2015年2月15日


「イエスとともに」
ルカの福音書 9章49〜56節

1.「はじめに」
 イエスの弟子達というとどうイメージするでしょうか。始めての人は、イエスの弟子というと、何か聖人のようにイメージするともいわれています。けれどもこのイエスと弟子達のやり取り。二つのエピソードが書かれていますが、それは、弟子達は、本当に不完全であり、イエスが伝えている福音や神の国のこともまだ十分に理解していない、いやそれどころか誤解していることがわかるのです。けれどもこのお話は、そのような彼らの不十分さをあげて責め「イエスの弟子になるのは難しいなあ」とか、あるいは「頑張って弟子になりましょう」ということを伝えているのではありません。そうではなく彼らは本当に不十分で弱さも罪も沢山あったけれども、そのような彼らとイエスはともに歩まれ、受け入れ愛して、教えて、イエスが彼らを導き育てておられる、その神の恵みを伝えてくれています。

2.「ヨハネの思い込み」
「ヨハネが答えて言った。先生、私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」(49節)
 まずこれはこの前の言葉から続けて言っていることがわかるのですが、この前、48節では、弟子達は「誰が一番偉いのか」と論じていました。そんな弟子達に対して、イエスは「この地上の国では、一番偉くなることが重要かもしれないけれども、神の前や救いにおいては、一番偉くなることが大切なのではなくて、むしろ一番小さくなり小さな子供を受け入れるようなことなんだよ。何より自分はそのようにあなたがたを受け入れていますよ。」と教えたのでした。そのように教えた後に、弟子のヨハネが言うのです。「先生、私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」と。弟子のヨハネという人物とその兄弟ヤコブは、イエスからボアネルゲというあだ名を付けられていました。それは雷の子という意味で、このヨハネとヤコブは情熱的ではあるのでしょうけれども、性格が熱しやすく激しいを表していると言われています。まずヨハネは、イエスの教えていることを理解していません。自分たちのようにイエスの正式な弟子として認められて歩んで来た、以外の人が、イエスの名前で悪霊を追い出していたというのです。その人は、ある意味、それは凄いことです。誰だとはかいていません。しかし誰であっても、その名によるなら、イエスの名は本当に悪霊を追い出すことが出来ることを伝えていますし、そして対照的に、この前の40節では、イエスが山に行っていていない時に、弟子達が、霊につかれた子に対して、追い出そうとしてみてやってみたけど追い出せなかったのです。そしてその時、イエスは不信仰を嘆いたともあるのです。ですから、今日のこの名も知らないその人は本当に「イエスの名はできる」」と信じてやって追い出した、その人の信仰も凄いと思わされるのです。しかし、ヨハネはそれをやめさせました。それは「仲間ではないから」と言っています。ヨハネは、あるいはヨハネだけではないかもしれません。弟子達皆で弟子の中で「誰が一番偉いか」と論じていたわけですから、皆、イエスの弟子であることを誇りに思っていたでしょう。そして、彼らは誤解しているのですが、そのイエスがメシヤとして果たそうとしていると彼らが思っているイスラエルの政治的な解放と再びの繁栄の時の、まさに中心になるであろうグループ、存在です。自分たちのグループ、仲間は特別である、他とは違う、自分たちこそ本物だ、そのような意識がここにはあるでしょう。だから、自分たちの仲間ではないので、やめさせた。ヨハネの思いでした。これは何時の時代も、誰にでも、どこの社会にでもある、特有の意識と言いますか、アイデンティティーといいますか、そのグループへの帰属意識からくる、「自分たちは、特別である、他と違う」という価値観です。それは弟子達にもあったことがわかるのです。「誰が一番偉いのか」と論じる位なのですから。しかしイエスはいいます。

