2015年5月31日


「神の国はすでにきている」
ルカによる福音書 11章14〜20節

1.「限界のないイエスの自由な恵み」
「イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった者がものを言い始めたので、群衆は驚いた。」14節
 イエスは約束の通り良いものを与えます。悪霊に憑かれ口がきけなくなった人から悪霊を追い出してあげて、話せるようにしてあげたのでした。しかしこのところは、幸いです。なぜなら、イエスは、この前のところで約束した「以上のこと」をしてくださっています。イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます」と教えました。求めることの幸いを教えました。しかしその直後のこの人は、悪霊に取り憑かれています。そして口をきけなかったということが一つの注目点です。彼は祈ることもできない。求めることもできない。そして悪霊に支配されているのですから、心さえも自由でなかったとも言えるでしょう。けれどもイエスが「求めなさい」で教えていることは、決して「そうしなければ、そうしない」というような、絶対条件を伝えているのではないということです。そのようにイエスはご自分の恵みに枠をはめたり制限したりはしません。イエスが語られた、父なる神は「求める先から必要なものが何かを知っていてくださる」という有名なことばもあります。それはまさにここにある人のように、たとえ私たちが求めることができない状態、祈ることができないような状態であったとしてもです。そのようなことはよくあるのではないでしょうか?祈れない時などもあるのです。求めることができないこともあるのです。この人は、心を悪霊に支配されて、口もきけません。それはまさにそのような事が多々ある人間の現実にも当てはめる事ができるのです。しかし、そうであっても、たとえ、求める事ができない、祈る事ができなくても、しかしイエスは必要なものを知っていてくださる。そして求めていなくても、祈れなくても、その人に良いものを、必要なものを、イエスはイエスの自由、神の自由でそれを与えてくださるのだということがここからわかるのではないでしょうか?

2.「それは十字架と復活にこそ現されている」
 「求めなさい、探しなさい、たたきなさい。そうすれば見つかります。開かれます。与えらえます。」は、決して、イエスの与えること、イエスの救い、イエスの恵みに枠をはめているのではありません。制限を設けたのではありません。恵みに条件をつけたのではありません。確かに求めれば与えてくださいます。開いてくださいます。その約束の通りです。しかし、イエスの恵みは、それ以上であるということです。それは限りなく大きく計り知れない。私たちの思いや期待や計画、予想をはるかに超えたことを、全て知っていて、全てが益となるようにしてくださる。与えてくださる。それが父なる神、イエス、聖霊であることがここで伝えられているでしょう。私たちが求める先から、祈る先から、本当の必要を知っていてくださる神、イエス。そしてそれを豊かに与えてくださるイエス。たとえ、祈れなくても、求めていなくてもです。まさに、救いの真理である、十字架の救いも復活は、そのようなものでしょう。誰がそれを予想することができたでしょう。だれがその十字架と復活という方法で、完全な罪の赦しと永遠の命をあたえると思ったでしょう。イザヤの預言は、だれも思わなかったことを伝えています。そして、事実、イエスだけがすべてを知って、この十字架を背負い、よみがえられるでしょう。弟子たちでさえも理解できなかった。思いもしなかった。復活の空っぽの墓を見ても悟らなかった。弟子たちが見たと言っても、トマスは悟らなかった。しかし、だれがそのことをわからなくても、求めなくても、祈らなくても、神はイエスを世に与え、このイエスの十字架と復活を成し遂げ、私たちに本当に必要な救いを、聖霊を与えてくださったでしょう。まさに神から一方的な恵み。私たちには何の関与も協力もできない。一切の人間的な枠も制限もない。まったき恵み、神の自由なわざである100パーセントの恵みであったではありませんか。そのことが今日のこのところにも見ることができるのです。求めるより先にイエス様はこの人の必要を知り与えてくださったのです。素晴らしい出来事です。

3.「信じられない人々」
 しかしです。人々はそれを受け入れられません。驚きはしました。しかし信じられません。ある人々は言いました。
「しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだと言う者もいた。」15節
 悪霊のかしらだから、悪霊を追い出しているのだと。17節では、悪霊どうしの内輪揉めだとも彼らが意味していたこともわかります。この周りの人々の中に、13節の聖霊の約束を聞いていた人がどれだけいるかわかりませんが、聖霊は信じられないのに、悪霊の頭ベルゼブルは信じるのです。不思議です。オカルトや霊による災いや不幸などを人は信じやすいという面と似ているかもしれません。またある人はこうです。
「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」16節
 彼らは試す人、しるし、証拠を求める人です。自分の目と経験が信頼の拠り所である人々です。これはすべての人にあることかもしれません。何よりも自分の目と経験こそすべてであると。しかし彼らに共通するのは、目の前で行われた神の約束の成就を、彼らの経験によっても悟れない、信じられないということですね。神様の素晴らしい聖霊のみわざ、圧倒的な恵み、そしてその救済のわざ、救われた人を、彼らは自分たちの経験にも入れることができない。受け入れることができないということです。彼らは、まさに目の前に見ていながら見ていない。その耳で聞いていながら聞いていない。その現実がよく表れています。ここでも、生まれながらの罪深い人間は、そのような神のなさること、神やみことばに、人は盲目であるということ、自ら悟るに非常に遅い。いや、ペンテコステの説教で人は聖霊によってみことばが教えられ、悟らされるとあったように、私たち自らでは、その罪の性質のゆえに、むしろ神の業や神の言葉を疑い、否定するものであるということが示されているのです。

