2015年4月12日


「復活の恵み:聖霊と罪の赦し」
ヨハネの福音書 20章22〜23節

1.「復活の日の出来事」
 弟子達は、信仰が弱り果て恐れて部屋に閉じこもっていました。しかしそんな幼子の弟子達の所に、よみがえられたイエスは入ってきました。弟子達はそれを見て喜びます。そしてイエスはその十字架の身体を示し、自分が確かに死からよみがえったことを見せ、いいました。「平安があなたがたにあるように」と。そして「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と。そのようにイエスは、弟子達、そして私たちに、イエスの喜びと平安を与えるために十字架にかかり死なれ、よみがえられた。そのことこそ父なる神がみことばを持って約束し、イエスが伝えていたことの成就であり、確かにイエスは、その復活の新しいいのちのうちに、私たちに平安と喜びを与えて下さっている。私達はその平安と喜びのうちに日々、遣わされている。私たちはイエスがよみがえられた、そのよみがえりの新しいいのちを受けて、イエスの復活のいのちをもって、日々、新しく生かされて行く。その恵みと幸いが、私たちの救いの歩みであるのです。

2.「聖霊を受けなさい」
 ここには更なるイースターの幸い、救いの恵みが続いて書かれています。22節
「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊をうけなさい。」
 イエスは「聖霊を受けるよう」に言っています。ここにあるイエスが与える救いのさらなる幸いは「聖霊が与えられる」ということです。前回は、イエスの十字架も復活も、私たちにイエスの喜びと平安を与えるためだったと見てきました。そこでイエスの十字架の前に語られた約束の言葉から確認しました。十字架の前にイエスは、今は悲しみがあるが、やがてあなたがたの悲しみは喜びに変わると言われ、それをお母さんの出産と新しいいのちを例に伝えていたことをです。その通りに、イエスの復活は喜びをもたらしました。平安についても、イエスは十字架にかかる前に、「わたしはあなたにわたしの平安を与える。世が与えることのできないわたしの平安を」と約束していたことを見ました。その通りに、復活のイエスは、平安をもって弟子達の所に入ってきました。そのように、十字架と復活の先に、約束の成就があったのです。そして今日の所でももう一つ、私たちは約束の成就を見ることができるのです。それが聖霊です。十字架の前、喜びと平安を約束したのと同じ、最後の晩餐の席でイエスが約束したことばを思い出すでしょう。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう1人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14章16〜17節
 このようにイエスは約束しています。そして15章でもう一度(26節)、16章でも更にもう一度(13節)、三度繰り返して聖霊の約束を伝えていました。その通りに、この復活の日に、「聖霊を受けなさい」とイエスはいうのです。約束の聖霊はあなたがたに与えられる。その聖霊を受けなさいと。やがてペンテコステの日の朝まで、弟子達はその約束を待ち望んで、エルサレムで待ち、イエスの約束の通りに聖霊を受けて、そこからまさにクリスチャン達は遣わされて行きます。このように、喜びの約束、平安の約束、そして聖霊の約束と、イエスは約束されましたが、十字架と復活を通して、イエスはそのことを成就され与えて下さいました。いやむしろ、イエスはこの聖霊を、三度、繰り返す程に強調されました。そしてこの聖霊によってこそ「彼らが遣わされる」ということが始まって行くことからも分るように、21節のことば、21節の約束は、このイエスのみ言葉と聖霊によってこそ保障される。みことばと聖霊によってこそ、そのイエスの与える喜びも平安も私たちにも溢れ、みことばと聖霊によってこそ、喜びと平安のうちに遣わされ、日々、イエスのいのちにあっての新しい歩みがあるのだということを、イエスは私たちに伝えているのです。

