2015年5月24日


「助け主がともにいる救いの道」ペンテコステ記念礼拝
ヨハネの福音書 14章16〜27節

1.「はじめに」
 クリスチャンの新しい人生、あるいはその天にいたるまでのその生涯を完成させるその恵みは、「聖霊による」「聖霊がともにいてくださる」「聖霊が助けてくださる」ということに尽きます。先に天に召された一人一人は、「生ける助け主、聖霊が確かにおられた」という証しです。私たちもこの聖霊が与えられているからこそ新しいいのちがあり、日々導かれ、恵みのうちに完成に向かっている。聖霊にはその幸いがあるでしょう。
 そして今日はペンテコステです。イエスは十字架にかかる前に、繰り返し繰り返し、この聖霊という素晴らしい賜物があなたがたに与えられるのだと伝えました。この箇所もその一つです。そして復活の後にも、約束の聖霊が与えられるのだから、エルサレムで待ちなさいと約束して天に昇られ、その約束の通り、使徒の働き2章にあるように、聖霊が信じる一人一人に与えられた。しかしそれだけがペンテコステではない。その約束の通りに信じ洗礼を受けた私たちに一人一人にも、イエスは聖霊を与えてくださっている。その聖霊が私たちと共にあり、私たちに生きて働いている。これがペンテコステの幸い、聖霊の幸いに他なりません。このところは、その幸いを私たちに教えてくれています。

2.「助け主が必要な救い」
 十字架にかかる直前のイエスです。最後の晩餐の席でイエスは今まさにご自身が捕らえられ死が迫っていることを知っているのにもかかわらず、愛する弟子たち、そしてすべての人々には「救いの時」が近づいていることを伝え喜びます。その中で、この「真理の御霊」、「聖霊」が与えられるのだと強調し繰り返すのです。イエスはこの聖霊が与えられることを本当に喜びをもって語っています。それはなぜでしょう。まずイエスが約束する聖霊の幸い。第一にそれは「助け主」であるということです。16節
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとと、ともにおられるためにです。」
 イエスは「助け主」として聖霊を与えると約束しました。それは私たちの救い、新しいいのちの歩みにはこの「助け主」が必要であるということをイエスは知っていて伝え、約束しているということです。イエスは弟子たちが完全だから彼らを選んだのではありません。不完全で欠点や罪の多い、弟子たちであることを、知って、召し出し、ともに歩んできました。完成された人々を選び出してともに生きたのではありません。すべて彼らの弱さを知った上でイエスは召し出したのです。それはその歩みにおいてさえも、弟子たちはイエスの教えを理解できず、誤解したり、高ぶったり、そして自分たちの自信にあふれた自惚れをもみんな見て知っていました。何より彼らの罪深さをもです。けれどもイエスはその時も、そして、その後も、弟子たち、そして信じる私たち一人一人が、「自分たちで」完全になれるとか、何かを完成できるとかは微塵も思っていません。むしろイエスはどこまでも、弟子たちも私たち一人一人はなおも弱く罪深い不完全な一人一人であることを知っています。今もです。そしてそのような私たちに何が必要か。それは、イエスがあたえる救い、新しいいのちの道においては、私たちには強力な助けが必要であると。イエスはわかっているのです。
 イエスのこの約束と計画は幸いです。この御心にしたがって、聖霊は約束され、私たちに与えられています。私たちのこの救いも新しいいのちも、信じる信仰さえも、私たちは自ら得たのでも、誰から与えられたのでもありません。イエスが、その十字架の血をもって成し遂げ、みことばと洗礼を通して、イエスが与えてくださった恵みです。ですから、私たちがいただいたはずの、ただただ恵みのその救いの歩みが、もし助け主も何もなしで私たちが自らの力で完成させていくものであるのなら、むしろその救いとはなんなのでしょう。恵みとはなんなのでしょう。新しいいのちとはなんなのでしょう。そこに喜びと平安があるでしょうか。重荷しかないないのではないでしょうか?いや、自分たちが達成できないものであるなら、救いの結果は絶望でしかありません。矛盾します。
 しかしイエスは全く矛盾したことを言っていません。救いは恵みであると。このときイエスは、今このところで、全ての人の代わりに十字架にかかって死のうとし、さらに神が恵みとして復活を約束してくださる。その十字架と復活で、成し遂げるイエス様の救いは、まさに「与える」ものであり、イエスは、罪の赦しも新しいいのちも恵みとして「与えられる」ものだとも約束している。そうであるなら、その新しいいのちの道の完成させるもの、完成者の約束と計画をもイエスは決して忘れない、見逃さないでしょう。もし、新しいいのちの道が恵みでないなら、神によって完成されていくものでないなら、すべては矛盾して辻褄が合わなくなります。何より私たちに平安も喜びもない、ただ重荷と、自分や人の技に救いがかかっているのですから、確信がありません。もう不安ばかりです。しかしイエスはそうしなかった。矛盾した恵み、不完全な恵みを教えていないし与えていません。イエスは私たちに重荷、不安を与えるためにこられたとは言っていません。「平安を与えるため」「喜びを与えるため」にこられました。まさに新しいいのちの道を助け完成させる約束を、イエスはこの聖霊にきちんと込めているのです。「助け主」をあなたがたに与えると。

