2016年2月7日


「子を引き上げるために」
ルカによる福音書 14章1〜6節

1.「パリサイ派指導者の家」
「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。」1節
 安息日の出来事です。安息日というのは、ユダヤ教では、聖なる日と呼ばれる日です。ユダヤ教では土曜日になりますが、由来は、神が世界を作られた時に、七日目に休まれ、その日を聖なるものとされたことから来ています。ユダヤ教の戒律あるいは伝統では、その日にはいかなる労働もしてはならないとされている日なのです。現代でも厳格なユダヤ人社会では、その厳格さは守られています。そんな安息日の出来事ですが、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入るのです。ただのパリサイ人ではなく、その中の指導者とあります。それは彼が、パリサイ派の中でもとりわけ律法についての洞察が深い律法の教師であり、パリサイ人達からも非常に尊敬され権威がある人物であることを意味しています。そんなパリサイ派の指導者の家にイエスが食事に招かれ入っていくのです。しかしその招きが何を意味しているのか見ることができます。彼らはみんながイエスをじっと見つめていたのでした。なぜでしょうか。

2.「水腫を患っている人」
「そこには、イエスの真っ正面に、水腫を患っている人がいた。」2節
 パリサイ人の指導者の家の食事になぜイエスは入って行ったのでしょう。なぜ招かれたのでしょう。これはパリサイ人たちにとって巧妙に計画されたものと推測できます。
 まず、その水腫を患っている人です。それは水ぶくれのようなものが、体の表面にたくさん現れるものであったと言われていますが、当時のユダヤ人社会では、そのような病気は、その人の不道徳な行為、つまり罪が原因であるとされていました。この社会にあって、パリサイ人たちやユダヤ人たちは、そのような「罪人」とされている人々と交わりをしないことが多かったようです。例えばイエスが、罪人たちと食事をしているのを見て、パリサイ人たちやユダヤ人たちは、イエスを蔑んで言いいました。「なぜあんな罪人たちと食事をしているのか。」と(ルカ5:29〜32)。それに対してイエスは言いました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」と(同31?32)。 
 ですから、そのことを踏まえると、この場面、そのように罪、不道徳な行為でこんな水腫の病気になったとみなされるような人が、パリサイ人の家の中、あるいは、食事の席にいるというのは不自然な事です。ですからここに水腫を患った人がいるというのは、パリサイ人たち、そしてその指導者の意図的なものがあるわけです。それはなんでしょうか?

3.「じっと見ているパリサイ人の目」
 彼らは、イエスが入ってくるなり、みんながじっとイエスを見つめていたとあります。
それは、まさにその水腫の人に対してイエスが何をするのかを見ていたということを意味しています。つまり癒しをされるかどうかを見ているわけです。先ほども見ました。13章32節では、「今日と明日、病人を癒す」と予告もしてたのですから。
 けれども、彼らは、その癒しをするのをじっと見ていたとしても、それはその人のためを思って、あるいは、その人の癒しを喜ぶためではありませんでした。
 ここで鍵となるのが、1節の最初にありました、その日は安息日であるということです。最初に触れましたように、安息日にはいかなる労働もしてはいけないという厳格な定めを彼らは持って従っていました。それは癒すことも、助けることさえも労働になります。ですからパリサイ人たちは13章14節を見るとこう言っています。イエスが18年もの間、悪霊によって腰が曲がってしまっていた女性を癒した時です。
「働いて良い日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日にはいけないのです。」(ルカ13:14)
 ですから、このパリサイ人の指導者の家に招かれたことも、そして、そこに水腫を患っている人がいることも、それは彼らが、イエスが安息日の律法、伝統に違反するのを自分たちの目ではっきりと確認して、律法違反を訴えるための口実を探すために準備したものであったのだろうとわかるのです。ですから彼らはイエスをじっと見ていたのです。

4.「すべてを見通しているイエス」
 けれどもイエス様はその彼らの動機を全て見通しています。次のように尋ねるのですが、それはこれまでパリサイ人たちが尋ねてきたことをイエスは自分から尋ね返しています。
「イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも良くないことですか」と言われた。」3節
 この質問は、これまで律法の専門家、パリサイ人たちが尋ねてきた質問です。もちろん、彼らは「それはいけないのだ」とイエスを非難するために尋ねました。その質問をそっくりそのままイエスは彼らに尋ねました。しかしイエスの場合は「それは良いことである」というためです。
 おそらく彼らは、イエスがその病気の人を癒した時に、その質問をしようと待っていたのでしょう。ですからイエスにしようと思っていた質問をそのまま返された時に、彼らはまさに全てを見抜かれていることを悟ったのではないでしょうか。ですから4節、
「しかし、彼らは黙っていた。」
 とあります。訴えようとするために準備した質問が逆に投げかけられたのですから、驚きと戸惑いが起こったことでしょう。そして彼らの全ての心も計画も動機も、ここにこの水腫を患った人がいることも、すべてイエスに見抜かれていることを彼らは悟ったのです。

