2015年5月17日


「本当の強さと喜び」
使徒の働き 16章16〜34節

1.「不条理な出来事」
 パウロとシラスという二人の宣教師におこった不思議な出来事。二人はある出来事で訴えられ、捕えられ、鞭打たれ、牢獄に入れられてしまいます。場所はピリピという町。そこで占いの霊に取り付かれている女と出会い、彼女から霊を追い出してあげました(16〜18)。しかし彼女の占いで利益を得ている人々がいたのでした。彼らは霊が追い出されたために彼女からの占いの利益を得られなくなったのです。彼らは怒り二人を捕らえてその地を治めているローマから派遣されている長官の前に引き出すのです。彼らはこう訴えるのです。「この者たちはユダヤ人でありまして、私達の町をかき乱し、ローマ人である私達が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」20節。彼らは「自分たちの利益を得られなくなったため」ということは一切言いません。彼らはパウロとシラスは「町をかき乱している」「ローマ人がしない風習を宣伝する」と言うのです。群衆も扇動されて22節にあるように「二人に反対してた」つのです。もちろんパウロとシラスは町をかき乱してはいません。ただイエス・キリストの福音を伝えるためにきて、町で出会った悪い霊に取り憑かれ苦しんでいる彼女を助けただけでした。しかし長官たちはその彼らの訴えをそのまま受け入れパウロとシラスを有罪にしてしまいます。そして二人は着物をはがれ、むちで何度も鞭で打たれ、牢獄に入れられてしまうのです(22節)。理不尽な出来事です。「きちんとイエスに従っているのに、こんな理不尽なことに。イエス様に従って来たのに、正しい行いをして来たのに、どうして苦しみに。」ーそう思いかもしれません。しかも宣教の働きが妨げられてしまいます。閉じ込められて動けません。一見、とても望みがない状況なのです。しかしです。

2.「牢獄での賛美の歌」
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、他の囚人たちも聞き入っていた。」25節
A, 「困難のなかで賛美するのはなぜ?」
 そこには幸いな二人がいます。この困難な現実に直面しながら、二人は、神に祈り、賛美の歌を歌っていたのでした。まず何を祈っていたのでしょう。「助けてください」そのような祈りも確かにあったことでしょう。しかし不思議な事にここに「嘆き」が感じられません。祈りつつ「賛美の歌を歌っていた」のです。「賛美」ーそれは、主をほめたたえること。主のなさった事、主のなさる約束を、感謝し、喜び、讃える。というのが賛美です。つまり、そのように二人は、「主のなさった事、主のなさる約束を、感謝し、喜び、讃え」つつ祈っていたのです。目の前の現実は理不尽です。望みのない拘束状態です。なぜこんな災いへと言いたくなる状況です。「賛美する」なんてとんでもないと思う、賛美とは逆のものが心に、口に出てきてもおかしくありません。しかも肉体は何度もむち打たれ痛んでいます。
 しかしです。このパウロとシラスは私たちへの証です。彼らはその苦しみの中にあって、一つの重大な事実を私達に示しているのです。それは、彼らは賛美をしていた。神を褒め讃えていたのでした。彼らは気がおかしくなったのでしょうか? とんでもありません。彼らはまともでした。皆さん、これは使徒の働きにあるクリスチャン達に共通のこととして見ることができる姿です。5章の40〜41節。エルサレムで使徒たちは「イエス・キリストこそ救い主である」と伝えました。けれども、その事を受け入れらない大祭司や議員たちは使徒たちを捕らえるのです。そして
「使徒たちを呼んで、彼らをむち打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡した上で釈放した。そこで使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」5章40節
 ここでも、むち打たれたのに「喜びながら」とあります。しかしそれは、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら」とあるのです。この「御名」というのは「イエス・キリストの御名」のことです。彼らは、なぜ、むち打たれたのに「喜ぶ」ことができたのでしょうか? 不思議ではありませんか? しかしそれは、彼らはまさにこの神であるイエス・キリストこそを見ていたからでした。イエスこそ私たちの本当の神、救い主、そのイエスのゆえに私たちは救われ、新しく生かされているんだという、その信仰があったのです。この信仰こそ、この状況にあってのこの心の強さ、この喜び、希望を生んでいるのだ、と私たちに伝えているのです。救い主を信じる信仰の生き方の幸いを伝えてくれているのです。彼らは、イエスにあるなら、救い主が共にいるなら、どんなことがあっても大きな喜びが溢れている。使徒たちはそのように喜んで、議会から出て行ったのでした。
B, 「パウロとシラスの見ていたもの」
 パウロとシラスも同じです。彼らは何を見ていたでしょうか? 彼らは賛美をしていた。「神に」です。神に祈りつつ、神に賛美をしていた。彼らも、目の前の理不尽な望みのないような目に見える現象以上に見ているものがあります。それは目には見えないけれども、二人のために、十字架にかかって死んで、よみがえって、天に昇って、そしてともにいてくださるイエスを彼らも見て信じているのです。このパウロは、そのイエスの素晴らしい救いを忘れることができないはずです。使徒の働きの8章を見ますと、パウロはクリスチャンを迫害し鞭打つものでした。エルサレム中のクリスチャンを迫害することで飽き足りず、9章ではますますクリスチャンへの殺意に燃えて、ダマスコという町へいき、クリスチャン狩りに向かうことが書かれています。しかしそんなキリストの名を憎み、迫害するパウロに、イエスは天から声をかけてくださった。裁きの声ではありません。愛の言葉です。なんとイエスはこの迫害者パウロさえも愛し救ってくださった。そしてそんな彼を宣教師として遣わしたからこそ、パウロは今180度逆のイエスを伝えるものと歩んでいます。そのパウロの180度転換した、全く新しい歩みの原因も動機も、それは、迫害する自分さえも愛し、救ってくださった、遣わしてくださったイエス・キリストを信じる歩みなのです。

