2015年5月3日


「どうしても必要な一つのこと」
ルカの福音書 10章38〜42節

1.「はじめに」
 マルタとマリヤの姉妹のお話。この出来事をルカは、良きサマリヤ人の例えの後に書いています。不思議に思わされるのは、良きサマリヤ人の例えは、究極の隣人愛が語られ、「それをするように」ということでしたが、しかしこのマルタとマリヤの出来事で、忙しく労するマルタに対して、イエスが語っていることはそれとは正反対のように見えることです。けれどもこれは決して矛盾するイエスを記しているのではありません。良きサマリヤ人のお話でイエスは、エルサレムの十字架に向かってまっすぐと歩んでいるイエスご自身こそが、皆のための真の隣人、この良きサマリヤ人はイエスご自身であり、このサマリヤ人の通りのことを、まさにすべての人のためにされるということを伝えていました。そして、そのイエスへの信仰こそ、あるいは「イエスにあって」ということこそ、新しいいのちのあゆみであり、その「イエスにあって」ということは、良い行いをすることも、隣人を愛することにおいても、何より大事なことなんだ、ということでした。その文脈で見ていくならば、このマルタに話していることも、むしろ同じ福音のメッセージであることがわかるのです。

2.「マルタとマリヤ」
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。」38節
 彼らとあるのは、イエスと12人の弟子たちを含む一行です。それはそのほかにもたくさんの人がお供していたともいわれています。そして彼らは、多くを持っての旅ではありませんので、訪問する街や村で、迎え入れてくれる人々の家で食事をしたりするということはよくあったのでした。この村では、マルタという一人の女性が喜んで家に迎え入れてくれたのでした。「喜んで」とあるように、マルタはイエスが家に来てくれるということで嬉しかったでしょう。大勢の人々の食事の準備のためにもう大忙しです。台所と食事の部屋を忙しく走り回っています。
 けれども、マルタにはマリヤという妹がいました。そんな中、39節
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとに座って、みことばに聞き入っていた。」
 妹のマリヤはイエスの伝えるみことばに聞き入っていました。「主の足もと」というのは、これは生徒が、教える人の足もとで聞き学ぶ、当時の姿を現しているとも言われていますし、足もとは、ことばがまさに口から流れ出てくる、近く、そしてもっとも聞こえるところです。そこに座って、みことばに聞き入っていたのでした。
 そんな時です。40節ですが、
「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃてください。」40節
 マルタの気持ちはよくわかります。このようなケースはどの家庭でもよくあることではないでしょうか。親にお手伝いを頼まれた時の兄弟同志のやり取りでもよく聞くことばです。「自分ばっかりやっているのに」「誰々にもきちんとやるように言ってよ。」などなど。私の子供の時のことも思い出します。
 そして、やはりマルタもイエスのみことばを聞きたかったのではないかとも思います。しかし食事の準備をしなければいけない。そのことがまず先で、頭がいっぱいだったでしょうし、妹が手伝ってくれれば早く終わって自分も聞くことができるかもしれないとも、ひょっとしたら思ったかもしれません。詳しくは書いていませんが。マルタのいろいろな思いを想像することができます。

