2016年1月31日


「エルサレムへと向かうイエス」
ルカによる福音書 13章31〜35節

1.「はじめに」
 エルサレムへとまっすぐに目を向けて進んでいるイエスの歩みを見ています。それはこのときイエスが、十字架をまっすぐと見て、その十字架を通して、救いのとき、神の国がすでにきているという福音を伝えたのでした。けれどもその福音を頑なに拒む人々や、「誰が救われるのか」「救われるの人は少ないのか」などを気にするユダヤ人たちに対しては、イエスは、ご自身こそ救いの門であるけれども、その門を通るものは少なく、その門は狭いことを伝えたのでした。
 そのように、そのエルサレムへの道には弟子たちも一緒であったのですが、それと同時にパリサイ人や、彼らに伴う敬けんなユダヤ人たちがついて回ったり、あるいはイエスがいると聞くと集まってきたりということが多かったのです。 今日のこのところでは、何人かのパリサイ人たちが近寄ってきてイエスに言うのです。

2.「助言をするパリサイ人たち」31節
「ここから出て他のところへ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」
 このパリサイ人たちの真意や動機は書かれていません。わかりません。しかしパリサイ人たち全員がイエスに敵対し、皆がイエスを殺そうと思っていたわけではありませんでした。ここにあるヘロデというのは、ユダヤの王のことですが、そのヘロデがイエスを殺そうとしていることを誰からか聞いたのか察知して、それをイエスに伝える何人かのパリサイ人たちがいたのです。「だからここから他の所へ行きなさい」と。つまり逃げなさい、とイエスに助言をするのでした。この知らせは弟子たちはもちろん私たちから見ても、イエスのことを考えれば、イエスの命を守る、あるいはイエスを殺害から守るとても良い情報です。まさにヘロデの謀略に対して、早急に対処することができるのです。
 しかしながら、どうでしょうか?そんなに人の目から見るならイエスに好都合の益になる良い情報であるのに、イエス様はその通りにしないのです。

3.「助言を退けるイエス」32節
「イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んでいかなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないからです。』
 イエスは、そのパリサイ人たちに言います。「狐」というのはヘロデ王のことです。狐は巧妙に欺く者のたとえで、ヘロデのその心をイエスはすべて見通していることを意味していますが、逆にヘロデにこういうのです。しかしこのイエスの言葉を読んで分かるように、それはヘロデへ言い返すかのよう悪意や中傷、悪口ではないことは注目してください。むしろ彼はヘロデに、ご自分がまっすぐ見ているところ、向かっているところ、そしてその目的を伝えるのです。

4.「イエスが伝えること」
A, 「神のわざが行われている」
 まず、「よく見なさい」と始めます。何を見るように言うでしょうか。それは、今、その時に、イエスによって表されていることです。それは今日も明日も、悪霊に苦しむものから悪霊を追い出している、病人を癒していると言うのです。事実、この前のところでは、長い間、霊に憑かれ腰が曲がってしまった女性から霊を追い出し、その腰を癒してあげた出来事がありました。そしてこの後も14節以下では、事実、水腫を患っている人をイエスは癒されます。それは何を表しているかというと、神のわざがイエスによって行われていることの証であって、神の国、救いの時、救い主が来たことを伝えるしるしであったのでした。そして「三日目に全うされる」は何を意味しているのか、わからず、難しいところではあるのですが、同じ言葉としては、9章22節で、「三日目によみがえらなければならない」と言っているように、やがて起こる復活のことです。それは、その復活によってこそその神の国のわざ、救いは完成されるということを言っているのではとも言われています。いずれにしましても、そのことを裏付けるようにイエスは33節ではもっとはっきりというのです。
B, 「エルサレムへと進んでいかなければ」
「今日も明日も次の日も進んでいかなければなりません」
 と。このように、イエスの思いと目線はどこまでも貫かれています。「ヘロデが自分を殺そうとしている」というせっかくの情報をもらい、逃げることもできたはずです。しかし、それでも、その助言を退けてまでも、イエスがいかにはっきりとまっすぐと、しかもぶれることなく、エルサレムを見て進んでいたのかがわかるところです。そしてここではそのエルサレムに進んでいるその理由もはっきりとご自分の口で言います。
「なぜなら、預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないからです。」
 イエスがエルサレムをまっすぐと見ている理由が述べられています。それは預言者であるご自身が「死ぬ」ためであるということです。イエスは十字架をまっすぐと見ています。そこで彼がまさにヘロデ王を始め、祭司長、律法学者、パリサイ人、エルサレムのユダヤ人たちに逮捕され鞭打たれ殺されることを知っていながらもです。それでも進んでいかなければならない。そこで自分は十字架を背負って死ななければならない。その思いです。

5.「助言を退ける理由」
 「殺そうとしてる。だから逃げなさい」というせっかくの助言を、そのようにイエスは退けます。このところはイエスが、捕らえられ十字架にかけられることを弟子たちに伝えた時に、ペテロがイエスを諌めて、そんなことが起こるはずがないと言った場面を思い出します。ペテロのあの言葉は、人間的にはペテロのイエスを思う、愛情に溢れた言葉のように思います。しかしその時に、イエスはペテロに対してなんと言ったでしょう。「下がれ。サタン」というわけです。そして、ご自身の行く道を邪魔するものは、サタンに等しいことを弟子たちに教えたのです。そのような場面です。このように見ましても、イエスの道は、どこまでも十字架の道であり、それが救いの道であり、それを妨げるものは、人の側でどんなに良いことのように思える言葉や提案であっても、主の前にあっては、救いと神の国の妨げとなることを示唆しています。イエスは、そのように十字架こそ救いであり、それこそ人類のために成し遂げられなければならないことであり、それを妨げ閉ざすものは何であっても、それがイエスの命を守ろうとするものであったとしても、退けなければならなかった。それほどの思いが伝わってくるのです。つまりそれほどまでにイエスは人類の救いを、私たちの救いを、私たちが十字架の罪の赦しを受けて救われなければならないという私たちへの強い思い、愛をこのところから見ることができるのではないでしょうか。