3.「聖霊とみことば」
 22節の「息」ということばは、確かに霊を連想させるのですが、これは同時に、イエスの話すときの息吹、まさに「ことば」を指しているとも言われます。聖書において、聖霊とみ言葉は引き離すことが出来ません。21節の「平安があるように」も言葉です。そして「聖霊をうけなさい」も言葉です。このように聖書は始めから変わりません。思い出していただくとわかるように、世界創造した時にあったのは、神のことばでした。神のことばが、「?よあれ」と語られたときに、そのことばの通りに、すべては創造されました。ですから創世記、あるいは天地創造の中心は、神のことばです。その通りに、ヨハネの福音書のはじめも、「ことばによって」全てのものは造られた、生まれたと始まっています。神の「ことば」を通しての御業、それは世の始めから、この時も、そして今も変わらないということです。神のことば、イエスのことばは、その通りになる。その通りにイエスのことばがすべてを創造し、その通りに、この新しい誕生も、イエスの喜びも平安も、聖霊も、新しい歩みも派遣も、イエスのことばによって与えられるのだということです。むしろこのことから分るように、神の業とみことばを実現する聖霊なのですから、みことばと聖霊は一つであり、引き離すことが出来ない。私たちはイエスのみことばによってこそ聖霊を与えられ、その聖霊は、創造の時から変わることなく、みことばを持って、語りかけ、私たちに働かれるのだということです。ですから、私達にとってみことばと言う時、みことばは決してただの文字ではない。本ではない。それは神の息吹であり、私たちへの神のいのちの息であり、私たちを創造しただけでない、いのちを与えただけでない、私たちを救い、私たちをまさに日々生かす、日々、十字架と復活の恵みに与らせ、イエス様の喜びと平安を与え、信仰を養い導く、いのちの糧そのものなのです。同時に、聖霊も、見えない、実体のないものではない。架空のもの、作り物でもない。私たちはこのように、み言葉を読む時に、聞く時に、そこには、もちろん、本、紙、文字、牧師、説教者などを用いて通してですが、その時に、主なる聖霊が語りかけ、私達は聖霊に聞いているのです。

4.「聖霊とみことばによって喜びと平安のうちに遣わされる」
 よみがえったイエスは弟子達にご自身を現わし、この聖霊を何より指し示しています。「受けなさい」と。この聖霊こそ、わたしのことばを実現する。「平安があなたがたのあるように、父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす。」というそのわたしのことば、約束の実現も、この聖霊によってこそあるんだ。日々、新しい喜びと平安の歩みも、この聖霊によって、みことばのうちに、あなたがに実現して行くのだと。今、私たちはその通りに、洗礼の時、イエスの御名により、そしてみことばの宣言によって、この聖霊こそを受けている。与えられているのです。それは素晴らしいことではないでしょうか。ですから、私たちが聖霊とみことばに生きているということは、創造の出来事も決して遥か昔の過去の出来事ではないということでしょう。天地創造の記録は私たちには捕えがたい曖昧な無関係なことということではないということです。なぜなら、イエスによって救われたというのは、パウロは言っていますね。それは「新しい創造だ」と。ですから、私達が日々、イエス様の復活のいのちを受ける、新しくされるというのは、イエスがまさに、みことばと聖霊をもって、私たちを新しく創造し続けているということなのです。それは確かに目には見えない、思いでは計れないことではあるでしょう。しかし聖霊が私たちにあり、みことばがあるということは、私たちの思いをはるかに越えたイエスの出来事が日々、私たちに起こっているのだということです。ローマ8章にありました。先週の招詞のことばでした。「私たちがキリストともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなると信じます。」と。私たちは聖霊とみことばのゆえに、日々、キリストの復活のいのちに生かされている。新しくされている。それがイエスが言う、平安のうちに遣わされること、私たちも復活にあって新しくされるということなのです。ぜひ、復活の恵みとしての聖霊、みことば、そして日々、新しい創造。新しいいのちが、与えられていることを、これはみことばの約束ですから、信じ感謝して、喜びたいのです。