3.「絶対に揺るがない拠り所がある」
  第二にここにで示されていることはなんでしょう。この牢獄でのパウロとシラスの賛美。これは、私たちには不可能です。しかしこの賛美が伝えるのは、二人がどんな状況でも、確かなものを、揺るがないものを、しっかりと見て、信じて、拠り所としていることからくる強さ、喜び、平安が、賛美を生んだということを、私たちに証しているのではないでしょうか。この状況でのこの賛美は、世が与えることができないものではないでしょうか。多くの拠り所や信頼の選択肢は世には溢れています。しかし曖昧で不確かなもの、不完全で朽ち行く物への信頼、依存は、やはり最終的には、曖昧で、不確かさで終わってしまいます。不完全なものでは必ず揺らぐのです。では彼らのこの希望と賛美はどこからか? 彼らはまさに揺るがない確かなものを見ていたからでしょう。それは帰るところは同じです。イエス・キリストこそ本当の救い主であるということでした。イエスが私たちを救ってくださった。罪深い私を、神を迫害した私を愛してくださった。そのために十字架にかかって死んでくださった。罪を赦してくださり愛してくださった。それは、完全で真実で決してゆるがない。やはり、イエスキリスト、そしてそのイエスへの信仰こそ、彼らの本当の確かさ、本当の強さであったのです。それはたとえ試練、苦しみの中にあっても、肉体の弱さの中にあっても揺るがないで喜び、賛美できる強さでしょう。それはイエス・キリストのゆえなのです。イエス、聖書、この使徒たちは、クリスチャンへ、これから信じよう、信じたいという人、いや、否定する人にも、全ての人へ、そのことを、信じるように招いているのです。私達一人一人はただの人間です。弱く、不確かで、罪あるものです。しかし救いというのは、キリストにあって新しいことです。私達もこのイエス・キリストにあるなら、救われます。キリストにあるなら新しい歩みがあります。そしてキリストにあるなら、思いをはるかに超えた、喜び、平安、希望が与えらるのです。ぜひ、聖書が、使徒たちが、教会が伝える、確かで揺るがない救い主、イエス・キリストを、イエスを信じることにある平安を、知ってほしいのです。