6.「ああ、エルサレム、エルサレム」
 そして、イエスの思いはこの福音を拒み殺そうとする人々にも向けられているのです。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのにあなたはそれを好まなかった。」34節
 「ああ、エルサレム。エルサレム」ー嘆きの語りかけです。そのエルサレムという都市は、神殿、寺院の都市であり、信仰の中心でした。神の言葉の中心地でした。しかし事実として、そのエルサレムでは、神が民のために神の言葉を預け遣わした、その民のための預言者たちを、王たちがその神の言葉は聞きたくない、信じない、受け入れられないと、石で撃って殺してきたことが繰り返されてきたのでした。非常に皮肉な事実です。
 けれどもその時代にあっても、なぜ神は預言者を遣わし、語り続けたのでしょう。それが厳しい悔い改めの言葉であったとしても神が民に語り続けたのはなぜでしょうか。それは罪深い民を助け守り、民の幸せのため、民が神と共に生きることこそ平和と喜びの道であることを伝えたかったからでしょう。ですからイエスは言うのです。「そのようなエルサレム、そのようなあなたがたを、それでもなおも、雌鶏が雛を翼の下にかばうように、自分はあなたがたを集めて、守り助けようとしてきたのだ」と。それは、イエスがどこまでも愛と祝福の目的で来られたのであり、「それはまさにエルサレム、あなたがたのためではないか。」とイエスのエルサレムへの思いが愛に基づくものであることがわかるのです。けれどもあなたがたはそれを好まなかった。捨て去った。同じように、預言者、バプテスマのヨハネを排除し殺してしまった。そして真の預言者であるイエスをも殺そうとしているわけです。そのことをイエスは嘆くのです。しかしそのことが待っているのをイエスは知り、受け止め、このエルサレムの道を進まれているのです。

7.「エルサレムへの希望の約束」
 そして、その十字架の道は、そのエルサレムのためでもあることもイエスは示唆してここを結んでいます。
「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」35節
 エルサレムの神殿の荒廃は、やがて紀元70年に起こる、ユダヤ人たちのローマ帝国への反抗に対してローマによってなされる神殿崩壊を示唆しています。そしてその神殿は再建築されることなく、崩れたまま残って今に至るでしょう。そしてそれは信仰的な意味でもあります。彼らの多くは今でもキリストをメシヤとして認めてはいないのです。今でもキリスト教に回心しようというユダヤ人に対しては、厳格なユダヤ教徒は、今でも強烈な拒否反応や迫害が、イスラエルだけでなく、アメリカでも、世界中のユダヤ教社会で少なからずあるとも言われています。
 けれども、イエスは示唆しています。最後は「あなたがたは決してわたしを見ることができません」という否定形の言葉ではありますが、『祝福あれ。主の御名によってこられる方に』とあなたがたがいう時が来るまでは』とあるのです。それはイエスが見ている光であり希望です。第二歴代誌を見ていても、悪の限りを尽くして神に背き、偶像礼拝にそれていくユダの民のことが記されていて、そこに対する神の怒りが書かれています。けれどもそれでも神は、ダビデと立てた祝福の約束のゆえに、民を滅ぼすことをされなかた、民の中から灯火を消し去さらず残しておいたと書かれているのです。そしてその通りに、神は民を決して見捨てないわけです。捕囚があっても、預言者を通して、救われる日を約束しました。同時に、そこには真のメシヤ、キリストの約束もありました。そのように神は今や、キリストを通して、異邦人をも救いに入れて下さっただけでなく、このご自身の民のイスラエルをも決して見捨てず、希望の灯火を残していることは、今も変わらない神の約束なのだと私たちは見ることができるのです。やがて、ユダヤの民が、「祝福あれ。主の御名によってこられる方に」と叫ぶ時が来る。そして彼らがイエスを見ることができるのだと。

8.「おわりに」
 イエスの愛、救い、十字架は、このようにすべての人のためのものです。私達一人一人のために、私のために、イエスは十字架にかかって死んでくださり、罪の赦しを与えてくださいました。私達一人一人のために復活し、その復活の新しいいのちを、私達にも与えてくださいました。この聖書の福音の約束は真実です。これこそ私達が頂いた良い知らせであり、神の奥義であり、天から私たちの救いの宝です。私たちはそれを「この私のために」とそのまま受けるだけでいい、このお方が「私のために」と信頼するだけでいいのです。そこに主は決して裏切らない、見捨てない、いつまでも主の復活の新しいいのちのうちに私たちを清め、新しくし生かしてくださいます。それが私たちの救いの道、新いのちの道です。すべての人が招かれ、すべての人がそのまま受け取りついていくだけでいいのです。ぜひ、このキリストのいのちを今日も受け、ぜひ日々新しく、その救いの道を生きていこうではありませんか。この救いに、恵みに心から喜びと平安を覚えて、神を愛し、世を愛していこうではありませんか。