3.「やめさせることはない」
「しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。」あなたがたに反対しないものは、あなたがたの味方です。」 (50節)
 イエスはそんなヨハネに優しく教えています。「やめさせることはありません」と。「あなたがたに反対しないもの」とありますが、つまり、イエスの名を信じて行なったその人でしょう。そのようにイエスの名を、イエスをキリストであると、信じるものは、みなあなたがたの味方ですと、イエスは教えるのでした。グループ意識やそのグループの特別観や、自分たちの群れは他とは違う、特別だという意識は、それは地上の営みでのことです。地上の物事、心配事、誇りです。しかしイエスにとって、神の前、神の国にとって大事なことは、ただ一つ、それはイエス・キリストとその名であると。そしてそのイエス・キリストにあって、その名にあっては、一つであり、イエスの名前に反対しないなら、みな仲間であるとイエスは教えています。御霊は一つ、教会は一つとパウロが教えていることは、ここにもあります。救いや神の国の前にあって、大事なのは、地上のヨハネのような心配、「自分たちのグループかどうか」、「そうでないからやめさせるかどうか」ではないです。神の国と救いにおいて、大事なことはただ一つ、イエス・キリストと、その名である。イエスはヨハネに、そして現代の私たちにも、そのことを伝えてくれています。
 
4.「ヤコブとヨハネの進言」
 次のところではヨハネ、ヤコブの兄弟ですが、
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐと向けられ」(51節)
 とあります。ここでもイエスは、はっきりと「天に上げられる日」と、これから負う十字架の死と復活をまっすぐと見ていて、そのために、まっすぐエルサレムに向かっていることが分るのですが、あるサマリヤの町を通る時のことでした。32節にある通りに、イエスは弟子達に使いを頼み、サマリヤの町に入って、滞在のためでしょうか、食事のためでしょうか、準備をするように遣わしたのでした。しかし「イエスが御顔をまっすぐにエルサレムに向けて進んでいたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」(53節)とあるのです。サマリヤ人なので仲の悪いユダヤ人である一行とイエスそのものを受け入れないというよりも、すでにサマリヤでもイエスのことは伝わっていたのですから、ここにあるように、イエスがエルサレムにまっすぐと進んで、目標が定まっているということで、自分たちに何の利益もないと思ったのでしょうか。その町のサマリヤ人達は、食事の場所なのか滞在の場所なのか、入ること、準備をすることを拒んだ、受け入れませんでhした。詳しいことは分りませんが。しかしその「受け入れなかった」ということに対しヨハネとヤコブはいうのです。
「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)
 彼らの、何か彼らに特別な権限や力、自分たちを受け入れない、自分たちに反対する人を、裁く力が自分たちにあるかのようなまったくの誤解です。彼らが、イエスの救い、神の国をまったく誤解して、政治的な強い権限をもった地上の国の回復と、そのために自分たちは特別に選ばれたのだ、偉いのだという意識を持っていたことを伺い知ることが出来ます。そしてそのために天の力も彼らは信じています。しかし彼らはその天の力は世を裁くために自分たちに与えられているし、イエスはそのためにおられるという、何重もの誤解も分かります。イエスの言う神の国、福音、当然、十字架と復活のこともまったく理解できていないのです。彼らのイエスや、神の国や救いへの期待はまったく的外れの状態なのです。