3.「マルタの心配とイエスの優しさ」
 しかしマルタは、それをマリヤではなく、イエスに言ってしまっています。結果として「あなたは何ともお思いにならないのでしょうか。」と、マリヤだけでなく、イエスも責める形となってしまいました。喜んで迎えたはずでしたが、この時には、もう喜びではなく、イライラ、そして誰かを責める気持ちでいっぱいとなってしまっています。しかしそんなマルタに対してイエスはどうでしょう?
「主は答えて言われた。「マルタ。マルタ。あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」」41節
 このあとの42節はとても幸いなのですが、この41節も幸いなことばです。
 まず「マルタ。マルタ」という語りかけです。これは愛情のこもった、優しく諭す、呼びかけです。マルタはイエスを責めました。しかしイエスはそれに優しく応えます。主なる神はそのようなお方なのです。聖書では、よく、感情をぶつけるように神に叫んでいる人々のことばがあります。しかしそれが不平や責めであっても神は受け止められます。燃える芝の山で召された時のモーセもそうでしたし、試練の中のダビデもそうでした。ニネベに行く前とニネベに行ったあとのヨナもそうです。預言者たちも神のみことばを拒む民のことを、神に嘆きのように叫んでいるところは幾つもあります。そのときも神は、それが嘆きや神を責めるようなことばであっても、きちんと受け止めておられます。そしてそれにみことばを持って、やはり教え、再び、導いています。新たな道へです。このように、私たちがどのような態度か、以上に、神は私たちが神に語りかけることを、思いをぶつけること、どのような形であっても、求めることを、とても大事にしておられるということがわかります。そして、そのようにしても、そのようなときにも、イエスはことばをもって教え、導いてくださる方なのです。
「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおらえ、霊の砕かれた者を救われる。」詩篇34篇17〜18節
 神は「完全な完成した私たち」の神ではありません。「不完全で罪深い私たち」の神、救い主となってくださっています。だからこそ、私たちはいつでも神の「子」と呼ばれるでしょう。良い子の父でもありません。神は不完全な罪深い子供の父です。神はそのことをよく知っています。そして、そのような子供と交わり、ともに歩みみことばをもって助けることを喜びとしています。ですから、子供が父に、「なぜ」、「どうして」、と叫んだり嘆いたりするように、どんな時でも、それが神に「なぜ」「どうして」「神様どんなんですか」という嘆きであっても、神はそのように私たちが祈りを持って語りかけ、求めることを何より望んでおられます。そしてその時に、神はみことばをもって語り、教え、導いてくださるのです。

4.「イエスは仕えられるためではなく」
 イエスはマルタに言っています。 「あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」と。もちろん、マルタのもてなしも大事なことです。そしてイエスもそれを嬉しいし、当然、喜んでいるでしょう。しかし「私にあってはいろいろなことを心配しなくて良いのだよ。気を使わなくて良いのだよ」とおっしゃってくれています。イエスは「平安を与えるために」来られたではありませんか。仕えられるため、もてなされるために来られたのでもありません。どこまでも与えるためでした。福音、みことば、いやしを、与える旅であったでしょう。そして十字架による救いこそ、神が、神の方から、イエス・キリストによって、私たちに与える、最高の目的であったでしょう。そして、その十字架と復活によって、「世が与えるのではないわたしが与える平安を与える」と、あり、喜びを与えるためとあり、そして、イースターの朝、「平安があながたがたにあるように」と入ってくるでしょう。さらには、復活後、イエスが、弟子たちのために食事を準備して待っているというところもあるでしょう。そしてその後も、神は、約束の通りに、聖霊を、私たちに与えてくださいました。イエスは心配されるため、仕えられるため、もてなされるために来たのではないという、大事なメッセージがあります。「あなたがいろいろなことを心配して、気を使っています。」。イエスにあって、イエスの前にあって、いろいろなことに心配したり、気を使ったりするのは、あなたがたのすることではありません。いや、心配する必要はない。気を使ったりする必要はない。そういうのです。そして、こう続けます。

