2016年1月24日


「「狭い門から入りなさい」が伝えること」
ルカによる福音書 13章22〜30節

1.「はじめに」
 イエスが、神の国をからし種、あるいは、パン種のようなものであると例えて、伝えられたところを見てきました。それはイエスが伝え与える福音のことを指していました。その福音という種が、聞き受ける一人一人に、信仰を芽吹かせ、その信仰が一人一人に成長していく、広がっていく、それが神の国の姿であることをイエスは伝えたのでした。けれどもそのような神の国を伝える時、「誰が救われるのか」という議論が人々の注目になるのは当然なことです。本来は人は「誰が救われる」とか「救われない」とかいうことはできないものです。なぜなら、救いは神のわざであり、神だけが知っていることだからです。私たち人間は、ただ神の約束と福音のゆえに、それが私のためであると信じることによってのみ、救いの核心を持つことができるだけです。あの人がどうだこうだは、私たちの判断の領域ではありません。しかしいつの時代も、それは人間の側の関心として議論になるのです。ここはそのように始まっています。

2.「狭い門から入りなさい」
「イエスは町々村々を次々に教えながら通りエルサレムへの旅を続けられた。すると、「主よ。救われるものは少ないのですか」という人があった。イエスは人々に言われた。」22〜23節
 まず9章51節から始まってずっと続いているように、ここにも「「エルサレムへ」と向かって旅を続けていた」とあるのは大事なポイントです。イエスの議論を理解するための鍵となるからです。イエスはどこまでもこの先の十字架の出来事を見ているということです。この「土台」があってですが、そこで「主よ。救われるものは救いないのですか。」そう尋ねる人がありました。おそらくですが、26節以下のイエスの言葉からも、尋ねた人も周りにいる人も、パリサイ人のような敬虔なユダヤ人であったと推測できるのですが、それに対してイエスはこう答えます。
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなた方に言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」24節
 「狭い門から入りなさい」とイエスは言います。ルカの福音書では、「努力して」という言葉も書かれています。一体、この「門」は何を指しているでしょう。平行箇所として、マタイの福音書の7章も見てみましょう。マタイの場合は山上の説教で述べたこととして書かれていますが、
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7章13〜14節
 それは滅び至る門と対照する「救いの門」であることがわかります。「いのちに至る門」ともあります。そして「道」ともあります。そしてそれは狭いのだと。何のことでしょう。ルカに戻り13章25節ではこうもあります。
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。」25節
 その門、道が、開かれているのは、限られていることがわかります。閉ざされる時が来るということです。それはつまり今まさに開かれているということでもあり、今が救いの時であることを意味していることもわかります。

3.「「門」と「道」の伝えること」
 イエスの「狭い門」。これは何の事を伝えているでしょうか。最初に言ったように、これはエルサレムへとまっすぐに目を向けて進んでいる時です。イエスは、救いの時を見ていますが、十字架をはっきりとまっすぐ見ています。そして語ってきたことは、ご自身こそキリストであり、救いであるということです。ご自身が来られたところ、そして福音が語られているところに神の国はすでに実現しているのだ、そしてご自身を信じることにこそ神の国はあるということでした。
 ですから、このように、この「狭い門」も、まさにイエスご自身を指していることがわかるのです。他の箇所のイエスの言葉からもその門や道は何を指しているのかわかります。ヨハネの福音書でその言葉を見ることができます。ヨハネ10章7節以下ですが、
「そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなったのです。わたしは門です。誰でも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」ヨハネ10章7〜9節
 この言葉は11節で、先週の「わたしはよい牧者です」へと繋がっていきます。そして、同じヨハネ14章6節ではイエスはこう言っています。最後の晩餐の席です。
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14章6節
 このようにイエスは、ご自身を「門」、そして「道」と例えます。そしてその門、道を「通る」ことを示し、「通る」ことによって救われる、と伝えているのです。つまりイエス・キリストによってのみ、キリストを通してのみ、人には救いはある。キリストによらなければ、キリストを通しでなければ、誰も救われない。キリストにあるなら、キリストを信じるなら、キリストにつながっているなら、そこには必ず救いがある、救われている。その福音の核心部分こそ、この「門」「道」という言葉には表れているのです。このように、狭い門はイエスご自身とその福音、そして信仰の道を意味しているのです。