5.「イエスの計画」
 イエスは、そのような二人に対して振り向いて「ではそうしよう」とは言いませんでした。イエスは、彼らを厳しく戒めたのでした(55節)。イエスの思い、そして地上にこられた計画は、このような受け入れない人々や町々を、天から火を呼び下して焼き滅ぼすことにあるのではないからです。むしろ全ての人々をそのような滅びから救うためです。そうなのです。イエスは、私たちすべての人の救いのためにきました。この時も、このサマリヤの人達はもちろんです。この人々はもちろん、この受け入れない町ももちろん、全ての人々のために、十字架にかかって死に、よみがえるために、イエスは、エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいるのです。ですから、天から火を呼び下し焼き滅ぼすなど、まさにそれはイエスが来られた目的とはまったく逆、そのイエスの目的と計画を妨げる彼らの進言であったのです。それをイエスは戒められました。
 ここに大事なメッセージがあります。イエスは、裁くために世に来られたのではありません。聖書ははっきりと伝えています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネ3:16〜17
 イエスの目的、イエスが何のためにまっすぐにエルサレムで受ける十字架の死を見て向かっていたのかは、このためです。私たちはこのサマリヤ人のように、自分では神を信じることが出来ないものです。自分では神を受け入れられない拒むもの、否定するものでしょう。そして恵みによって従う者になっても弟子達のように、自分では知ることも理解することも出来ないし、誤解したり、御心や御言葉の逆を思ったりしてしまったり行なったりするものです。本当に私たち人間は皆、神の前にただただ背を向けてはなれて行こうとする、神を必要ないと拒もうとする、そのような意味での罪人ではないでしょうか。そしてそのままでは私たちは皆、神の国に入ることが出来ない、神の受け入れられないもので終わる存在でした。神に背く罪のままでは、天国に入るどころか、私たちは神の裁きを受けなければならないと聖書は伝えています。しかしイエスは、そんな弟子達、そんなサマリヤ人、そしてそのような私たちのために世に来られ、裁くのではない、火を呼び下し焼き滅ぼすのでもない、イエスはまっすぐエルサレムへと向かわれます。そして、そのような、弟子達、受け入れないもの、罵り殺そうとする者、そして全世界の人々、私たちの圧倒的な罪深さもすべてご存知で、そのすべての罪を代わりにその身におって、十字架で死んで、罪の償いを私たちの代わりに神に対してしてくださったのです。私たちにはそれはわからない、気づかない。しかし神はこのイエスを十字架で死なせて、その十字架によって、一方的に人類に罪の赦しを与えて下さった。滅ぼすため、裁くためではない、まさにそのイエスを代わりに死なせる程に私たちを愛して下さり、その愛をこの十字架で表し、その罪の赦しの救い、神の前に罪赦されて神の国に受けいれられるその恵みをそのまま信じて受けるものに、与えて下さるのです。裁くためではない、滅ぼすためではない、すべての人、私たちに救いを与えるために、そして、天から火や滅びではない、イエスを通して天からの本当の素晴らしい新しさ、いのち、喜び、平安を与えるために、神はイエスを送って下さった、イエスは来られた、そして、このエルサレムの道を進まれるのです。神はこのイエスとその救いをそのまま受けれなさいと招いています。そのままイエスを受け入れ、この罪の赦しをそのまま受けるなら、誰でも救われる、誰でも神の国はその人のものです、誰でも新しくなれると、招いています。ぜひそのままイエスを、イエスが与えて下さるすべてをそのまま受けてください。

6.「弟子はイエスとともにあって」
 そして、最後の恵みです。まさに弟子達もイエスから受けるだけの存在として見ることができるでしょう。弟子達そのものは不完全で教えらたことも理解できない、罪深い一人一人です。しかしそのような弟子達を、絶える事なく、教え、導き、育て、養い、成長させたのは紛れもなくイエスでした。彼らは理解できませんでした。誤解していました。しかしやがて復活ののち、イエスが、彼らの目を開かれて、イエスが彼らに、イエスのことばが伝えていたことの意味を、理解させ、悟らせました。そして彼らに尚も御言葉と聖霊と力を与え、それによって彼らを用いて、イエスはご自身の名を、福音を伝えるように用いられたのです。弟子達に何か力があったのでは決してありません。彼らにあったのは、イエスご自身、その名、その言葉と力、イエスの恵みだったのです。私たちもそのようにイエスの名こそ与えられています。イエスの言葉と恵みが豊かに与えられています。ですからその恵みによって私たちも歩むことが出来るのです。そしてそれが喜びと平安にみちたイエスが与える救いにほかなりません。