5.「どうしても必要なことは一つだけ」
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」42節
 イエスは、どうしても必要なことは一つだけだと言っています。そして、マリヤはその良い方を選んだのだと。このところは日本語ですと「良い方」とただ書いているだけですが、英語ですと「good portion」と書かれています。portionは、一皿分の料理、食事のことを意味しています。ギリシャでも「メリドス」ということばですが、これはご馳走の比喩で、一人分、一皿分の食物という意味です。ですからマルタによって忙しく準備されようとしているご馳走に対しての比喩が見ることができます。どうしても必要な一つのこと、それは、何かというと、マリヤがイエスのみことばを聞いていたということです。確かに食事も体の養いのために重要なものです。食べれるとき、それは楽しく美味しく満足するのです。しかし食べたものは体から出て行きます。そしてまたお腹がすきます。ご馳走、そしてそのご馳走の一皿分の食事はそのようなものです。けれども、イエスが言いたいのは、マルタへの批判とか、マルタがしなくていいことをしているとかそういうことではなくて、どうしても必要なこと、本当に大事なこと、いつまでも残るもの、そして、それこそ私たちを救い、新しくし、霊的に養うのは、何か?それは、「わたしのことばである」ということを、伝えたかったのです。ですから、おそらく、マルタも聞きたかったそのイエスのことばを、イエスはマルタに、「ご馳走などの食事や気を使うことを心配しないで、あなたもこっちに来て、わたしのことばを聞きなさい」と言っているように教えられます。

6.「イエスが仕え、与えてくださる恵みの礼拝」
 本当に、どうしても必要なことは一つだけ。イエスははっきりと言っています。イエスをもてなすために、精一杯のご馳走を作るために、いろいろなことを心配したり、気を使ったりするのが、クリスチャンの新しい生き方、教会、奉仕、などなどと思ってしまいやすいのですが、しかし、イエスが見ているのは逆であるということです。大事なことは、イエスが私たちのために仕えてくださる時間と、そこで提供されているかみのみことば、恵みであるということです。イエスが私たちのために仕えてくださるのが、私たちの新しい生き方でしょう。イエスが仕えて下さり、みことばを語ってくださる。罪の赦しの福音を、いのちの福音をあたえてくださる。それを聞くこと、受けることが、どうしても必要なことだといっています。そして、まさに今日の聖餐もそうでしょう。最後の晩餐の聖餐の場面も、復活の後の食事も、イエスが給仕し、ホストとなり、私たちに支えて下さり、イエスが与えてくださる、みことばと聖餐を受けることが、イエスの最後の晩餐の時、そして初代教会から変わることのない、キリスト教会の礼拝でした。どうしても必要なことはただ一つ。その良い方を選んだ。本当の良い方の、本当の魂の糧の一皿を、マリヤは選んだ。それはイエスが語ってくださるみことば。与えてくださるみことばを受けた。聞いた。そのことなのです。
 私たちにもイエスは同じであるのです。何も心配する必要はない。気を使わなくていい。これはイエスが私たちに仕えてくださる時、与えてくださる時なのですから。永久になくならない、いつまでも残るいのちのことばを、救いのことばを、新しく生かし、励まし、慰め、導く、平安のことばを、イエスが与えてくださるのですから。そして、今日は、イエスがみことばをもって仕えて、イエスのからだと血を与えてくださるのですから。ぜひ私たちもそのまま受けたいのです。

7.「どうしても必要な「一つのこと」から「多くのこと」(良いわざ)へ」
 そして、受けるからこそ、私たちは、イエスの変わることのない、イエスが与える平安を受けて、本当に喜んで、仕えていくことができるし、良きサマリヤ人のように隣人を愛していくことができるでしょう。このところは、「多くのこと」「いろいろなこと」と「一つのこと」ということばも対照的に描かれています。つまり、私たちの何か、私たちがイエスに仕えする多くのこと、いろいろなことが、「一つのこと」、みことばのこと、救いや神の国を完成するのではなく、その逆を示されています。つまり、「一つのこと」、つまり「みことばに聞くこと」「イエス・キリストのみことば、いのち、救い、義と聖さ」が、多くのことをさせるのだということに他なりません。
 本当に必要なことは、ただ一つです。それが新しいいのちのための、ご馳走であり、一皿の大事ないのちの糧です。それはイエスが与えてくださるみことばを聞くこと、聖餐を受けることです。ぜひ、与えてくださる恵みなのですから、喜んでそれを受けて、今日も平安のうちに使わされていきましょう。