5.「神の前に罪の赦されていることの素晴らしさ」
 そして23節の御言葉です。それは何を伝えているでしょう。それは、そのように新しいいのちの道。平安のうちに遣わされる歩みにおいて、私たちは何を携え、何を証しするのか? つまり、私達は何故に平安であり、新しいのか? それは私達が神からイエスを通して与えられた救いの核心部分、宝をイエスは伝えています。それは「罪の赦し」であるということです。皆さん、救いとは何でしょう。それは罪の赦しです。しかもそれは私達が何かをしたからできるからではない。いや私達には何も出来ない。弟子達のようにただ罪深く、三度否定するようなものである私達。しかしそのために、十字架のイエスに現わされた神の一方的な恵みとしての罪の赦しです。教会は最初からずっとこのことを伝えてきました。これを伝えることが、教会の証しでした。使徒信条もそのことを告白するでしょう。ルーテル教会の告白も、その罪の赦し、義認が中心になっています。皆さん、罪が赦されているということは素晴らしいことです。しかし大事な点ですが、これは何より「神の前に」「罪赦された」「正しい」「義」ということです。これこそが人類にとって重大な問題でした。誰も神の前に正しい者はいないのです。みな罪人であり、みなエデンを負われたものです。みな誰もが神にそむいて、自分勝手な道を行くものです。旧約聖書はむしろそのような人間の姿を描き出している記録です。それは選びの民であるイスラエルであってもです。いやむしろイスラエルは選びの民であり神の救いと恵みを知っているものであったとしても背いていきました。罪を犯すのです。あのダビデであってもそうでした。ですからパウロはローマ7章でいうでしょう。自分は自分がしたいと思う善を行なわないで、悪を行なうものだと。彼は三度繰り返します。それが神の前での人間の現実です。誰も神の前に正しい人はいない。みな罪人。みな神の裁きの前に耐えることが出来ない。滅びを宣告されるべき存在。みな神の怒りの前に十字架にかけられなければならなかった一人一人です。皆、神の国、天国ではなく、神の前の裁きしか待っていなかった全ての人々です。しかし神はそれを愛する御子イエスに負わせた、イエスを十字架につけてすべてのその罪の贖いとされた。それゆえに私達に与えられたのは、罪の赦しではありませんか。イエスのゆえにこそ私達に罪の赦しがあるのです。イエスのゆえに、私達は神の前に恐れなくていい。神の前にあって平安があるのは、まさにイエスの十字架のゆえでしょう。そのイエスが「恐れなくてよい、平安を与える、平安があるように。平安のうちに、安心して行きなさい」と言われているでしょう。まさにこれが、イエスが十字架と復活をもって私達に与えて下さった最高のものです。イエスのゆえに罪が赦されているということです。神の前に安心て立つことが出来、安心して神の所に行くことが出来る。それは罪の赦し、義認のゆえなのです。素晴らしいものを私達は受けているのです。それが「救われている」ということであり、それは私達の何かではなく、私達の努力や業、今私達が立派かどうか、何が出来るからではなく、どこまでもイエス・キリストの十字架のゆえ、どこまでも、そのイエスの御名とみことばによる洗礼を通して与えられている、全くの恵みなのです。何度も言いました、救いの確信は、私達の何かではなくて、このイエスの義、イエスの十字架、イエスの与える聖霊のゆえであり、そのイエスの洗礼を受けたことによってキリストのいのちを与えられているということこそ、私達の救いの確信なのです。そしてその確信はまさに、私達を安心させ、私達はイエスの「安心して行きなさい」という言葉に本当に安心して行くことが出来るのではないでしょうか?

6.「教会に与えられている「鍵」」
 最後に、この言葉は、教会に、罪の赦しを宣言する「鍵の権能」が与えられていることを告げる大事な言葉でもあります。ですから、私(牧師)に罪の赦す力があるのではありません。イエスのみことばによる教会にその「罪の赦しの鍵」が与えられているのです。ですから、私(牧師)はただイエスのみ言葉を取り次いでいるだけであり、私ではなく、イエスが、イエスのみことばによって私達に、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださっているのです。ですから私自身も罪深い一人であり、私自身もイエスのことばによって、イエスの教会から、罪の赦しを宣言され安心て行くことが出来る一人です。本当に、罪赦されているということ、罪赦されているからこそ、安心していくことができるということ、幸いではないでしょうか。本当に世にあっては艱難です。しかしこのイエスのことば、聖霊、私達が受けている恵みの上の更なる恵み、救いの確かさ、日々新しい歩みを覚え、喜びと、「安心して行きなさい」のイエスのことばによって今週も信仰のうちに遣わされて行きたいのです。