4.「その門は狭い」
 しかしです。その門は、「狭い」とあるのです。「入ろうとしても入れなくなる人が多い」とあります。マタイでは、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多い」ともあるでしょう。キリストの道、福音の道は狭い。皆さんは、どう思うでしょうか。何度も言っておりますように、イエスが神の国を伝えてきた時に、それはどこまでもご自身と神の約束である福音、そしてそれをどこまでも信じ信頼することに、神の国があることを伝えてきました。けれども、どうでしょう、そのイエスに、福音の約束に、どこまでも信頼するということ、あるいは、何があってもどんな困難や試練に直面しても、イエスとその福音を拠り所にして、その約束に希望と信頼を告白して歩むということは、簡単なことではないのではないでしょうか。いやそれこそ「難しい」、「完全にできない」と、誰もがつまづき葛藤するのではないでしょうか。私はそうです。神の前に正直であるならなおのこと、自分は神を愛せない時も、隣人を愛せない時もあるし、どんな時でもそれでもイエスとその約束に、福音にこそ全く依り頼み、信頼し、揺るがないと言い切れる時はありません。本当に不完全で小さな信仰の自分であることを思いますし、罪深い自分であることを神の前では認めざるをえません。本当にどんな時でも何があっても、キリストにあって、キリストを通ってという道はまさに「狭い門」ではないでしょうか。
 私たちは罪人です。救われてなおも、罪を犯してしまう罪人です。もちろん「キリストにあって」義と認められています。しかし同時に、肉にあってはなおも罪人です。その性質は、何より、堕落から受け継がれている性質です。信仰にあってはアブラハムの子孫であっても、同時に肉にあってはアダムとエバの子孫である私たちは、やはり、アダムとエバのように、神の言葉を疑おうとし、むしろ見るに慕わしい目の前の木の実に心奪われて食べてしまう性質も持っています。神のようになれるという自己中心な思いから自由な人は誰もいません。私にもある罪の性質です。そのようにして、罪の性質は、天の宝であり救いの鍵である福音を絶えず拒もうとする性質もあるわけです。いや、むしろ福音を私たちから得よう、理解しようとしてもそれはできるものではありません。神の奥義なのですから。むしろ、人の性質は、福音の約束よりも、目の前の最もなような理屈や現実、繁栄や人間の描く理想や期待、そちらで判断する方が確かに容易く、簡単かもしれません。人間にとっては、そのような目に見えないありえないような希望を約束する福音よりも、むしろ律法の方が理解し易く、律法的に判断したり決めたり行動したり計画した方が簡単でし易く合理的であると思えることでしょう。

