2015年5月10日


「イエスが教える祈りの幸い」
ルカの福音書 11章1〜13節

1.「はじめに」
 イエスが「主の祈り」を教えられるところです。マタイの福音書でも主の祈りを教えられていますがルカと違いがあります。マタイの福音書では山上の説教の場面で、言葉がすこし長めです。イエスは一回だけでなく様々なところで、この主の祈りを教えていたとも言われています。何より大事なのは、この祈りを教えた目的、このように祈ることに何をイエスは私たちに語りかけているかということです。それは「神に求めよ」ということです。

2.「祈るとき、こう祈りなさい」(2〜4節)
 イエスは祈っていました。祈りから帰ってきたときに、弟子の一人がイエスにいます。「主よ。祈りを教えてください。」と。しかしそれは「ヨハネが弟子たちに教えたように」ともあります。それはバプテスマのヨハネのことを指しています。彼にもたくさんの弟子がいました。当時、定ったことばの祈りが一般的でした。本などはなかったですから、定まった祈りを暗記していたのでした。ユダヤ教には祈祷書というのがあります。キリスト教にも祈祷書はあります。初代教会から、教父達の時代も、ルターの時代にいたるまでもありましたし、ルター自身も祈祷書を書いていますし、今でも聖公会やルーテル教会には祈祷書というのは使われています。そのような本の形ではなかったのですが、ヨハネも定まったことばの祈りを教えていたようです。同じようにイエスの弟子達も祈りを覚えたかたったのでした。イエスはそれを拒まず喜んで弟子達に祈りを教えるのです。
「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」2〜4節
 「罪」とあったり「負い目」とあったりしますが、ルカでは両方のことばが使われています。それは同じ意味合いがあります。なにより私たちは神に対して重い負い目を負っているという意味合いが、「罪」にも「負い目」にもあります。
 イエスはこの主の祈りを、あらゆる場面で、様々な人に教えました。こう祈りなさいと。マタイの福音書の「山上の説教」のことろでは、見れられたくて祈るような律法学者やパリサイ人達のようではなく、あるいは同じことばを繰り返すような祈りでもなく、「あなたがたがお願いする先に、あなたたがたに必要なものを知っておられる」神に、こう祈りなさいと言って、この主の祈りを教えています。必要なものをすでに知っておられる神に、祈りなさい。願いなさい。求めなさい。イエスはいつでも人々にそのようにこの祈りを勧めていたのでした。そしてこの主の祈りは、すべて「〜なるように。与えてください。してください。」と「願い求める」ことばで教えられます。イエスがこのように教えるように、主に「願い求める」ということは、むしろ主が求めておられるのだとわかるのです。まさにその主の祈りを教えることに込められているイエスの思いと、祈り求めることの素晴らしさ、大切さをさらに説明するために、イエスは弟子達にこのようなたとえ話を始めるのです。5〜7節

3.「あくまで頼み続けるなら」(5〜8節)
 この話は、人間同士の営みとして語っていることは重要な点です。3人の友人同士のやりとりです。しかも真夜中です。旅の途中にやってきた友人も突然だったようです。家には何も食べるものがありません。パンは、材料を買ってきて作って食べます。しかし夜中、その材料自体がなく、買いに行くこともできません。そこで別の友人に真夜中にお願いにくのです。パンを三つ貸してくれないかと。それに対して頼まれた方も「面倒かけないでくれ。もう子供達も寝ている」といいます。人々はそれぞれに個室や寝室があるのではなく、皆一緒に寝ていて、そこでパンを準備し作り始めると、家族じゅうが起こされることになります。まさに面倒なことです。ですから断るのです。しかしイエスはいいます。
「あなたがたに言いますが、彼は友達だからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう。」8節 
 「あくまでも頼み続けるなら」とありますが「なおもずうずうしく頼み続けるなら」という意味合いでもあります。そこまでも頼み続けるなら、とりあえず何かを与えて行かせるのではないか。とイエスは言うのです。イエスは人間同士、友人同士のやりとりとして話していますが、あくまでも頼み続けるなら、それが不本意でも不機嫌でも迷惑でも、してあげることがあるのではないか。そのようにいうのです。

