2015年4月5日


イースター礼拝「キリストとともに日々新しく」
ヨハネの福音書 20章19〜21節

1.「はじめに」
 私たちはイースターをあ1年に一度、暦に従ってお祝いするのですが、けれども復活に現されたイエスの恵みを覚える時、私たちは日々、365日、そしていつまでも、このイースターの恵み、復活の恵みに生かされているものであるといえるでしょう。今日のこのところはその恵みを私たちに伝えてくれています。

2.「理解できない弟子達」
「その日、すなわち週の始めの日の夕方のことであった。弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、」19節のはじめ
 イエスの復活の日、すでに夕方です。その日の朝にはマグダラのマリヤと弟子達にある出来事がありました。20章の始め、マグダラのマリヤがイエス様の身体が葬られている横穴の墓にやって来たときに、墓の入り口の大きな石が動かされているのを見て驚きます。彼女はそれをすぐに弟子達に知らせて弟子達はやって来るのです。そして彼らは墓が空であったことを見るのです。つまりイエスの死んで葬られたその身体がなかったのです。8〜9節にこう書いてあります。ー「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入ってきた。そして見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」ー「見て、信じた」とあるのは、復活のことではありません。墓にイエスのからだがないこと、空っぽであることを信じたということです。むしろ9節にあるとおり、それが死んだイエスがよみがえったのだということについては、まだ理解できていなかったのです。イエスは死ぬ前にもう何度もよみがえりのことを伝えてきました。そしてそれは聖書の預言で約束されてきたことだとも言ってきたのです。それでもこの時、イエスがよみがえったということも、そこにある救いの成就や神の業なども理解できなかったということなのです。そして10節で「それで弟子達はまた自分のところに帰って行った。」と続きます。
 弟子達は自分たちの所に帰って行ったのでした。本当にその時、「イエスは復活したんだ」、あるいは「イエスの言う通りに、預言の通りになったんだ」と理解したなら、彼らは伝えずにはいられないでしょう。しかし彼らは戻って行くのです。確かに墓は空であり、遺体はありませんでした。しかしマグダラのマリヤが「誰かが取っていった」と繰り返しているように、そしてローマに処刑されたわけですし、ユダヤ人の企てによってその処刑はなされたのですから、その無くなったイエスの身体も、ローマ兵が石を動かして移したか、誰かが取っていったのだと考えるのが普通であったことでしょう。ですから復活されたとは分らず「誰かが取っていったのだ」と推測するしかない弟子達は、この出来事によって、むしろさらにこれからの心配や恐れを募らされたのではないでしょうか。それが今日の所、19節につながっています。この日の夕方です。弟子達は戸をしめていたのでした。ユダヤ人を恐れてです。

