2015年3月1日


「自信や決心ではなく、主の恵みの召しのゆえに」
ルカの福音書 9章57〜62節

1.「はじめに」
 とても難しいところのように思える所の一つかもしれません。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等などあるかもしれません。あるいはここから「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたことがある方もいるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることはやはり福音と恵みに他なりません。そしてイエスにとって「従う」ということはどのようなことであるのかもこのところから教えられるのです。

2.「自から「従います」ー自信」
 3人の人について書かれています。一人目です。
「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(57節)
 私たちからすれば、非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは
「すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(58節)
 イエスの宣教の旅には、自分の家を持っていませんでした。ペテロの家に滞在したりすることは何度もありましたが、そのように、行く所、行く所で、イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの旅でした。まさに狐や鳥には、定まった寝床や巣があるのですが、イエスの行く所には、定まった家や部屋があるわけではありません。「おいでになる所、どこにでも」という時には、まさにそのような旅を意味しています。もちろんこれまでもこれからもイエスと弟子達の一行は日々、必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきているのですが。イエスは、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、地にあっては貧しく不確かで寄留者であるけれども、「天にあって」は豊かで確かで不安のない、天にあって定まった恵みを持っていることを示唆しているのです。つまり「天の神の恵みと確かさへの信頼が、イエスの旅の大事な持ち物である」ことを伝えてくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。しかしこのところで、弟子が一人増えたともかいていませんから、この人は、このイエスのことばを聞いて、従えなかったのでしょう。

3.「「ついてきなさい」という天のプレゼント」
  二人目はどうでしょう。
「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」59節
 今度の人は、イエスが「わたしについて来なさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。
「すると、彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人達を葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」60節
A, 「召しゆえに従う恵み」
 何か非常に厳しいことです。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達。彼らは、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示したでしょう。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。彼は町中がイエスのもとに集まって大騒ぎのなかで、彼は「会いに行こう、見に行こう」ともしなかったでしょう。しかしそのようなレビの所に、イエスがやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。これは、従うということの大事なポイントです。従うというのは、イエスの召し、ことばがあってこそなのです。イエスのみことばの召しがあって、その御言葉に従うことが「従う」ということの全てです。
B, 「Self-Confidenceー自信、自信過剰ではなく」
 しかし、今日の最初の人と、三番目の人は、自分から「従います」と言っています。英語の注解書を見ますと、この最初の自分から「従います」と言っている人に対して、イエスは彼の「SELF-CONFIDENCE」に対してこのような言葉を言っているとも書いています。Self-confidence、つまり「自信」とか「自信過剰」という意味です。このように、「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないということが教えられます。私たちが自信があるから、自分には従うことが出来る、そのような何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということではないということです。むしろイエスは彼の敬虔そうな「従います。どこにでもついて行きます」ということばにには、「彼の「自信」」を見ていたことでしょう。しかしそれが「従う」ということではないのです。イエスに「従う」ということ、それはイエスが「ついてきなさい」と召してくださったからです。イエスがみ言葉を与えて私たちを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いたからです。「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきました。むしろこの前の所では、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼ら云々は関係ない、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しがあるからです。イエスのことばによるのです。私たちもそうです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。
C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」
 そして、そのように「召され」従うことは、それは神が私たちを神の所有としてくださることであり、私たちはキリストのものとされて、つまり、キリストの責任と恵みと計画のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではない、パワハラでもない、その天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命です。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の計画があり、天の使命がある、それを与えよう」と彼を遣わしています。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まる、それ以上の天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、またはその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程の大きさ、あるいは、地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているのです。それは「わたしに従いなさい」と、みことばによる召しと、その従うという恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。従う。それは神の召し、神の恵みによることを、ぜひ感謝しましょう。

4.「従うとは、自分の決心でもない」
 三番目の人は、自分から「従います」と言いました。しかし「家族に別れを告げさせてください」といいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、
「誰でも、手を鋤につけてから、うしろを見るものは、神の国にふさわしくありません。」62節
 彼は「手を鋤につけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」者でしょう。

5.「神の国のふさわしさとは?」
A, 「私たちの自信や決心はもろい」
 今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださったでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのをやめさせました。イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうといいました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らは誰かがイエスを裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行くと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従い」得たでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で、決心しても、後ろを見るものです。今日のこの三人に投げかけられているイエスのことばを、その通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものです。
B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」
 しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で、「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその完全は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾を欠け鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスは、その全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って、死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも恵みなのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここでイエスのからだと血を与えて下さいます。聖餐は目に見える福音です。イエスが与えて下さる救いの恵みです。そして聖餐、神の国のふさわしさは、信じてただ受けるだけです。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。