2015年3月29日


「幼子たちに現わしてくださった」
ルカの福音書 10章21〜24節

1.「はじめに」
 イエスは「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と、イエスによる救いと神の国は、地上の出来事よりもはるかに素晴らしいものであることを伝えました。私たちの名がすでに天に書き記されている。それにまさる救いの喜びはない。私たちはゆえに苦しみも、蛇やさそりである悪霊やサタンも、敵のあらゆる力も害も、そして死さえも恐れる必要はない。なぜならそれらに対する圧倒的な勝利として、天が私たちに約束されているのだから。イエスはそのように救いの喜びがいかに大きなものであるのかを伝えるのです。そしてそのことは天の喜び、イエスご自身の喜びでもあるのです。

2.「天の喜び」
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」21節
 このイエスのことばですが、これは「天地の主である父よ」とあり「ほめたたえます」とありますから、父なる神への語りかけであり、讃美として語られていることがまず分ります。そしてこのところは、父、子、聖霊、三位一体の神が示されているところでもあります。「聖霊によって喜びにあふれ」と、あり、父に語りかけられています。しかしわかるのは、その喜びです。聖霊が喜び、イエスが讃美をし、それは明らかに父のみこころであるということが分ります。天は喜んでいます。三位一体の主は、喜んでいます。それは「私たちの名が天に書き記されていること」です。15章で迷子の羊、なくしたコイン、そして放蕩息子のたとえ話を見ることができますが、そこでの大事なキーワードも、「天の喜び」です。ひとりの人が悔い改める時、天で喜びがおこる。御使いに喜びがわき起こる。そして放蕩息子が帰ってきた時、父は喜び、お祝いの宴会が開かれる。イエスは伝えています。神が世に、私たちに、イエスを与えて下さったのは、私たちの救いのためです。イエスが「この杯を取りのけてください」とゲッセマネで祈ったときも沈黙され、しかしイエスが「御心がなるように」と祈ったその答えとして、イエスを十字架とその死に従わせたのも、それは私たちの救いのためです。そのように私たちがイエスにあって悔い改めに導かれ、イエスの御名により救われた時、あるいは救われた今も、その時、天に私たちの名が高らかに読み上げられ、天の軍勢が喜びの讃美を歌い、天で喜びがあふれている、なにより、父なる神、御子イエス、助け主なる聖霊が、私たちの救いを歓喜し、賛美しているのです。

3.「私たちの救いは天から」
 このように救いということが、決して、地上の物事だけで判断できるちっぽけなものではないことを教えられますね。しかしながら、私自身、そうである面が沢山あるのですが、自分の救いや聖さ、あるいは自分が救われているかどうか、そのことを私たちは地上の物事で判断してしまうことがあるのではないでしょうか。自分がこうだから、あれができるから、できないから、あの人と比べてこうだから、あの人にこう言われたから、等など、そのようなことで、救いを疑ったり、神の愛を疑ったり、神や信仰を捨てようとしたり、救いの確信を失ったりしていることが少なくないということです。皆さんはいかがでしょうか?しかし、それはまさに救いを地上の物事に限定し、あるいは自分自身の何かに救いの根拠と確信があるかのように、救いの範囲を自分自身に閉じ込めてしまってることと同じでしょう。しかし救いというのはそんな小さな限られた範囲のことなのでしょうか。聖書の伝える救いはそのようなものなのでしょうか。そうではないことをこのところは私たちに伝えています。救いは天からの出来事であると。神の圧倒的な恵みのわざであり、恵みであると。20節の最後の幸いな言葉
「ただあなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」
 そう言っています。お分かりではないでしょうか。「『あなたが』自分の名を天に書き記したことを」とは言っていません。「あなたの名が天に書き記されている」と言っています。書いたのは私たちではありません。「書き記されている」のです。つまり書いた方がいるということです。それは神ではありませんか。神が書き記してくださったということを伝えています。そして
「これらのことを、賢い者や知恵のあるものには隠して、幼子たちに現わしてくださった」
 とイエスは言っています。その救いを、あるいは天を、「幼子達が」見いだしたとは書いていません。「現わしてくださった」と書いているのです。「神が」現わしてくださった。まさに神の恵みであることを示しています。そしてその恵みはイエスを通してであることがこう続いています。

4.「救いはイエス・キリストをとおして」
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで子がだれであるかは、父のほかは知るものがありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人達のほかはだれも知る者がありません。」22節
 こう言っています。まずすべてのものはイエスに託されていると。しかしその子、救い主が誰であるのか、それは父なる神の他だれも知らないといいます。本来は父なる神以外には誰も知らないこと、それが「救い主は誰か」ということです。同じように父のこともだれも知らない。けれども子は知っているし、そして子が知らせようと定めた人達には、「子が」知らせる。「子によって」知ることができるとあるのです。このように、救い主は隠されている。私たちは自らでは知るは出来ないことを伝えています。しかし子にすべてが与えられていて、子が、つまり御子イエスが、知らせてくださる、明らかにしてくださるからこそ、救い主を知り、救いを知るのだということを伝えているのです。だからこそ「幼子たちに現わしてくださった」と言っているのです。幼子たちは自らでは何も知ることが出来ない。何も出来ない。悪霊を追い出すことも、蛇やさそりに打ち勝つことも、サタンを天から下ろすことも、敵のあらゆる力に打ち勝つことも何も出来ません。そして、天に自分の名を書くことも出来ません。私たちには決してできない。私たちには分らなかった。知ることも出来なかった、この救い、イエスの十字架と贖い、そして神の愛。しかしその幼子達に、神が、神の方から、このイエスによって、イエスを通して、現わしてくださった。明らかにしてくださった。まさに主なる神の圧倒的な恵みによる救いが今日もイエスから私たちに語られています。