3.「開け放たれた墓と、閉ざされた部屋」
 実に対照的です。イエスの復活、それは重く閉ざされた墓の扉、兵士二人でなければ動かせない墓の石の扉は、動かされ「開け放たれて」います。そしてよみがえったイエスがそこから「出て来て」いない。マリヤに現れた。しかしよみがえったと理解できない弟子達はその逆です。イエスの十字架の死以降、悲しみと失望で、扉を「閉ざし」部屋に閉じこもっていました。まさに閉ざされた墓のようです。そして空っぽの墓に彼らは悟ることが出来ず、またこの部屋に戻ってきて戸を閉ざしています。そしてそこにあるのは「恐れ」です。これを書いたヨハネもそこにいた訳ですから、まさに弟子達のその日の、この夕方までのその姿、そして彼らが本当に何も出来ずに何も分らずただ恐れていた、そのことがよく伝えられていると思います。
 しかしながら、このイエスの復活の恵みと幸い。こう続いています。
「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子達は、主を見て喜んだ。」19〜20節
A, 「歴史の事実としての復活」
 イースターの幸い。まず聖書は、ヨハネは、イエスの十字架と死、そして復活が、歴史的な事実であることを伝えています。「これは本当に起こったのだ」ということをヨハネは私たちに伝えています。墓の入り口の重い石の扉が取りのけてあったという事実、墓が空だったという事実、そしてそれを見て、事実であったと信じた事実、彼は事実として書いているでしょう。そして何より彼は使徒として非常に尊敬されていた1人でありましたが、自分達、使徒達の恥や無力さをあからさまに告白して記しています。「自分達はイエスが「よみがえる」と言っていたことも、聖書も、預言も、イエスのメッセージ、伝えていたことも、まったく分っていなかった、理解していなかった、理解できなかった、そしてそのよく知らせを聞いても、空っぽの墓を見ても、部屋に帰って戸を閉ざしていたと、そして恐れていた」と。まさにこれは、偉人伝やドラマティックな物語の創作ではなく、事実の記録としてヨハネはこの日のことを語っていることがわかるのです。その「恐れの部屋」に、イエスは確かに来られた。そしてイエスが確かに三日前に、あの十字架で手と足にくぎを打たれたとの手と足を、そして三日前に確かにローマ兵がわき腹に突き刺したそのわき腹を、示された。幽霊ではなく、その身体をです。このように、イエスの十字架の死も、そしてこのよみがえりも、確かに起こった。そしてヨハネの告白の言葉が伝わって来るようです。「わたしはそれを確かに見たのだ」と。イエスの復活は、歴史のある時に、確かに起こった、確かに現わされた神の恵みの証しであるということを、このところはまず私たちに伝えてきているのです。
B, 「イエスから」
 そして、ここには更に素晴らしい事実があります。それは「イエスから」この部屋に入ってきたこと、そして「イエスから」その身体を示されたということです。弟子達はどうであったのか。見てきた通りです。彼らはマグダラのマリヤの知らせを受けても、そして実際に見に行って、空っぽの墓を見て信じても、イエスがよみがえられたということは分りませんでした。イエスが何度も伝えてきたことなのに、彼らはよみがえりを理解できませんでした。そして部屋に戸を閉ざし、恐れ閉じこもっていました。弟子達には何も出来なかったでしょう。まさに彼らは十字架についてはもちろん、復活についても、何も出来ません。無力で無知で、信仰においても弱り果てて、恐れてしまっています。まさに先週の所でもありました。「幼子」のような弟子達です。しかし、はっきりとしているではありませんか?そこに、その閉ざされた部屋の中に、幼子の所に、イエスの方から入って来られた。イエスの方から、語りかけられた。「平安があるように」と。そしてイエスがイエスのその十字架のからだを示された。イエスの方からこの幼子達に、すべてを現わしてくださっている。そして、恐れていた彼らが「喜んだ」とある通りに、イエスがイエスの方からそのように入り、来られ、示し現わしてくださることによって、彼らに全てを、喜びを与えている、その恵みが分るではありませんか。ヨハネが自分たち使徒達の弱さ、無力さをそんなにもまざまざと正直に示す意図が分かります。それはすべては神の恵み、イエス・キリストの恵み、イエスの方から、このような罪深い自分たちのところへ、という福音のメッセージの証しを伝えるためであることがわかるのです。
C,「喜びと平安を与えるために」
 そしてそこにあった大きな変化、イエスが与えてくれた、更なる復活の恵み。それは、もちろん、主がよみがえられたという、理解と信仰もそうでしょうけれども、ここで注目したい大きな変化は、平安と喜びです。平安と逆の言葉が先にありました。「彼らは恐れて戸がしめてあった」と。恐れです。彼らは恐れていました。平安がありませんでした。しかしイエスは「平安があなたがたにあるように」です。そして、もう一つ、彼らは主を見て「喜んだ」とあるのです。「喜び」です。受難節を通じて見てきたではありませんか。イエスが十字架の前に約束したことです。十字架への道は暗く、苦しみと痛み、悲しみに満ちている。そして死を意味する。私たちはそのように暗いものを思い浮かべます。確かにそうであり、確かにイエスは苦しんで死なれます。しかしイエスはそのご自分の十字架の死と苦しみを通して、私たちに与える救いと神の国の素晴らしさを伝えていたでしょう。それは私たちに喜びを与えるためであると。平安を与えるためであると。喜びについてこう言っていました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかしあなたがたの悲しみは喜びに変わります。」
「女が子を生むときには、その時が来たので苦しみます。しかし子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはや激しい苦痛を忘れてしまいます。」
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」 ヨハネ16章20〜22節
 その通りではありませんか。そのイエスが言った通りでしょう。使徒達の悲しみは喜びに変わった。もう一度あったその時、新しく生まれたその時、復活の時、あなたがたの心は喜びに満たされる。そして平安についても約束がありました。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14章28節
「わたしがこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」16章33節
 このように約束していました。その通りでしょう。よみがえらたイエスのことば、それはただの挨拶ではない。それは平安の成就です。弟子達、私たち、そして信仰が与えられ信じ洗礼を受けるすべての人に、喜びと平安を与えるためにこそ、イエスは十字架にかかって死なれよみがえらえれた。その約束の成就をイエスは告げているのです。