4.「サタンの誘惑の力」
 それに対して、イエスは、その彼らの心をすべて見抜くのです。そしていいます。17〜19節ですが、あなたがたのいう通りの内輪揉めであるなら、その国は廃れる、つぶれると。この箇所は非常に意味深いことを言っています。第一に、サタンの国は、今も、立ち入っているという現実です。そのような救い主を拒む、この世の、人々の現実にこそ、サタンの支配にあるこの地上、この世を、イエスは示唆しています。「つぶれてしまいます」「どうしてサタンの国が立ちいくことができましょう」と言っているでしょう。つまり潰れていないし、サタンの国は立っていると言っているのです。もし仲間割れが本当に行われているなら、「潰れてしまっている。サタンの国は立ち入かっていない」のです。ですから、むしろこの世はサタンの支配にあるのです。サタンは争いどころかむしろ一枚岩で、人の罪に影響を与え、何よりその彼らの一番の狙い所です。私たちのそこが狙われれば滅んでしまうというそのところを引き出して誘惑しています。それは周りの人々の現実、神の子イエスを信じないということでしょう。ですから、内輪揉めどころか、サタンは一枚岩で非常に強力に働いています。そして救われるために最も必要な「信じる」ということこそを攻撃していることがわかるのです。罪の最たるところにこそ、サタンはいつでも働いている。イエスを信じないように。本当にイエスだけがすべてを見抜いていて、彼らは盲目であることがよくわかるところです。そして実に皮肉に満ちているところでもあります。彼らはまさにその一枚岩の強力なサタンの知恵によって、罪によって、イエスを追い出そうとする。それも悪霊を追い出すイエスと実に対照的に描かれていることがわかります。
 罪に働いて、私たちを誘惑し、そして信じさせないようにする力は、あります。この世にはあふれています。キリストは勝利をしました。しかしこの世にあっては、サタンの激しい攻撃と誘惑は絶えず私たちを襲ってきて、そして何より、私たちがイエスを信じないように、イエスの言葉に聞かないように、「イエスの言葉は重要ではない、拠り所ではない」と導く力です。私たちは本当にそれに対して無力で、負けてしまうものです。その罪の現実を私たちは決して無視できません。私たちは戦うものです。しかし私たち自身は無力です。敗北します。

5.「神の権威あるみことばによって」
 けれども、イエスはこう言っているでしょう。
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」20節
 イエスが悪霊を追い出している。神の指によって。「神の御手のわざ」という言葉はよく聞きます。旧約聖書では、詩篇やイザヤ書などではよく使われています。それは何を指しているか。それは神の力ある権威あることばを指しています。それはルカの福音書でずっと一貫していることばでした。「権威あることば」。イエスはその権威あることばで、悪霊を追い出してきました。悪霊達は、そのイエスのことば、権威あることばに恐れ、追い出さられます。弟子たちが遣わされる時も、権威あることばを与えて遣わしたでしょう。そして、そのイエスの権威あることば、イエスの御名を使うと悪霊までも従うと、弟子たちはイエスを褒めたたるでしょう。「神の指によって」、それは何よりイエスにある神の権威あることばに他なりません。それによって悪霊が追い出されるなら、神の国はすでにあなたがたのところに来ているのです。イエスはそういいます。それはご自身とご自身のみことばを指しているのです。イエスが来たならば、イエスのみことばが語られ、そのみことばが権威を持って実現しているなら、もうそこに神の国は来ている。神の国は遠いところにある手の届かないものではない。あるいは今はないけれども未来に来るものでもない。すでに来ている。イエス様は言っています。

6.「神の国はすでに来ている」
 みなさん、神の国は、将来の約束だとおもっていないでしょうか?あるいは神の国は死後の天国だと思っていないでしょうか?聖書はそうではないと言っています。それはすでに来ていると。イエスご自身に神の国がある。イエスが来られて神の国は実現した。そのイエスのみことばが語られるところに、神の国はもう来ている。ましてそのみことばの通りに、みことばによって、洗礼が授けられ救われた私たち、みことばを通して語りかけと罪と平安の宣言を受け、聖餐を受けている私たちには、まさにみことばが実現している。罪の赦しと新しい命が私たちにはもう実現している。そうであるなら、神の国は、もう私たちのところに来ているのです。みなさん。素晴らしい事実をイエスは伝えているでしょう。もちろん世にあってサタンの支配下に苦しみます。しかし世にあっては同時に、完全な神の国の恵みに与ることができる。いやその神の恵み、みことば、イエスの新しい命に与るからこそ、神の恵みにあって生かされるからこそ、私たちは世のサタンの支配下にあっても、絶えず勝利ができる。そのことを私たちに悟らせるのではないでしょうか。
 みことば、聖霊とともに、私たちは神の国に預かっています。それはイエスがここにいる。イエス間のことばがここに、私たちにあるということです。私たちは今、神の国にあり、イエスと共にある信仰を悉皆ともって、イエスのいのちのゆえに新しく生きていこうではありませんか。