5.「福音の逆説性」
 しかし、聖書の示す福音の道は、どうでしょうか。むしろものすごく逆説的です。だから理解できないし受け入れがたいと感じて当然かもしれません。福音は、世が忌み嫌うような罪人や底辺の人に表されました。正しいと自分で思っている人々にとっては、それまでの伝統や規律を覆す脅威かのように見えました。そしてついには福音の道は受難と十字架の道に表されました。弟子達でさえも、神の国は、何か独立した王国をイメージしていました。誰が右か左か、誰が偉いかを論じていました。今がその革命の時か、今が王国をうちたてる時かと待っていました。そして、イエスが殺されそうになったら、自分も一生に死のうといい、裏切りが告げられた時も、他の誰かが裏切っても決して自分は裏切らないと、まさに彼らもイエスの開こうとしている門は容易く見えていたのです。
 けれども、福音の道は、どうであったでしょう。十字架の道はどうであったでしょうか。それはまさに狭かったでしょう。むしろ通れなかったのです。彼らは皆、裏切って逃げました。ペテロは3度、否定しました。尊敬されていた宗教指導者達は、謀略と悪意と偽りで、イエスと福音を拒み、罪のないイエスを有罪にします。そして、その福音の門、イエスの門は、十字架にこそ現されるではありませんか。最悪の刑罰の道具、敗北と侮蔑と社会の拒絶の象徴です。けれども、福音は、復興した黄金の宮殿でもなければ、ローマの皇帝の座でも、世の繁栄や豊かさに表されたのではありません。十字架と復活にこそ現されたでしょう。イザヤの預言から言えば、「誰もそれは思いもしなかった」ことです。イエスの誕生の時も、誰も目を留めなかった。み使いに知らせたものだけに知らされた出来事です。福音の門は、まさに狭い門ではありませんか。人がそのままでは、通ろうとしない。むしろ人が通りたい道は、今もそうでしょう。広く、そこに入って行く人が多い広い門です。人はそのままではそちらを選ぶのです。福音の道、イエスの門は、狭い門です。「努力して」というほどに、大事な門。救いはここにしかないという門です。本当にこのイエスこそを私たちは努力して、誠心誠意、心の一新を持って、イエスを求め、イエスの福音に聞き、福音に生きることこそ、私たちは努力すべきです。しかし、それさえも容易いことではない。いや、自分たちのわざでなんとかしようとすればするほど、私たちは神の前に限界がある、そのような門ではありませんか。まさに「狭い門」です。
 イエスの門、道は、そのように人の目から見て広い道のように見るなら、実は、狭いのです。神の国の道は、私たちが広いと思い、誰でも入って行くような道ではない。世が思い描くような救いや神の国ではないのです。まさにイエス様の時代も、世にあっては宗教指導者たちは、社会的に地位の高い人々が、救いや神の国に近いように思われました。おそらくこの質問を尋ねたパリサイ人も自分は救われるという自負があってのことでしょう。けれども実際はその人々は福音を拒んでいきます。しかし逆に、救われないと世が決めつける罪人と呼ばれる人々が、悔い改めた時に、イエスは、その人に救いを宣言し、神の国はそのような人たちのものだともいうわけです。ですから、ここの例えでも、「今、しんがりの者が後で先頭になり、今先頭の者が、しんがりになる」とも言っています。

6.「「狭い門」に恵みによって入れられた幸い」 
 このように見るときに、まさに「誰が救われようか」そう思われます。そうです。私たち自身では決して私たちは救われませんでした。まさに狭い門です。そして私たちは広い門を選び通ろうとする罪人の性質があります。まさに狭い門を通ることは、奇跡です。しかしです。大事な点です。その奇跡こそ、私たちに今、現されたことでしょう。まさに神が、イエスが、そのような私たちを、その言葉で、福音で、聖霊の働きで、罪深い私たちを、この門に通してくださったではありませんか。私たちにも奇跡の悔い改めが導かれ、今、福音の素晴らしさを私たちは知っています。福音の約束によって私たちは平安の希望と喜びを得ているでしょう。私たちは今、まさに「十字架の死が私たち一人一人のためである。私のためである。この十字架のゆえに、私は罪赦されて、ただこのキリストのゆえに、神の前に義と認められ、ただただ恵みによって神の国に入れられた。」そう信じているではありませんか。その信仰が与えられ救われたと言われているでしょう。
 私たちは「狭い門」を通っているものです。今日のこのイエスの教えも、何よりやはり、ただただ神の恵みのゆえに、私たちは救われていて、私たち自身では入ることも歩むこともできなかったその門、道を、恵みによって、今、歩むことへと導かれている。それは私のわざによる道ではない、まさにキリストの道、キリストご自身、つまり神が与えてくださった恵み、賜物としての信仰の道、新しい命の道である。そのことを何よりも教えられているのです。
 皆さん、人の目の前にあっては狭い救いの道に、ただ神の恵みによって、福音と聖霊の力によって、導かれ歩まされている幸いを、キリストのゆえに、福音の約束のゆえに、確信し、安心し、喜び賛美しようではありませんか。私たちはまさに神の作品、新しい創造による、奇跡の存在です。ですからその喜びと平安を持ってその恵みを世に証ししていこうではありませんか。その信仰にあって神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。