4.「看守を本当に恐れさせたもの」
牢獄の二人に不思議なことが起こります。
「ところが突然、大地震が起って、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」26節
 地震によって頑丈な獄舎が揺れ動きました。そして扉も鎖もその地震によって解けてしまったのでした。看守たちは、この出来事で、囚人が全部逃げたと思いました。そして、27節にあるように彼は剣を抜いて自殺しようとするのです。囚人が逃げた責任をとらされるからです。しかし28節
「そこでパウロは大声で「自害しては行けない。私達は皆ここにいる。」と叫んだ。
 パウロとシラスは逃げなかったのです。なんとそこにとどまり、さらには看守たちの自殺を止めるのです。「皆ここにいる」と言っているように、他の囚人たちも逃げなかったのでした。パウロとシラスの賛美を聞き入っていたとありますが、神への賛美は囚人たちの心にもキリストの証となっていたのでした。そして28〜29節にあるように、この看守たちは、地震よりもローマ皇帝よりも、まさにこの神にあって揺るがない強い心に恐れおののき、ひれ伏すのです。そして彼らのその本当の救いを求めます。
「先生がた。救われるためには何をしなければ行けませんか。」
 その確かさ、強さには、まさに神がいることを看守は見たのでした。救われるためになにをすればいいか。パウロとシラスははっきりと伝えます。
「主イエスを信じなさい。」
 「信じなさい。」でした。「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。このように神、イエスは、聖書は、全ての人を招いています。「イエスを信じなさい。」「神を信じなさい」「そうすれば救われます。」「あなたの家族も救われます。」と。皆さん、救われるために、他に何も必要ありません。何かいくつもの条件や試験にパスしなければいけないとか、修行をしなければ行けないでもない。毎日、何かを唱えて、何かをして、家や先祖の呪いを解かなければ行けないでもなければ、あるいは何か良い業をいっぱいしなければ行けないではないのです。あるいは、愛すれば、愛をあらわされば、愛の業を行えば、罪が消え、天国に行ける。それも違います。聖書が教えるのは、「信じなさい。そうすれば救われます」それだけなのです。イエス・キリストを信じる事こそ救われるための道に他なりません。「わたしが道であり真理でありいのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人父のもとに来る事はありません」(ヨハネ14章6節)とイエスはいいました。イエスを信じるだけ、通るだけで、といっているでしょう。使徒たちはいいます。「この方意外には、誰によっても、救いはありません。天の下でこの御名のほかに。私達が救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4章12節)このイエス以外にです。このように使徒たちは伝えています。イエス・キリストを信じなさい。そして、救いに与りましょうと。

5.「イエスを信じて救いに生きよう」
 これが聖書の伝えるイエスが与える救いなのです。このようにイエスの「救い」というのは、私達の望む成功とか繁栄が来るということよりは、むしろ、その道の確かさであることがここで教えられます。パウロとシラスの困難は実はイエスがそうなると言っていた事です。イエスは救いの道は、世にあっては艱難があると言っていました。しかし、艱難にあっても確かな救い、確かな強さ、確かな道、確かな喜びと平安こそイエスが与えてくれた救いです。このところでもパウロとシラスの道に一切無駄がありません。苦しみと困難、災いさえも主はすべて導き、それさえ用いて、全てを益として、この看守たちとその家族が、まさにイエス・キリストの名を信じて、バプテスマを受けて救われました。神のなすこと、それが苦しみや試練であっても、何一つ無駄ではありません。パウロとシラスはそのためにこそ導かれたといえるでしょう。だからパウロはいうのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全ての事を働かせて益としてくださることを、私達は知っています。」ローマ8章28節
 イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。そうすればあなたに確かな拠り所がきます。そうすればあなたは世にあっては艱難があっても、あなたはキリストにあって強さ、喜びと賛美、平安がきます。ぜひイエス・キリストを信じて、救いを受けましょう。