4.「主の復活は日々の私たちの恵み」
 そしてそのイエスのよみがえりは、なぜ私たちと関係があり、私たちの救いとなるのでしょうか。私たちと関係のないかのように私たちは思うのではないでしょうか?しかし、イエスはこう続けています。
「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」21節
 イエスのことばはただ挨拶、ただ宣言だけではなく、ここから歩んで行くための平安。ここから安心して行くことができる平安、つまり本当に生き生きと脈打ち、からだに生きる平安のうちに遣わされいく、私たちに事実として与えられ日々の歩みに満ちる平安であることをイエスは意味しています。このようにイエスの復活は決して過去のイエスだけのものではありません。私たちと無関係のものでも決してない。イースターが1年に一度の出来事ではなく、365日、いつまでも続く恵みであることと同じです。パウロはそのことを伝えています。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死ににあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩をするためです。」ローマ6章3〜4節
 救いと神の国素晴らしさを伝えています。私たちが受けたイエスによる洗礼。それは、イエスの十字架の死にあずかる洗礼であり、私たちもイエスとともに葬られ、そして、イエスがよみがえられたように、私たちもいのちにあって新しい歩みがあるのだと伝えているのです。8節では、キリストとともに死にキリストとともに生きる、ともパウロは伝えています。私たちはイエスがよみがえれた、その新しいイエスのいのちが与えられている。そのよみがえれたイエスとともに私たちもよみがえって、そのイエスの復活のいのちにあって、日々、新しいいのち、新しい歩みがある。私たちは洗礼によってまさにイエスの十字架とそして復活に与った、受けたのだとパウロは伝えています。ですからこの復活は、イエスの復活であり、私たちの日々の復活、日々の新しさです。私たちは若くても、あるいは、いくら年を重ねても、たとえ死の日であったとしても、イエスの洗礼に生かされていて、イエスとともにある私たちは、その十字架と復活のイエスのゆえに、日々、罪赦され、日々、新しいのです。それが私たちが受けた救いです。日々イースターです。日々、私たちはイエスの復活のいのちにあって新しくされ続ける、これが私たちが神の国にあるその歩みの事実、恵みなのです。そのイエスにあるいのちは、喜びであり平安であるのです。今日イエスが与えて下さる聖餐もそのためのものです。私たちはこの、十字架と復活のイエスのゆえにこそ、イエスがともにあるからこそ、恐れる必要はありません。それは日々、イエスの復活のいのちと新しさにあって「あなたの罪は赦されている安心して行きなさい」と遣わされ、行くことができるからです。ぜひこのイースターの恵みを覚え、安心してここから歩んで行こうではありませんか。