4.「求めなさい」(9〜13節)
 この例をもとにイエスはこういいます
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子供が魚をくださいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいというのに、誰が、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」9〜13節
 人間同士であっても、あくまでも頼み続けるなら、それがずうずうしくてもしてあげることは沢山ある。悪いものであっても子供にはよくする。そうであるなら神は尚更ではないか。イエスがいいたいことの一つです。神は人以上です。その愛も憐れみも深く計り知れません。一人子を私たちの罪のために十字架にかけるほどの愛でしょう。このところは、神は決して人間とイコール。人間がこうだから神もこうだというメッセージではありません。人間でさえもそうなのだから、神はそれ以上ではないか。というのがイエスが主の祈りの説明にこの例えを用い、そして「求めなさい」と続く、大切な点に他なりません。人間であってもそうなのだから、世を愛し、私たちのような罪人を子供と呼んでくださる神は、その子供に良いものを与えないはずがあろうか。子供が魚をくださいと言っているのに、蛇を与えるような父があろうか。その父は、天の父を指しています。神はあなたがたのそんな神、お父さんであろうか。子供が卵をくださいといっているのに、さそりを与える神だろうか。イエスは問いかけています。蛇は、狡猾で、まさに罪の誘惑の象徴です。毒をもっています。サソリも毒で人を殺すことができます。まさに悪いもの、誘惑、死、滅びを象徴するのが蛇でありサソリです。しかし、子が求めているのに、そのような良くないものを、悪いものを、父なる神は与えるのだろうか。人間の父でさえもそんなことはしない。まして天の父なる神は、そんなはずは全くないということをイエスは伝えています。求める先から、必要なものを知っていてくださる神です。魚が欲しいと言っている子に、卵が欲しいと言っている子に、そのものを、良いものを与えてくださるのが父なる神である。イエスは言っています。そのような人間の愛にはるかに勝って与えてくださる父なる神に祈るのが、この主の祈りであるとイエスは教えています。そしてそれは祈るための祈り、定式化した文面を繰り返したり人に見せたりする祈りではなく、子がお父さんに求める祈りであることを、イエスは教えているのではないでしょうか。ですから、いいます。「求めなさい。」「探しなさい。」「叩きなさい。」と。そうすれば「誰であっても」、「与えられます。開かれます。見つかります。」と。

5.「そうすれば、与えられる」
 そして言葉に鍵があります。求めなさい。叩きなさい。探しなさい。そうすれば「得ます」「開きます」「見つけます」とはありません。つまり、求め、探し、叩くとき、私たち自身が得、見出し、開くのではないということがわかるのです。世の精神論や自己啓発論や、根性論は、むしろ夢や目標を追い求めるとき、自分自身が開くことができるという教えです。しかし聖書はそのようなことを言っているのではありません。求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、「与えられます」「受ける」「開かれます」です。与える方がいること、開いてくださる方がいることを示唆しているでしょう。ゆえに「見つけます」も、それが答えを与える方がいて、その与えられた答えをみつけるという意味であることがわかるのです。ではそれは誰でしょう。それは神のことを言っているでしょう。だから、11〜12節の言葉があるのです。父が与えるのだと。主の祈りにある幸いは、その父に求めることができる幸いです。そして求めるときに、父なる主が必ず与えてくださり、開いてくださる。必要なものを与えてくださる。その約束と成就がこの祈りにはあるのであり、そのように主にどこまでも求めなさい。それが主の祈りの意味です。ですから、これは本当に私たちに必要なことを示唆する祈りとしても教えられていますね。御名があがめられること、御国が来ることこそ、私たちの救いであり平安となります。日ごとの糧も必要な大事なもの、それも神は与えてくださる。そして「罪の赦し」、これは救いの核心です。罪赦されなければ天国に行けません。しかし神はそれを与えてくださる。私たちも互いに赦し合うことができる幸いもある。それも与えてくださる。さらには、神は試みから、試練から助け出してくださる。これらは、本当に私たちの人生、新しいいのちの歩みにおいても大事な大事な必要なことです。それを神は知っておられ、与えてくださる。その神に、父に求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、神は答えてくださる。与えてくださる。開いてくださる、と約束してくださっているのです。とても素晴らしい勧めではありませんか。祈ること、求めること、そして神が備えてくださる良いものを受けること、これは私たちの新しい歩みの素晴らしいさに他なりません。

6.「「必要なもの」を」
 そして、13節では、そうであるならと、私たちにとっての最高の宝物を備えてくださり与えてくださることも示しています。求める子供に良いもを与える神は、最高に良いものを用意してくださり与えてくださるというのです。それは聖霊であると。聖霊は何よりも素晴らしい神からの賜物です。「助け主」ともあります。全てを実現する神なのです。世には数々物質的な素晴らしい恵みがあり、私たちは恵みを受けています。多くを受けています。しかしやがて必ず朽ちていくそれらにはるかに勝り最高のものが私たちに与えられていることをイエスは私たちに伝えています。それは聖霊であると。皆さん、聖霊が与えられているということは、一番です。最高です。なぜなら、救いを完成し、みことばを教え、罪を気づかせ、悔い改めに導き、福音の素晴らしさ、救いの素晴らしさ、罪赦されていることの素晴らしさ、十字架と復活が私たちのものとされているその奇跡を確信させるからです。そのように、私たちを聖め、平安の義の実に与らせる。それは救われた私たちにとって何より幸いであり喜びでしょう。その聖霊が与えられているのです。

7.「おわりに:新しいいのちを平安のうちに」
 私たちは、この新しい週も、主イエスの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちの宣言を受け、平安のうちに使わされていきます。それは、主イエスにあっての新しいいのちの歩みです。その新しいいのちの日々を聖霊が助けてくださいます。聖霊は祈りを促し、私たちの必要を知り、与えようとしておられます。ぜひ主の祈りの幸い、求めることができる幸いを覚えながら、主イエスと、主の祈りをもっていつでも交わり、イエスの名によって祈り求めるつつ、希望のうちに歩んでいきましょう。