の披露宴のたとえ」
「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれません。あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席につかなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席におすすみください』というでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。」8〜10節
 イエスは仮に婚礼の披露宴に招かれた時に起こりうることを述べています。もし最初から上座に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまいます。これはこのパリサイ派の食事の席で上座を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、仮にそのような例えにあるような場面が起こったなら彼らはその高いプライドが損なわれます。イエスは、そのような上座に選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているます。だから最初から上座に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが「招かれた席では、末席に座りなさい」と言います。そうすれば今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
 この例えには実はイエス独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、そのようなパリサイ派の人々の心を大部分、占めているものがプライドであることを示します。それが上座を好んで、選んで座ることに現れているわけです。しかしそれは恥や面目を気にする。プライドで生きて行動している彼らの姿であることをイエスは例えているのです。

3.「神の国の真理」
 しかしこの例え、イエスはただ、社会的なマナーだけを言っているのもなければ、あるいはただ、彼らを皮肉って批判したいのでもないのです。実はここにはそれ以上に、そのような自分は立派だと誇る人々への「神の国の真理」が伝えられているのがこのみ言葉のメッセージの核心です。
A, 「婚礼の席」
 まずこの例えで、イエスは「婚礼の席」であると例えます。思い出すことができるように、イエスが神の国を伝える時、つまりイエスが来られて救いの時が来たことを伝える時、イエスは「婚礼」に例えるのです。ルカ5章34節以下でイエスはこう言ってます。
「イエスは彼らに言われた「花婿が一緒にいるのに、花婿につき添う友だちに断食をさせることが、あなたがたにできますか。しかしやがてその時が来て、花婿が取りされたら、その日には彼らは断食をします。」(ルカ5章34節〜)
 これ以外にも、ヨハネの福音書3章では、預言者バプテスマのヨハネもイエスの到来は花婿が来たことに例えています。自分は花婿の友人で、婚礼を喜んでいるのだと、言っている場面があります。イエスの到来、あるいは、この救いの時は「婚礼」なのです。
B, 「婚礼はすべての人が招かれている」
 そして、その婚礼の席、神の国には、皆、すべての人が招かれているということも伝えています。その通りイエスは言っています。
「わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」ヨハネ10章9節
 と。「誰でも」とあります。「誰でも」どんな人でもイエスという門を通るなら、神の国に入れる。そしてそこには牧草、つまり「平安な食事」が待っていることを示しています。そして黙示録でもこう招かれています。
「見よ。わたしは、戸の外に立って叩く。誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3章20節 
 「誰でも」とあります。すべての人の戸をイエスは叩いて呼んでいます。その声を聞いて戸を開ける時、そこには幸いな食事、神の国の交わりが備えられていることをイエスは約束しているのです。
 神の国は、そのように「すべての人が招かれている婚礼の宴」として、聖書はイエスのみ旨を伝えています。この婚礼の例えも、その神の国が示唆されていて、その神の国とはどのようなものであるのかを伝えているのです。なぜならその結びは、実に意味深い言葉があるからです。
C, 「自分を低くするもの」
「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」11節
 イエスの神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうかわかりません。むしろ聖書では、ヨハネとヤコブの兄弟がお母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエスの右と左において欲しいとお願いし場面がありますが、その時も、それは父なる神がお決めになる、つまり神の御手にあることとしています。
 このところが伝える神の国はどのようでしょうか?むしろイエスはこの言葉で、そのようなパリサイ人たちが気にすこととは逆のところにこそ神の国はあることを伝えようとしている言葉であるとわかるのではないでしょうか。それは神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そしてプライドや恥や面目、面子でももちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが神の国にあって重要なことではないんです。そうではない、イエスは大事な神の国の真理を言います。
「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 これが神の国の真理です。これは弟子たちが「誰が偉いか」を論じていた時にも、イエスが弟子たちに出した答えです。そこでは「子供のようになりなさい」「仕えるものになりなさい」とイエスは教えています(マルコ10:43)。
D, 「みな「神の前にある」ということ」
 このように、イエスは、神の国にあって、自分を低くすることこそを神は求めておられることを伝えているのです。このイエスの婚礼の例えは、わかりやすい例えではあります。確かに高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどのように理解することができるでしょう。このことは実は、単純なメッセージです。これは「人と人との間の階級や位」でもなければ、「人と比べて」どうこうということではありません。まさに神の国は「神と私たち一人一人の関係」を示しているのです。このところで「上座を選んで座る人」は自他共に認める当然の席だったかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらくそれまで、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかしその彼らのプライド、高ぶりが「神の前では」どうであるのかこそ、彼らはこの例えで問われているわけです。
 まさにこの状況、神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、彼らは全く気付かない。まさに上席に座るお方が来ているわけです。しかし彼らの高ぶりやプライドこそ、自分を高くしようとし、自分を正しいとしようとする、その態度こそ、彼らを盲目にしてしまっている。上席の花婿の席に座る方、救い主が来ているのに気づかないで、結果として神の前で小さなものとなっているという事実が、明らかになってくるのです。
 聖書が伝える神と私たちの関係の大事な事実を思い出すことができます。それは、神の前では、パリサイ人も、水腫を患っている人も、皆等しく、一人一人、罪人であるという事実です。「義人はいない一人もいない。」(ローマ3:10)とあります。しかしその罪人のため、まさにこの十字架によってその罪から救い出すため、罪の赦しを与えるためにこそイエスは来られた、というのが聖書の伝える福音であり神の国ではありませんか。
F, 「イエスの十字架」
 そして、マルコの福音書の10章を見ますとまさにイエスは、ご自身こそ「仕える者となるために来た」と言い、それは十字架によってであると示しているではありませんか。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」10:45
 イエスはこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われます。けれども神はその死にまで従われたイエスを復活させ、そこにこそ神の国、そこに勝利と救いがあることを示すのです。神がイエスを高めるのです。11節の言葉です。
「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 「神の前」にあってすべての人にとってこの神の国の真理は実現するのです。皆、神の前にあります。しかしパリサイ人たちは、自分は正しい、自分はそんな悪くない、自分は全て律法を守っている、社会でも評判が良く尊敬されていると思っていましたが、しかしそれによって自分の罪深さに気づきません。結果として、神がイエスを通して与えようとしている福音の奥義、十字架の罪の赦しがわかりません。けれども聖書では十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認め、神の前にへりくだった時、そこに罪の赦しがイエスから与えられて天国の約束がありました。旧約の約束も同じです。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません。」詩篇5篇17節
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」イザヤ書57章15節

4.「終わりに」
 私たちは皆「神の前」にあります。「神の前」に誇っても意味がありません。私たちは「神の前」には罪人なのですから。けれどもまさにこの十字架のイエスにあってこそ、私たちは「神の前にあって」罪赦されたものとして見られるのです。そして自分は罪深いですと罪を悔い改め、このイエスにある十字架こそ自分の罪の赦しがあるのだと信じるときにこそ救いはあります。イエスのゆえに神に義と認められ、聖徒、神の子と認められて、神の国の冠をかぶせられます。低くするものを、神はイエスのゆえに高めてくださいます。これがこのみことばの私たちへの招きであり、恵みの約束、救い約束なのです。これがイエスの神の国の真理です。私たちはただこのイエスにへりくだるしかない。しかしその時に神の安心が、神の救いの確信が私たちに必ず来るのです。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」第一ペテロ5:6〜7