5.「すべてを見通した上で癒しをされるイエス」
 それゆえ沈黙する彼らを前に、その彼らの訴えようとする動機もすべて知った上で、
「それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。」4節後半
 と続いているのです。このようにイエスは、その裁き、断罪しようとする人々、宗教指導者たちの前で、安息日であっても、彼らのおとしめるための策略であるとわかっていても、その水腫を患った人を、抱き、癒してあげるのです。そして帰すのです。そしてイエスは言うのです。
「それから彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらないものがあなたたちのうちにいるでしょうか。」
 イエスは、安息日に、癒すことは決して悪いことだと思っていません。むしろ安息日の本当の意味と言いますか、その安息日を定められた神の思いを伝えています。それはまさにあなたがたの愛するものを助ける思い、愛する思いと何ら変わらないのだと。イエスは、マルコの福音書でははっきりと言っています。「安息日は人間のために設けられのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」と(マルコ2:27)。つまり、安息日のために人がいるのではない。人のために安息日があるのだと。また別のところ、ヨハネの福音書でイエスは、「わたしの父は安息日に至るまで働いている。だから自分も働いているのだ」(ヨハネ5:17)と、安息日に癒す動機を言いました。
 このように、神の思い、イエスの思いは常に一貫しています。神は、人を思い、人を愛しているということです。人のために、安息日は与えられた。神が人を祝福するために、人に与えるために、人に仕えるために、助けるために、神は安息日を定めたのであり、神はこの日にも人を祝福し、助けるために働いているのだと。イエスはいつでもそのように答えるのです。この箇所でイエスの言葉を見てみると「家畜」だけではありません。確かに家畜が穴に落ちた時には、安息日でも助けることは許されています。しかし、ここではイエスは「息子」とも書いています。家畜ではない、自分の息子です。その息子が井戸に落ちたのに、安息日の労働にあたるからと、あなたがたは助けないのですかと。当然、助けるのではありませんか。イエス様はそのように問い返すのです。当然、助けるわけです。安息日であってもです。

6.「神の思い」
 神の思いは、それと同じだというのです。安息日はまさに人のためにあり、その水腫を患っている人のためにこそある。その人が助けられるための日でもある。助けることこそ神のみこころである。イエスははっきりと答えるのでした。
 このところは実に幸いなところです。本当に神がいかに人類を、しかも弱り果て、人の社会から疎外され蔑まれ、見捨てられた人を、決して捨てないか、愛してくださるか、助けてくださるのかが、表されているでしょう。このところは、イエスは、本当にもうご自身の死を見据えています。先週のところでは、ヘロデが殺そうとしているという情報がありました。逃げることができる良い情報です。しかしそれでも、イエスは、そうであっても、自分は今日も明日も癒しをし、そしてエルサレムで死ななければいけないと言いました。そしてこのところでもヘロデだけではありません。まさにこのパリサイ人たちが、逮捕してヘロデのところに裁判を求めてイエスを連れて行きます。十字架につけて殺すためです。それもイエスはわかっています。けれども、そのパリサイ人たちの訴えるための巧妙な策略をご存知でいても、それでも彼らの安息日の伝統に縛られた間違った理解を正し、そして、素晴らしい神の恵みと祝福をはっきりと伝え癒されるのです。安息日は素晴らしい日なんだ。救いの日なんだ。神が私たちをまさに息子として、助ける日なんだと。

7.「イエスの十字架にある救い」
 そしてこのイエスこそ、まさにその神の思い、言葉の実現ではありませんか。イエスは、その神の思いの通り、その水腫を患っている人、もう周りの人は、交わらない、触れない、その人を、なんと抱いて、癒してくださったのでした。そして十字架においてそれは私たちにも現され与えられるのです。
 神の私たち人類への思い、愛、そして、何をしてくださたのか、何のためにイエスを私たちに送ってくださったのかがわかります。裁くためではない、断罪するためでもない。その罪に苦しみ、人生に苦しみ、差別や蔑み、孤独に苦しみ、生きることの困難さを覚えて、心の貧しさにある私たちを、その罪から、救いだすため。まさに穴に落ちた息子を、どんな人間の伝統や決まりごとや決めつけや価値観の縛りがあったとしても、そこから救い出すためにこそ、神は私たちに御子イエスを送ってくださった。それが神の思いであり、神の私たちへの愛である。そのことが何よりもこのイエスから私たちに伝えられているのです。
 イエスは、世にあっては、まさにヘロデ、そしてこの律法学者、パリサイ人たち、祭司長たちの手に渡され、そしてピラトの手、つまり世界の裁判官であるローマ皇帝の裁きの手に渡されます。そして世にあっては、重罪人として、十字架に架けられ、殺されます。すでにわかっていたことでした。しかしイエスはそのことをわかっていても、イエスを助ける助言があっても、その十字架に向かって行きました。そこにある思いは、今日のこの水腫に現された思いとわざと同じなのです。私たちを裁くためではない、攻めるためでもない。重荷を負わせるためでもない。助けるため、癒すため、罪から救うためです。罪深い私たちを穴から助け出し、優しく抱いて、平安を与え、平安のうちに家に帰すためです。イエスは、そのために今もみことばを持って、福音の言葉と約束、そして、見える福音であるイエスのからだと血を与えることによって、私たちに働いてくださり、私たちに救いの確信と平安を与えてくださいます。私たちは是非、この優しい愛の神の手から、今日も福音を、罪の赦しと新しいいのちを受け取って、安心してここから遣わされて行こうではありませんか。