5.「神の喜びは私たちが救われること」
 イエスはそのことを喜び、讃美しているのです。そのように「私たちが自ら救いを得た」ことを喜び讃美しているのではない、「神が私たちを愛し、私たちに御子を明らかにし、御子によって私たちに救いを現わした、得させた」その恵みこそ、そしてその神の圧倒的な恵みによって私たち一人一人が救われているという事実こそを、イエスは、ここでも、そして今日のこの時も、喜び、讃美しているのです。イザヤ書53章の主の約束を思い出します。そしてその御言葉がまさにイエスに成就したこともです。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。〜」イザヤ53章10節〜11節のはじめ
 またヨハネ16章でイエスは産みの苦しみと喜びに例えていいます。
「女が子を生むときには、その時が来たので苦しみます。しかし子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはや激しい苦痛を忘れてしまいます。」16章21節
 これらのみ言葉は、神がなし、神が与える救いの業、神の産みの苦しみを指して、それによって多くの人がいのちを得ることを満足し喜ぶことを伝えていることがわかります。神は御子イエスによるご自身の救いの業を満足し、喜ぶのですが、何より、それによって私たちが救われること、私たちの名が天に書き記されることを、本当に心から喜んでいます。そして、そのための全てであった。そのためのイエスであった。そのためのイエスの苦難と十字架であるのだということを私たちに今日も伝えていますね。

6.「幼子に」
 「幼子」という言葉も幸いです。それは72人を指し、すべての弟子達、そして救われる全ての人々をさしています。それらは皆、幼子なのです。これは小さな子です。不完全で、罪深い、助けが必要な弱い一人一人をイエスは見ています。事実、彼らは、この時まで、イエスの伝える言葉の意味、特にエルサレムで起こること、十字架のことなどは何も分りません。理解できないのです。そして彼らのメシヤへの期待も違い、自分たちの立場が特別だという高ぶりもあったりしました。誰が偉いかと論じていました。イエスの力と権威は、従わない者に天から火を呼び下して滅ぼすためだと思っていた弟子達であり、自分が王国の右と左にとか思っていた弟子達ではありませんか。まさに幼子です。しかし「その幼子にこのことを現わしてくださった」と、イエスははっきりと言っているでしょう。そのことを誉めたたえ、喜び、讃美しているではありませんか。このように、救いは天からの圧倒的な神の恵みであること、それは天の賜物であり、天の喜びである。私たちはその救いを自ら得たのではない、私たちの力や業ではない、ただ、恵みとして、受けている、頂いている、信仰も与えられた。それゆえに私たちは救われた。そのことを強く伝えているところだと教えられます。ですから救いの確信は、私たち自身に探しても何もありません。救いの確信は、どこまでも主イエスの恵みによって、信仰が与えられている、そしてそのイエスが与えて下さる、イエスの御名による洗礼をに与った、それによってイエスのもの、神のものとされているかどうかが確信の全てなのです。その主の恵みこそぜひ誉め讃えたいのです。

7.「見る目は幸いです」
 このイエスの恵みとその救いをみ言葉を通してはっきりと見ること、確信できることはなんと幸いでしょう。イエスもいいます。23節
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです」
 と。なぜなら24節にある通り、旧約の預言者や王たち。アブラハムの祝福の約束から始まり、モーセ、ダビデ、そして多くの預言者達に至るまで、待ち望んでいた約束の成就はこれであったのだからと。彼らは見たいと願ったのに、見れなかった。弟子達がイエスから、そして私たちが聖書を通して聞いていることを、聞きたいと願ったのに彼らは、聞けなかったと。その彼らが待ち望んでいた救いの成就を私たちははっきりと見、聞くことができる。御子キリストこそ私たちの救いであると告白することが出来、この十字架によって私たちは「罪は赦されている。安心して行きなさい」と宣言され、行くことができる。それは素晴らしいことであり、幸いであるとイエスは伝えてくれています。
 イエスの十字架の道は確かに暗く、悲しく、痛みと死を描き出します。そして、それが私たちのためであった。私たちは立ち返ります。しかしそれは私たちの悲しみのためではありません。私たちに重荷を負わせるためではありません。このように、イエスの十字架の道は、まさに天の神の御心であり、それを成し遂げることによって、私たちに本当の喜びを、平安を与えるためのものであり、そして私たちがそのようにイエスの十字架によって救われることが、父、子、聖霊なる神の喜びであり、天に響き渡る天の軍勢の讃美であり、そのためにこそご自身は世に来られ、そのための十字架と復活であることを、イエスはこのエルサレムへの道で伝えているでしょう。イエスはいいます。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」14:28
「わたしがこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」16:33
 イエスが与えるイエスの平安、イエスにあっての平安を、私たちは受けている。それは世が与えることの出来ない平安。そして喜びです。なぜならそれはイエスにあって、私たちの名が天に記されている。そのことを幼子である私たちに主は現わしてくださった。イエスを通して、み言葉を通して。洗礼と聖餐を通しても。私たちはそれをはっきりと見ることができる。今日も聞くことができる。そのことをイエスは心から喜び讃美し、そして私たちに言っています。「喜びなさい」と。イエスの十字架と復活にこそあるこの救いの確かさに立ち返り、私たちに与えられている恵みと平安を覚え、喜びをもって過ごし、イースターを迎えましょう。