3.「神がともにおられる救い」
 その「助け主」の幸いは、こう続いています。
「いつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。」
 と。こんな救いのメッセージが世の中の宗教にあるでしょうか。「救いを得るため、実現するには、多くのことをしなければいけない。多くを捧げなければいけない。これこれを自分で達成しなければいけない」というのが、世の宗教、世の救いです。キリスト教のカルトもそうでしょう。けれども聖書、イエスが約束する救い、救いの生き方、道は、助け主が与えられ、その助け主が、神が「いつまでもあなたがたと、わたしたちとともにいる。」そう約束する救いなのです。このように、イエスが与える罪の赦しと新しいいのちの道は、「いつまでもともにいる」ですから、まさに今も、現在進行形で、私たちが天に帰る時までも変わることなく続いていく恵みの道であることを聖書は約束しています。「あなたがたといつまでもともにいる」と。こんな幸いな信仰な道があるでしょうか。こんな重荷のない救いがほかにあるでしょうか。皆さん、これが聖霊を与えられているということの素晴らしさです。新しいいのちの素晴らしさです。イエスがともにいる。聖霊がいつまでもともにいてくださり、助けてくださる。そのことなのです。
 イエスの誕生は、イザヤの預言の成就だとマタイは記しています。マタイ1章でイザヤを引用し伝えます。この救い主として来られた幼子は、インマヌエルと呼ばれると。その言葉はつまり「神は私たちとともにおられるという意味である」と。マタイはそう伝えています。イエスがこられたこと、イエスが与える救い。それはこの「神がともにいてくださるということ」の実現、成就なんだと。そしてマタイは福音書の終わりもイエスが「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」ということばで結ばれているでしょう。
 助け主、聖霊は、そのことが私たちに成就していることをの証です。私たちが洗礼を受けた時、イエスは確実にこの聖霊を私たちに与えてくださっています。皆さん、私たちは信仰のゆえに恵みである洗礼によって確実に救われています。そしてイエスはこの聖霊により今も、いつまでも、世の終わりまで私達とともにいてくださっています。そして全てのことを助けてくださるのです。重荷、不安を取りさり、平安と喜びを与えるためです。

4.「世が与えることのできない、神が与える平安」
 イエスは26節で、助け主についてこう繰り返しています。
「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 わたしは、あなたたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
 イエスは約束しているでしょう。「平安を与える」と。「心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と。イエスは重荷、不安を与えるためではない、重荷と不安、恐れを取り去り、平安を与えると。そう言っていることが読んでわかると思います。これが聖霊の幸いです。世が与えることができる安心ではない。「わたしが与える」とあります。イエスが与える聖霊が、わたしたちとともにいて豊かに与えてくださる特別な安心、平安であることがわかります。聖霊はそのために私たちとともにいるのです。幸いではありませんか。世にも確かに平安や安心を与えるものはあります。それは違法ドラッグから浪費にいたるまで有害なものもたくさんありますが、良い話や良い本や映画など、あるいは良い行いなど、有益なものもたくさんあります。しかし聖書から言うなら、いずれも不完全な、いずれは必ず朽ちゆくものです。そしてそれは不完全であるがゆえに、あるいは朽ちていくものであるがゆえに、やはり結局は心を騒ぐということや、恐れという結果に終わってしまうものです。世が与える安心には、それが良いものであったとしても、限界、限りが必ずあるのです。しかし、イエスは「わたしが与えるわたしの平安」と言いました。そしてそれは「世が与えるのは違う」ともはっきりといっています。そして「心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません」と。イエスには朽ちない、完全な平安が、あるいは心騒ぐ結果に決してならない、特別な平安があることを意味しているでしょう。イエスはそれを与えるといっているのです。本当に私たちの重荷と恐れを取り去ってくださる約束がされています。イエスにあるなら、人生で重荷はあってもそれは重荷に終わらないはずなのです。なぜなら、イエスはそれを取り去るために私たちとともにおられ、私たちに真実を行ってくださるのですから。ですから不安や恐れ、心騒ぐのは、イエスの問題やイエスが偽っているのではなく、私たちの信仰や拠り所の問題だということもわかります。
 皆さん、イエスにあるなら、イエスは豊かに与えてくださいます。今もそうです。聖霊を通して、豊かな助けを、平安と、喜びをです。

5.「聖霊はみことばを通してすべてを行う」
 最後、この聖霊を通しての恵みは、何よりもみことばを通してであることをイエスは伝えているでしょう。26節
「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
 助け主なる聖霊こそ、すべてを教える。イエスが話したすべてのことを思い起こさせるとイエスは、聖霊の大事な働き、聖霊がどのように助けるか、与えるか、私たちとともにいて働くかをしっかりと伝えているでしょう。それはみことばを通して教え、聖書を思い起こさせ、働くのだと言っています。そして27節の平安の約束へと続いています。イエスが与える平安は、聖霊が「みことばを通して」働いて与えるものであるとイエスは言っています。「みことば」というのは聖霊の武器であり剣です。みことばは生ける助け主が、まさにいきいきと私たちに語りかけ、働いている証です。このように、みことばのあるところにこそ、主はおられるし、主はみことばを持ってこそ、近くあられ、私たちとともにおられるのです。だからこそ、みことばを聞き、みことばの説き明かしを聞き、みことばの宣言をうけるのです。父、子、聖霊なる神は、創造の時からまったく変わることなく、あるいは、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデの時からまったく変わることなく、みことばをもって私たちに語りかけ、働き、聖霊と信仰において、そのみことばこそを私たちに実現するからです。そして、聖霊はこのみことばを持って、私たちのあたらしいいのちの道を完成させるのです。先に主のみもとに帰ったすべての信仰者たちも、私たちの教会の兄弟姉妹も、そのようにして聖霊とみことばによって、新しいいのちの道を完成させられ、イエスのいのちのゆえに、今も、天に生きていることを、証しているのです。私たちのいのちの道も同じです。聖霊なる助け主はそのために与えられています。私たちも、みことばに聞き、そこに生きて働く、父と子と聖霊なる主を拠り所とし、信じ、主の助けをいっぱいに受けて、この新しいいいのちの道を完成させられていきたいのです。恵みを感謝しましょう。